きたがたじょう

北方城

岐阜県本巣郡

別名 : (北方陣屋)
旧国名 : 美濃

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チェブ

武田家と内通疑惑の被害者の会。 (2024/01/03 訪問)

1492年~1501年頃、伊賀 光就さんが築城した「北方城」。
信長さんの時代には西美濃三人衆のお一人、安藤 守就さんの居城となります。
1580年、守就さんの嫡子が武田家と内通した疑惑で蟄居しました。この辺りの所領は、稲葉 一鉄さんが治めました。
本能寺の変の後、「北方城」を取り返そうとしましたが、稲葉 一鉄さんに攻められ討死しました。

住宅街の一画に「北方城」の石碑と説明板がありました。駐車場はありません。路駐して写真を写して退陣しました。説明板のイメージ図の一考には、資料が少ないらしく、真ん中にポツンと現在地が記してあります。

同じ頃、武田家と内通疑惑で家康さんも被害にあってます。
織田家の丹羽氏、林氏、佐久間氏も別件で追放されてます。
守就さん、西美濃三人衆のお一人、稲葉 一鉄さんに討たれるって、昔の戦友だったのに、、、。
戦国適応障害になりそうです。

ポツンとしたイメージ図。
私の脳内では最強にしておこうと思った「北方城」攻めでした。

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しんちゃん

中世では西美濃三人衆安藤氏の城、近世以降は戸田氏の陣屋。 (2021/12/26 訪問)

北方城跡には江戸時代に陣屋がおかれました。
陣屋の主は加納藩主戸田光重の三男光直です。
大井神社の門前を北限とし、小川と天王川に挟まれた神社から南にのびる
締め切りの道路の東西両側に分かれる、とあります。
その内容は添付の縄張りを参照にいただきたく。
今では宅地化が進んでいますが、基本的な配置は変わっていません。
縄張りで城址と示されている箇所に城址碑と案内板があります。

中世では美濃国二代守護、土岐頼遠の四男、頼興が本巣郡北方に住み
北方五郎と称し、城を築いたのが始まりとされています。
その後伊賀伊賀守定重の長男、安藤伊賀守守就が大野郡より移り住みます。
守就は西美濃三人衆の一人で斉藤竜興を見限り、織田信長に仕えますが
謀反を疑われ所領を没収されます。その後武儀郡谷口村に隠棲しますが
本能寺の変で信長が斃れると、北方に帰ってきます。
しかし稲葉一鉄に攻められ敗死、外山の龍峯寺に葬られます。
これらの戦いを北方合戦と言います。

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ぴーかる

北方城・北方陣屋 (2023/07/15 訪問)

【北方城】【北方陣屋】
<駐車場他>駐車場はなし。大井神社前に駐車がなければ2台分はいける。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、3城目。北方城は明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就が築城したとされます。曽孫の伊賀守就の時に安藤氏を名乗り安藤守就を名乗ります。安藤守就は主君を土岐頼芸⇒斎藤道三⇒斎藤義龍・龍興⇒織田信長と変えていきますが武田勝頼に内通したとして追放されます。北方城はその後稲葉一鉄の預かりとなりますが、本能寺の変後に挙兵して北方城を奪取し再起を試みますが稲葉一鉄に攻め込まれ自害します。城もその後廃城となったようです。
 
 北方陣屋は1668年に北方城の一部跡地に美濃国加納藩主松平光重の三男戸田光直に5000石で分知された旗本の陣屋です。現地には現存建物がほぼ残っていないようなのですが各所に移築門があるそうです。
 城跡も陣屋跡もほぼ遺構は残っていませんが、大井神社から南北に流れる天王川が北方城の西の堀跡、北方陣屋中心を流れる川であったかのようです。名残を感じさせます。

<満足度>◆◇◇

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:北方城 (2023/04/26 訪問)

黒野城からの転戦です。常誓寺参拝者専用駐車場入口(35.437312、136.691382)から進入して駐車しようとしましたが、手前の道路で工事中。
付近を車でウロウロして、説明板(35.437132、136.691643)前で路駐して、北方城の石碑と案内板の写真を撮ってすぐ撤退しました。

築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就によって築かれたと云われています。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名します。
守就は当初、土岐頼芸に仕えていましたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えました。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたそうです。
1556年(弘治2年)道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えました。
1567年(永禄10年)織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となります。
しかし、1580年(天正8年)河渡城主であった実子安藤尚就が、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通がなりました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信長が明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みますが、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となりました。
北方城の跡地には、1668年(寛文8年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868年(明治元年)まで存続します。

攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=軽海西城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 伊賀光就、戸田光賢(陣屋)
築城年 応仁年間(1467〜1468)、寛文9年(1669)(陣屋)
主な城主 伊賀(安藤)氏、稲葉氏、戸田氏(陣屋)
遺構 消滅
指定文化財 県史跡(北方城跡)、町史跡(北方陣屋跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県本巣郡北方町北方249
問い合わせ先 北方町生涯学習推進室
問い合わせ先電話番号 058-320-2200