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直鳥クリーク公園 (2023/02/23 訪問)

 犬塚氏の居城であった城で直鳥クリーク公園として整備されています。曲輪も水路もそれなりに残っています。

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菊池武安 (2023/02/23 訪問)

 クリーク地帯に築かれた城跡で南北朝の時代に南朝方の菊池武安が築城したと伝わっています。平面的な城でどのように建物があったのか興味あります。

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少弐冬尚 (2023/02/23 訪問)

 種福寺の左側に登城口があり、案内表示とトラロープに導かれ迷うことなく主郭にたどり着けます。ただそれなりの山道ですのでトレッキングシューズなどの方がいいと思います。所々に縄張り図があり、自分がどの位置にいるかわかりやすくなっています。その縄張り図を見ると城の南側に旧、北側に新と記載してありました。案内板によると南側は小弐氏、北側は龍造寺氏、江上氏の段階の縄張りと考えられているようです。南側には井戸がり、北側へ行く途中にはいい堀切があります。北側の方に竪堀も多いのですが、浅くなっていてわかりにくいものも多い感じでした。北側主郭周辺の尾根にも堀切があります北東の尾根に降りて行くときは道がなく難渋しました。堀切、竪堀、土塁、井戸等遺構も多くあり楽しく散策させていただきました。石積みの跡かと思う所もありました。近郊には関連した遺構があるようですが、今回は主要な城域のみ散策しました。

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にのまる

銅像クイズ

赤い城さん、POYO58さん、お返事ありがとうございます。
浜松城天守門近くの松潤。
正解です*\(^o^)/*
…昨日行ってきました( ̄^ ̄)ゞ

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トク

㉕【関ケ原の26人】(13)平塚為広 (平塚為広と垂井城) (2022/11/29 訪問)

(13人目)は「平塚為広」です。
関ケ原時の居城「垂井城」を訪れてきました。垂井駅から西へ徒歩10分の所です。

城跡の石碑には詩が刻まれていました。私はこの垂井城に立ち、この詩を詠んだとたん、少し熱いものが込み上げてしまいました(すいません)。

平塚為広は秀吉の元では「母衣衆」(ころもしゅう)と呼ばれ、黄色い母衣(風船のような衣)をまとい、伝令や秀吉の周辺警備を担当していたようです。そして大谷吉継とは大変懇意の仲でした。

三成から家康を討つ決意を打ち明けられた吉継は垂井城に行き為広に相談します。そして二人は佐和山城に行き、挙兵しようとしている三成を止めようと説得します。「三成にはまだ西軍をまとめるまでの人望がない時期尚早である」と・・・

しかし三成は決死の覚悟があり、二人ともその覚悟に折れたようです。そして伏見城攻めに加わり、鳥居元忠を攻めたあと、北陸方面を制圧し関ケ原に入りました。

しかしこの時、大谷吉継の容態はかなり悪化していました。吉継は為広の垂井城に入り療養しますが、家康が関ケ原に向かっていると聞き、もはやじっとしているわけにはいきません。持ち場の玉城に戻り、その麓に陣を構えて小早川秀秋と対峙します。

為広は同行し、病気で目が見えぬ吉継に代わり大谷軍を指揮しました。そして藤堂高虎や小早川秀秋と対等に渡り合い、一進一退を繰り広げ何とか持ちこたえていましたが、脇坂安治らが寝返るともはや持ちこたえる事ができません。最期に、この詩を吉継に届けた後、もはやこれまでと藤堂高虎めがけ突進して行きました。

 名の為に
 捨つる命は惜しからじ
 遂にとまらぬ憂き世と思へば

こう詠んだ為広に対して、吉継はこう返したそうです

 契りあらば
 六つの巷(ちまた)にしばし待て
 後れ先立つことはありとも

しかしこ返詩は届く事はありませんでした。なぜならばこの時、為広はすでに討死していたからです。

次は、(14人目)へ続きます。
 

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POYO58

クイズに割り込み

にのまるさんのクイズあれですよね。まず銅像から誰かは想像できると思いますが、赤い城さん、場所は後ろにある門がヒントですね。この後ろにある門は天守門ですよねにのまるさん。っていうかまえ行ったばっかですね。答えは言いませんが…

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まーやん

大垣輪中 (2023/02/19 訪問)

今回の城旅は家康に関連し、と言いながら三河や駿河に行っている間がなく関ヶ原〜輪中というテーマで2日間の行程とした。
大垣城には何度か来たことがあるが、「輪中」という言葉を意識した訪問は初めて。輪中とは、河川に囲まれた堤防内に形成された集落などを言い、木曽三川域で発達したものとのこと。知らなかった。
大垣輪中は揖斐川、杭瀬川、牧田川などに囲まれていた地域。
城主は数多いるが、城内には最後の改築をした戸田氏鉄の銅像が建っている。
大垣城は関ヶ原合戦で西軍側の拠点であったため、西軍敗北後包囲され落城する。この時の様子を三成の家臣山田去暦の娘おあむが後世子供達に語った内容が「おあむ物語」として女性目線の武家の様子を描いた貴重な資料とされているらしい。
館内の展示は私好みで楽しい。

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まーやん

竹中氏陣屋跡 (2023/02/18 訪問)

この日は関ヶ原〜大垣城を攻めるため近江から東進し竹中氏陣屋跡を訪問した。
お城エキスポで垂井町のブースがあり凄く熱心にご説明いただいたので一度訪れてみたくなった。
まずは竹中氏菩提寺である禅幢寺を訪れ、半兵衛ほか歴代の方々にお参り。
菩提山城はなかなかな山なので予定満載かつ雨天のこの日はパス。陣屋跡に行った。
今も櫓門跡や石垣などが良好な状態で現存する。
菩提山城は半兵衛の父の時代、陣屋は子の時代に形成されたが、櫓門跡には半兵衛の銅像がある。軍師半兵衛の知名度が勝るゆえか。
半兵衛の子重門は父の影に隠れたような扱いがあるが、関ヶ原の戦いでも功績を上げている。時勢を読み竹中氏存続の基礎を築き、関ヶ原の戦後処理も行うなど立派な御仁かと思う。

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イタさん

国指定史跡 比企城館跡群の一つ (2023/02/21 訪問)

 パンフレットには、「今のところ戦国時代の文献資料は確認されておりません。城主は不明ですが、江戸時代の(新編武蔵風土記稿)では小田原北条氏の重臣である遠山氏、(武蔵誌)では遠山氏あるいは上田氏とも伝えています。過去の発掘調査の成果から、天文~永禄年間(1532~1570)頃に盛期を迎え、天正年間(1573~1592)後半頃に使われなくなったものと推定されます。」と載っている。

 大福寺から登ると郭3と郭1下の東帯郭の間に着く。郭3をコの字に囲む石垣は120メートルとあるが、郭3の虎口に回り込むのは通行禁止、郭内の虎口も通行禁止になっていた。郭1東虎口に架かる橋も禁止。枡形虎口は発掘調査中でした。北郭群への道にもロープが張られ、北郭群は大福寺から北に5分ほど先から北尾根を行くしかないので諦める。
 郭1の北虎口にも石積みが確認できる。郭内は北が高く2段となり、周囲の土塁も高い。東虎口と南虎口間の土塁下には石積みが確認されているが、埋め戻している、と標示されている。郭2下の腰郭手前から東に下れば郭5に着く。途中の斜面にも虎口風の遺構があり、石積みが見える。郭4の手前には大堀切・土塁跡があり、折れを伴っている。折れの上は郭2の西隅で、櫓台状の高まりになっている。郭2内は土塁がよく残り、西隅を含め木が伐採され見晴らしが良い。

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赤い城

にのまるさんクイズ回答と・・・

まずはにのまるさんクイズの回答ですが、
「雰囲気」「旬」「にのまるさんご出題」と先日の朝田さんコメントから推測すると松潤なのでは無いでしょうか。
場所が分かりません。
建物があるので岡崎か浜松だと思いますが。

で、栃木の城クイズです。
ここも前回同様、行ったことある方多いと思いますがここまで行った方は少ないのでは?
多分前回の久留里城よりは易しいと思います。
今回もどなたにお答え頂いても構いません。

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イタさん

本郭からの展望がよい (2023/02/21 訪問)

 町の観光HPに「松山城主上田氏の家老として仕えた、山田伊賀守直定の居城と伝えられています。標高216mを測る本郭を中心に、大小17の郭が残されています。竪堀が多く用いられ、巧みに組み合わされた小口のつくりなどが特徴的で、戦国時代の典型的な山城です。」と載っている。

 登城口から登り詰めると尾根に出て、右は官ノ倉山方面の尾根になる。出た場所を含め堀切が二重で本郭へは東斜面を巻く。通常の本郭への道は、通行禁止になっており、西の郭側から二の郭に出て本郭へ向かう。途中には帯郭・横堀?・竪堀などが残り、囮小口下には石積みがある。西の郭を分ける堀切、西から回り込む小口跡・囮小口上部を過ぎ二の郭へ向かう。上段の平地から本郭小口へ、郭内は奥がやや高くなり、小口辺りに土塁跡が僅かに残る。

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カズサン

下屋敷本丸二階櫓 (2023/02/23 訪問)

 下屋敷に本丸東角の土塁上に9尺(約2.7m)の石垣に載った重箱型の二階櫓が移築されて居ます、田中城には天守閣は有りませんでしたからこの二階櫓が土塁と石垣に載って物見櫓の様な役目をして居たのでしょうか?
 安政の大地震にも耐えて残った現存建物です、明治維新に成って田中城は静岡藩の領有として幕末三舟の一人高橋泥舟が入り預かった、明治3年に泥舟の4男を養子に迎えた配下の村山氏に払下げ住居として使用、今回の下屋敷整備に村山氏から市に寄贈されたもの。(案内板に由る)

 現存本丸二階櫓は下屋敷冠木門の西隣、往時の様に9尺の石垣上に移築されている、一階二階とも同じ部屋間取りの重箱型、室内はどちらも各種資料が展示されている、一階入口には本丸二階櫓の模型が飾って有り、二階櫓、田中城を勉強するのに十分の資料が有ります、冠木門受付にパンフレット各種あり。
 二階から庭園内を見下ろせて眺望良好です、桜の時期は西側の六間川沿いの桜並木が咲き揃いさぞ見事な事でしょう。

 下屋敷庭園に続きます。
 

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カズサン

下屋敷建物群 (2023/02/23 訪問)

 田中城の史跡マークの付いてる遺構群を歩いて探訪しようと、駐車場の有る下屋敷に向いました。
 先ずは下屋敷探訪。


 下屋敷住所:静岡県藤枝市田中3丁目14-1
 下屋敷駐車場:静岡県藤枝市田中3丁目15 乗用車50台位は可能、案内板在り、トイレは下屋敷に完備
 移築門旭傳院住所:静岡県焼津市保福島680 下屋敷から南東に約500m程で参拝者駐車場有。

 下屋敷の整備は昭和60年ごろから地元民の熱意で明治初め民間に払下げされた本丸2階櫓を市に寄贈し、六間川の改修、庭園整備改修、移築建物の建直し等行って平成8年8月1日に史跡田中城下屋敷としてオープンしました。
 18年前の平成17年1月には復元整備成った田中城下屋敷を訪ねて居り2度目の探訪です。

 遺構建物は本丸東角に在った二階重箱櫓、城内に在った仲間部屋・厩、もと下屋敷に在った茶室、長楽寺村郷蔵が移築整備されて居ます、南側の入口には冠木門、北東駐車場側には史跡田中城下屋敷看板が架かった入口門が整備されて居ます。
 下屋敷の周囲は屋根付き白土塀で下部はなまこ壁付きの豪華な仕上げです。
 また近くの旭傳院山門が移築門です、南東に約500m程。(情報は城郭放浪記さん)
 建物個々の解説板も合わせて写真投稿しますので詳細は解説板をお読みください。

 本丸二階櫓編で続きます。
 

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イタさん

堀・土塁がよく残る (2023/02/20 訪問)

 現地案内板には、「築城時期には諸説あり、1200年代(鎌倉時代)に武士の館として使われ、1400年代始め頃に、現在の堀や土塁が拡充・整備されたと推定されます。縄張の説明。1500年代の終わり頃に落城したと推定され、最後の城主は武州松山城主・上田朝直の家臣、山田伊賀守直安と伝えられています。」と載る。

 駐車場を西へ行くと、本郭の北隅になり堀の左右、周囲は整備され見学しやすい。本郭内は南を除き土塁が残り、東の欠けた所が虎口らしい。本郭内同様、二の郭も畑・果樹(栗?)になり、北側には民家が集中する。堀・土塁は西側のホテル街から関越道まで、竹藪ではあるが残っている。土塁の折れ部分に、崩れ防止に石積みした土塁の高さが実感できる。関越道東側には、一部だが二の郭堀跡があり、更に東には三の郭の堀跡を思わせる凹が民家裏に見られる。

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todo94

三矢の訓え (2023/01/28 訪問)

小倉から新幹線で徳山へ。周南市という地名にはまだ馴染めません。勝栄寺へはレンタカーを借り受けて赴きました。きれいな土塁が残っています。毛利元就が子どもたちに宛てて教訓状を認めた地であるとのことです。環濠は埋め立てられていますが、水流がデザイン化されています。

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三浦の晃ちゃん

謙信公 (2023/02/24 訪問)

言わずとしれた上杉謙信公の居城です。今回は、雪が深くて大変だろうなと思ったので、遠景のみです。撮影は、上越市埋蔵文化財センターからです。ここで、御城印も、販売しています。すぐ近くには、謙信公が、幼き日々に学んだ、林泉寺があり、そちらにも行きました。

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三浦の晃ちゃん

雪の中 (2023/02/24 訪問)

桜の季節には、来たことがあるのですが、この季節は、初めてのきました。雪の中も、いい雰囲気でした。ちょっと、失敗をしました。休館日に、「祝日の翌日」とあるのを見落としてました。御城印が、販売されている上越市立歴史博物館も、休館日でした。(御城印は、近くの上越市埋蔵文化財センターで、休館日の特例で、購入できました。)

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にのまる

栃木県コンプおめでとうございます🎉

赤い城さんおめでとうございます㊗️
先日は清川さん、正解いただきありがとうございます♪

では、おめでとうクイズです。
↓これは誰の後ろ姿でしょう!?

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赤い城

凝灰岩の採掘場で一部欠損 (2023/02/18 訪問)

片田小学校の向かいに少し降りていく道があり、駐車スペースもあります。
小川が流れていて土橋状の登城路があり、進んで行くと岩盤を削った堀切があります。
遺構なのか後世のものなのかは分かりません。
ここから登って行きますが道はなく直登です。
そんなに高くなく比較的楽に登れます。
主郭の下には浅い横堀がありました。
主郭は土塁で囲まれていて虎口も残ります。
一部採掘のため欠損してますが土塁は郭を一周しています。
片田義隆の築城とされますが詳細は不明。
尾根伝いに金丸氏要害もありますが今回は自重しました。
で、先日の千葉県に続き栃木県の登録城もコンプリートです。
栃木も良い城たくさん、未登録で未訪の城もあるのでじっくり廻りたいです。

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Maho

二条城 (2023/02/16 訪問)

京都に一人旅✨

平日に訪れたので、観光客は少なめで穏やかな雰囲気でした。
工事改修が終わったらまた行きたいな。

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