先日投稿させていただいた関ヶ原の合戦の疑問③ 吉川広家に野心はあったのか?
なのですが個人的には「あった」のではないかな~と思います。元々吉川家は小早川家と両川として主家である毛利家を支えていかなければならない立場にあるわけなのですが、小早川家はすでに秀秋を当主として筑前・筑後59万石(?)の実質的な独立大名になっています。(関ヶ原の合戦後、岡山に55万石で加増・転封ということになってるけど、これじゃ減封では? ま‥それはさておき)
吉川は準家臣格のままですね。西軍が勝ってもその状況は変わらないだろうけど、広家の働きで東軍の勝利に大きく貢献すれば小早川のように独立した国持大名になれるかも‥という下心があったかもしれません。
本当の所は本人にしかわからず、ただ本気で毛利家の行く末を案じていただけかもしれませんが、家康公や東軍諸将にはどう思われていたか?
関ヶ原の合戦の後の恩賞が、毛利家を改易として広家には周防・長門を与えるという内容ですから、かなり意地悪ですよね。こんな提案を受けたら周囲から「主家を追い落として二ヶ国の国持大名に出世した」と悪く思われるに決まっています。後々ろくなことにならないわけで(改易とか)かなり意地悪の悪い提案だったと思います。見透かされていたのでしょうか?
吉川広家の陣は南宮山の山麓、ちょうど毛利秀元の陣の北側に位置しており、不破高校の西側に案内板が立っています。ここから南西の方向に朝倉山が良く見えるんですね。
朝倉山の麓から北に500mくらいの位地に東軍に属した浅野幸長の陣が有ります。陣跡を示すのは案内板のみになりますが、国史跡の垂井一里塚の旗が立っています。ここでは一里塚≧浅野幸長陣ということになりますか。
幸長陣と朝倉山の位置関係もなんとなく意味深なものを感じます。
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