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朝田 辰兵衛

葛尾城散策 2/2(山頂部石垣→磯部口登城口)を。 (2023/05/04 訪問)

GW遠征の一番の楽しみは,葛尾城散策でした。雨男ゆえに,雨を心配しておりましたが,猛暑に見舞われました…<苦笑>。
往路は,坂城神社登城口から,徒歩約55分で山頂部到着。東屋にノートがあったので記帳。そして,北側尾根に向かって散策開始。大小6~7本(たぶん)の堀切を経て,石垣にたどり着きました。見どころは,この石垣だと思います。
東屋に戻り小休憩。復路は,西側尾根を伝い,徒歩約55分で磯部口登城口へと。坂城神社ルートに比べると「ワイルド」です。途中に岩崎城があるハズだったのですが,とくにパネルも碑もなく,確定に至りませんでした。ただ,この堀跡と土塁は間違いないだろうというポイントは撮影しました。それなりに楽しめた西側尾根ですが,夏場や雨天時はお勧めできません。

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朝田 辰兵衛

葛尾城散策 1/2(坂城神社登城口→山頂部)を。 (2023/05/04 訪問)

GW遠征の一番の楽しみは,葛尾城散策でした。雨男ゆえに,雨を心配しておりましたが,猛暑に見舞われました…<苦笑>。
往路は,坂城神社登城口から,徒歩約55分で山頂部到着。東屋にノートがあったので記帳。そして,北側尾根に向かって散策開始。大小6~7本(たぶん)の堀切を経て,石垣にたどり着きました。見どころは,この石垣だと思います。
東屋に戻り小休憩。復路は,西側尾根を伝い,徒歩約55分で磯部口登城口へと。坂城神社ルートに比べると「ワイルド」です。途中に岩崎城があるハズだったのですが,とくにパネルも碑もなく,確定に至りませんでした。ただ,この堀跡と土塁は間違いないだろうというポイントは撮影しました。それなりに楽しめた西側尾根ですが,夏場や雨天時はお勧めできません。

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カズサン

虫川城と虫川の大杉 (2023/06/18 訪問)

 直峰城から北に直線で約3km程の所に虫川城は在ります、林道から国道403号線に戻り県道43号線を北上、史跡マークの虫川の大杉を目指します。
 以前三宅裕司の旅番組で虫川の大杉が登場し道すがら案内看板に虫川の大杉と虫川城跡の文字が映って居ましたので記憶に有りました。

 駐車場:虫川の大杉の有る白山神社駐車場利用。(37°09'18"N 138°26'47"E h=50m) トイレ無し。

 先ずは虫川の大杉の見学と白山神社参拝、幹の太さの驚愕、樹齢1000年以上、目通し10.6m、樹高30m、枝周り・東に14m 西に13m 南に8m、北に12mの巨木です。樹木保存の基金箱にささやかな寄付はしました。

 虫川城跡はそこから北へ集落を通って150~200m程で虫川霊園に当たり、そこな根小屋跡、馬場跡で鳥瞰図付虫川城解説板がある、霊園参拝者の砂利舗装駐車場も有る。
 比高は40~50m程、墓地の東に登城口、回り込んで二の丸への堀底道を通り二の丸へ、全体に熊笹が茂ってる、切岸丸太階段を登り腰郭跡、城門跡、井戸跡の看板の有る曲輪へ道以外は藪状態、回り込んで本丸下の曲輪と土塁、本丸丸太階段を登り本丸へ、矢倉跡の高まりが二基、一つには東屋が建っている、本丸より東、北は保倉川へ落ち込む絶壁で防備万全。

 案内板によると、三国街道を守る直峰城の支城的役割をしたのではないかと、詳細は不明。

 情報とガイドはグーグルマップ、越後の城虫川城ネット情報による。

 比高も低く、階段段差も低く膝の痛みも少し収まり登る事が出来ました。
 

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カズサン

上越市未踏の城廻Ⅱ 謙信公関東遠征の中継城郭 (2023/06/18 訪問)

 3年位前から登城したいと願って居た城でやっと訪ねる事が出来ましたが両ひざ痛で登城途中断念。
 直峰城はノウミネジョウと呼称されています。

 駐車場:専用の駐車場、トイレ完備、(37°08'19"N 138°27'03"E h=240m 比高90~100m) 国道403号線に案内看板が有り、林道を約900mで到着、アスファルト舗装です。トイレにパンフレットが有りました。
 案内ガイド:古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。

 前日は午後過ぎに箕冠城登城と春日山城再登城で以前から左ひざの痛みが増していましたが、各重臣の屋敷跡をゆっくり見ながら登城しようと搦手登城路を選択、その前に二階建てトイレの前面に掲げてある、直峰城跡俯瞰図付き解説板、散策のご案内図、武将・風間信濃守信昭の解説板を確認撮影し、スタート、当日草刈の人材派遣の軽トラックが6台駐車しており既に山城中より草刈り機の音が鳴り響いている。
 案内看板は搦手側、大手側とも徒歩約15分と記されている、丸太階段を登り、上杉藤五郎房友殿屋敷跡、隣の池が水を湛えてる、更に進み、池田隼人正賢殿屋敷跡、家老宅馬若狭守殿屋敷跡、丸太階段を更に登り、三の丸へ続く直登り丸太階段辺りで今度は右ひざが痛み出し、登城路は朝から草刈がされておりコンデションは良く、熊も6人の草刈り機の音で逃げて居る事でしょうし、絶好の登城日なのですが、両ひざの痛みではままならず、引き返すことにしました、誠に残念です。
 高低差のある階段ではひざに痛みが来るかも? 大手道の観音堂までは足を延ばしました。

 時空を超えて謙信公と場所をおなじゅうした事でも良しとしました、中々来れないところですので誠に残念でした。
 皆さんの投稿写真で行った気分にしたり雰囲気を楽しみます。

 

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Fカット

駐車場とパンフレット (2023/06/18 訪問)

駐車場、トイレもあり、道に迷うことなく案内板があります。駐車場のところのポストにパンフレットが入っています。
駐車場までの道は離合できるところが少ないので注意が必要です。

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モト

資料館になっている模擬天守がありました。 (2023/06/23 訪問)

別名天ケ城というみたいです。
地図には天ケ城となっておりました。
資料館が建っていて、カッコ良い城の形をしてます。
ほんと見た目かなりカッコの良い模擬天守でした。
資料館は土日祭日オープンです。

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トク

㊾【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と津城) (2023/02/11 訪問)

(19人目)藤堂高虎の続きです。
高虎の最後の居城となった「津城」を訪れてきました。
名鉄「津新町」駅から歩いて15分程です。

ここにも藤堂高虎の像がありました。ここは今治城と違って、鎧兜(よろいかぶと)姿の勇ましい高虎でした(写真①②)。城の横には高虎を祀る高山神社があります。スタンプ場所の社務所には高虎の肖像画があり、願札がほほ笑ましかったです(写真⑥-⑩)。

高虎が今治城を築城開始してからわずか6年後の事、もう少しで天守が完成という時に伊予から伊勢へ国替となったのが、私には何故かとても不自然に思い気になっていました(普通なら断るはず)。この時大坂では不穏な動きがあり、表向きは豊臣と万が一戦になった時、要衝地の伊勢や背後の名古屋城を守るため、また大坂方の(豊臣諸将にも信頼されている)調略上手の高虎なら周辺諸将を徳川方に寝返らせる事ができるのではないか? などといった理由もあったようです。しかし私は本当の理由は、伊予隣国の加藤嘉明との不仲が表にあらわれ、一発触発状態になったため、それを避けるためにあわてて国替えしたのではないかと思っています。記録にはないのであくまで私の勝手な推測ですが、高虎の方から嘉明との争いを避けるために自ら国替えを申し出たのではないかと思いました(その時たまたま伊勢の領主を募集していた)。

嘉明とは、朝鮮出兵での論功行賞でのいざこざが始まりで、伊予でも国境を巡り常に争いが絶えず、家臣たちの間で騒動(拝志騒動)まで起きてしまい、もはや一発触発状態だったようです。よってその影響もあり、高虎は悩んだあげく自ら身を引いたのではないかと思います。何故か私には高虎という男がそういう人物だったような気がしてなりません🤔。

そして、その20年後の1627年、会津40万石の蒲生忠郷に嫡子が無く、代わりに徳川秀忠から高虎に加増転封を打診されました。しかし高虎はそれを断り、代わりに何と!・・・加藤嘉明を推挙したとの事です。 嘉明は自分を推挙したのが高虎だと知り、松山から会津への途中に高虎を訪ね、推挙のお礼に今までの事を全て詫びたそうです。何か美しい話だな~と思いました。そして津藩は、そのまま幕末まで藤堂家が治める事となりました。

また関ケ原の4日後の事、捕らえられた石田三成は大津城の門に縛られていました。福島正則らが罵声を浴びせる中、高虎はわざわざ馬から下り「貴殿の隊は大変強かった。貴殿から見た私の隊はいかがであったか?」と尋ねたそうです。すると三成は鉄砲隊に優秀な指揮官がいなかったため命中率が低かった事を指摘したようです。この言葉に高虎は大変感謝したとか・・・

高刑の意思を引き継いで大谷吉継の墓を建てて菩提を弔い、そして石田三成には見事に戦った武将として最後まで敬意を払い、また加藤嘉明との揉め事も最後は広い心で丸く収めたこの藤堂高虎に対し、私は「好プレー賞」をあげたいと思います!!!😊

次は、(20人目)へ続きます。
 

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赤い城

新天地 (2023/06/20 訪問)

8月からの新天地、高松へ家を探しに行ってきました。
1日目で決まったので2日目は早起きして高松城を散歩出来ました。
早朝だったので外周を歩くだけ、と思ってたらこの時季は5:30開門。中も散歩できました。
まずは外周です。
西門から石垣と水堀を見ながら海側を進みます。
月見櫓は改修中でした。
レグザムホール、県立ミュージアムを経て大手へ。
艮櫓を見上げながら南側を進み一周。
西門に戻り二の丸へと入って行きました。
入園祝は200円、1年間有効の定期入園券もあります。
二の丸からまずは復元された天守台へ。
鞘橋を通り桝形の虎口を経て天守台に登りました。
見晴らしも良く気持ち良いです。
天守の再建計画もあるようですが今後どうなるのか。
二の丸に戻り、鉄門から水門を経て披雲閣。
さらに再建された桜御門を通り大手にかかる旭橋から出ました。
これからはこの城下で過ごすことになりますが期待半分、不安半分。
まぁなんとかなるでしょう。
とりあえず引越準備しなきゃ。

あさん、メッセージありがとうございます。
確かに関東を離れることは少し前から考えていて未訪や再訪したい城を駆け足で廻ってきました。
四国ではじっくりと廻りたいです。

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しんちゃん

加藤氏による総石垣の城。支城とはいえ本城のスケール感。 (2023/01/04 訪問)

八代城は熊本城と麦島城で一国二城制を取っていた肥後の国に
麦島城の廃城後に築かれました。
最大の目的は島津勢力の牽制だと思われます。
外様大名を抑えるために外様大名を利用するという発想もいささか
安直だとも思われますが‥。事実、外様大名が結託することで徳川将軍家は
滅んでいます。江戸で暮らす将軍や大老たちにとっては
遠い九州のことなどそれほど頭になかったのかもしれません。
八代城は周囲を見事な石垣で覆われ、今でも本丸の周囲は堀で覆われています。
現在は左寄りの中心地に八代宮が建ち、南から橋を渡ってすぐにたどり着きます。
北西部に小天守台と大天守台があるのでそちらに向かいます。
天守台も見事な石垣で加藤氏が築いた天守がどれほど立派であったか想像できます。
北と東にも橋がかかっており、石垣の周囲に沿って6つの櫓跡が並びます。
加藤氏にとっては支城の位置づけに当たるのですが、まったく隙も手抜きも無い造りに
あらためて加藤氏の城だなあ‥と実感がわいてきます。
全体的には熊本城をスケールダウンさせた感じですが、そもそも熊本城が凄すぎるんですよ。


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しんちゃん

出水麓の武家屋敷群。べんがる壁の税所邸。 (2023/01/04 訪問)

出水城は現在立ち入り禁止になっているのですが
出水小学校が出水麓の仮屋跡として、仮屋門が現存しています。
江戸時代、各国は支城を持つことを禁じられていましたが
薩摩藩は各地に代官所(麓)を置くことを口実に詰めの城をいつでも使えるようにして
いざという時に備えていたと言います。
いわば薩摩藩自体が独立した軍事国家の体制をとっていたと言ってよいでしょう。
薩摩の入り口にあたる出水はとくに若い武士たちの教育に熱心であり
勇敢で実直な薩摩隼人としての資質をよく備えていたと言います。
出水麓にはいくつか武家屋敷が残っていて、特に税所宅には面白い指向が施されています。
屋敷の壁が赤いのは薩摩藩が密貿易で富を得て、その富で海外から輸入した高級な顔料を
壁に使用しているからだそうです。べんがる壁‥というらしいですよ。
ほかにも床下に通じる隠し通路があったり、屋根裏に秘密の部屋があったり
まるで忍者屋敷のようです。

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しんちゃん

城主が目まぐるしく変わった城。水俣氏は領地と城に名を残す。 (2023/01/04 訪問)

水俣城はかつて水俣氏によって築かれたと伝わります。城主が何度も入れ替わり
天正9年(1581)相良義陽配下の犬童頼安が城主の時代に島津氏の大群に取り囲まれ
相良義陽は降伏、葦北郡を島津氏に明け渡し水俣城から撤収しました。
今回は北側の駐車場に車をとめ、そこから攻めていきます。
入る口付近に古い石垣らしきものが見えます。
一度最高所にのぼりますが、このあたりが高城の本丸でしょうか。下に赤い社が見えますが
この下側に井戸跡と石垣があるらしいです。(今回は未確認)
一度中段の東福寺まで降り、東の古城跡に登ります。
この古城と呼ばれる郭は高城の時代にも見張り台や郭として機能していたと思います。
現状で確認できる石垣は北側にある部分だけでしょうか?
次はいつ来れるかはわかりませんが、その際には井戸跡も確認しておきたいです。

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しんちゃん

詰めの城の無い仮屋の跡。かつては寡兵で大軍を相手取る。 (2033/01/04 訪問)

平佐城は応永14年(1407)ころから記録が残る、島津氏の城です。
豊臣秀吉の九州征伐の際、島津氏の地頭桂忠昉が300の兵をもって籠城し
8500の豊臣勢を相手に戦いました。
江戸時代は島津系列の平佐北郷家の私領となり、かつての二の丸跡に領主(地頭)
の仮屋が置かれました。
現在の平佐西小学校がそこに当たり石碑が立っています。
訪問した際には、正月でもグラウンドで子供たちが遊んでいましたが、
同伴の保護者の方にお願いして石碑を確認させていただきました。

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しんちゃん

元八代城で国の史跡。キリシタン殉教者列福公園がある。 (2023/01/04 訪問)

国の史跡、麦島城は天正16年(1588)小西行長が重臣の小西行重に命じて築かせた城です。
球磨川に面し、海上交通の要所であり、南蛮貿易の拠点として機能したとも考えられています。
後に加藤清正の預かるところとなり、後の一国一条令以降も
熊本城との二城体制が維持されました。(宇土城は破却)
元和5年(1619)の大地震により城は倒壊し、今の八代城が築かれたといいます。
麦島城跡は球磨川と前川の境に浮かぶ中州の中にあります。
キリシタン殉教者列福公園の南にある少し高い土盛りがかつての天守台になり、
この周辺が本丸になります。少し南に進むと広い道路につきあたり、東側が二の丸の方向になります。
今回は本丸、二の丸の周辺を散策し、三の丸のあたりは車でざっと周回して
麦島城をあとにしました。

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ぴーかる

願証寺 (2023/05/03 訪問)

【願証寺】
<駐車場他>願證寺駐車場またはやすらぎパーク駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅9城目。城びとポイントの願証寺は明治時代の木曽三川分流工事によって長良川に水没しているため先達の方達と同じく、長島城跡近くにある願證寺の山門前まで訪れました。
 願証寺は少なくとも1492年までに本願寺蓮如の6男蓮淳によって創建されています。1570年頃から本願寺顕如は信長と敵対することを表明してここから約4年間信長VS長島一向一揆の戦いが起こります。1574年に長島城の落城とともに願証寺僧侶と妻たちも次々に討死や入水自殺したそうです。願証寺は木曾三川の中州のデルタ地帯、砂州にあったそうです。

<満足度>◆◇◇

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巨石ゴロゴロ (2023/05/27 訪問)

ゴロゴロある巨石をうまく守りに使っているとの城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。登城口へは山あいをずいぶん入って行きますが、登城口の駐車場近くまで集落や水田が続きます。また、本郭からは、日本海までも見張らせ、そんなに辺鄙ではない感じ。
登りは左ルートで本郭を直接目指し、下りは、天女伝説の巨石や西尾根の郭、石垣を見る右ルートを取りました。期待通り、本郭下の帯郭から巨石ゴロゴロ。また、西尾根の郭は、発掘作業中で礎石が現れてました。登城口に四阿があり、自然及び城関係の説明パネルがあります。
本郭の模擬天守は、いかがなもんでしょう。本郭に金属板の地図があるのですが、とてもアバウトで、登城口の地図が正しいです。

赤い城さん、転職先でのご活躍をお祈りします。転職をひかえて、関東制覇をされたのでしょうね。高麗山城、東京単身赴任時に登りました。良いですよね。四国レポート期待してます。

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todo94

天草の城③~14年ぶりの本戸城 (2023/05/03 訪問)

14年前もゴールデンウィークの攻城でしたが、土砂降りの雨の中だったため、本丸城址碑と千人塚しかチェックできませんでした。今回は、殉教公園となっているキリシタン墓地やアルメイダ記念碑やアダム荒川の碑などかなりしっかりと見て回って、天草キリシタン館にも入館しました。ちょうど、重要文化財の天草四郎陣中旗の公開期間中でラッキーでした。14年前は帰路に大渋滞に巻き込まれてしまいましたが、今回は富岡城近くの民宿に泊をとるので問題なしです。

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赤い城

総構えを歩いてみた (2023/06/18 訪問)

高麗山城のあと小田原に足を伸ばしました。
駅に総構のパンフレットがあったのでそれに沿って歩いて見ることに。
西口の北条早雲像を過ぎ、白秋童謡の散歩道へと進みます。
しばらく歩くと山ノ神堀切。
みかん畑の中にあり整備されています。
さらに進む稲荷森。
竹林の中に空堀が残っています。
残念ながら上から見るだけで降りることはできないようです。
小峯御鐘ノ台大堀切はやはり圧巻。
東堀の堀底を歩きました。
深く長い堀底、折れもあり総構のメインとも言えます。
東堀から出たところに三の丸外郭新堀土塁。
公園になっています。
土塁は残るもののその隣の窪みはここにあった建物の跡だそうです。
少し残念な思いをしながらも海や石垣山城を。
少し霞んでいましたが気持ち良い場所ではありました。
坂を下っていき、ラストは八幡山古郭東曲輪へ。
天守の写真を撮るにはおすすめのポイントです。
今回は天守のあるエリアには行きませんでした。
まだまだ総構で見ていない場所もあるのでいつか行ってみたいです。
頼まれてた蒲鉾、お土産に買って帰りました。

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しんちゃん

島津氏の南九州支配の原点ともいえる城。 (2023/01/04 訪問)

島津家の祖、惟宗忠久が建久8年(1197)薩摩、大隅、日向の三国の守護(地頭とも)に任じられたとき
島津荘を本拠に定め島津左衛門尉と名乗ったと伝わります。
そして家臣の本田貞親をこの地に派遣し、貞親は山門院(やまとのいん)に木牟礼城を築城したそうです。
島津氏は5代、貞久の代でようやく薩摩に移り住み、碇山城(薩摩川内市)に守護所を移します。
やがて島津総州家と島津奥州家の内紛が起き、総州家が滅ぼされると木牟礼城も廃城になりました。
島津氏の南九州支配の原点ともいえる城ですが、現在は土盛りが残るのみで
これが削り取られた郭のなごりか、土塁の一部なのかは不明です。
周囲を散策して、かつての城の姿はどうであったか、いろいろと想像を膨らませてみます。
ちなみに出水市のサイトによると、当時の出水は和泉郡と山門院に分かれていたと記述があることから
山門院とは薩摩の入り口に当たる、ここの地名を指していると思われます。
江戸時代には野間之関所が置かれ、薩摩への入り口を厳重に守っていました。

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しんちゃん

古墳時代から戦国時代の終焉まで使われ続けた古城跡 (2023/01/03 訪問)

宇土古城は通称「西岡台」と呼ばれる標高39mの丘陵上に築かれていました。
その歴史は古く、平安時代の永承3年(1048)菊池氏の一族によって築かれたものと
思われます。室町時代になってからは、たびたび城主が変わり、小西行長が宇土城を
築き始めたころには使われなくなっていました。
古墳時代にも首長の居館として使われていたらしく、城内の案内板に千畳敷周辺に
壕がめぐらされていたことが表記されています。
宇土古城は東側に駐車場があり、そこから竪堀跡の通路を通って行って、主郭である千畳敷に
向かいます。千畳敷の周囲には堀がめぐらされ、入り口には古めかしい門が立っています。
千畳敷にはかつての掘立柱建物を模した建造物が立っていて周囲には建物が立っていたことを
示す木のクイが並んでいます。
主郭である千畳敷の西に三城と呼ばれる郭があって、ここにも掘立柱建物の跡があります。
西側には土塁が連なり、端部は大きな土の高まりとなっています。
北側の斜面には石積みが連なりますが、いつの時代のものかはわかりません。
城の中央の南側に住宅地に通じる通路があって、どうやらこれがかつての大手の跡らしいです。

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しんちゃん

小西行長と加藤清正の築いた城跡。破城の跡は妄想で補う。 (2023/01/03 訪問)

宇土城は天正16年(1588)に肥後南半国の領主となった小西行長が
翌年から築城を始めたを伝わります。
関ヶ原の合戦の後、肥後の国一国の領主となった加藤清正が自分の隠居城とするため
普請を行ったとされています。今現在、現存している石垣は清正時代の物らしいです。
清正は隠居することなく没し、慶長17年、幕府の命により城は壊されました。
寛永14年(1637)の島原の乱の後、さらにこの城は徹底的に壊され今は本丸の
一部の石垣が奇跡的に残っています。これは破城の際のお目こぼしなのでしょうか。
城を破壊した人たちも命令でやったことなので、加藤清正の築いた見事な
石垣をすべて壊すのも忍びなかったかもしれません。
現地の城の絵から確認すると本丸の西側の墓地が二の丸。南の宅地が三の丸に
なりますが東の高校も堀の内にあり第四の郭の役を果たしていたと考えられます。
もしくは果たす予定だったのでしょう。北の広大な住宅地も家臣団や寺社、住民の家として
城の外郭として機能していたと思われます。
いまはバーチャルがはやりですが、やはり古城跡を巡るうえで欠かせない物は
想像(妄想)力でしょう。

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