曳馬城((引間城)=浜松城)を訪れてきました。曳馬城は元々は今川領の城でしたが、1568年に家康が今川氏から奪い、1570年には信長の命で家康は岡崎から移りここを居城としました。その時、曳馬(馬を曳く)は負けを意味し縁起が悪いので浜松と名を改めた・・・というのが私が浜松を訪れる前までの予備知識でしたが・・・
浜松を訪れたのは初めてで、実は私はここに来るまで勘違いをしていました。上記の内容から推測して、浜松城は別名曳馬城とも言われている事から、曳馬城と同じ位置で同じ場所に浜松城は建てられたものだとばかり思っていました。しかし、浜松城と曳馬城は近くではあるものの別の場所の城であった事を、訪れて初めて知りました。曳馬城は浜松城の東に約300m程行った駐車場と道路を挟んだ地にありました(曳馬城全景写真①と曳馬城の説明④)(浜松城の天守から見た曳馬城の写真②と位置図③)。
これはあくまで私の推測ですが、家康は曳馬城に入った時、いったん引間城と名を改めて、すぐ近くの丘陵地に浜松城の築城を開始し、完成と同時に町の名も浜松と改め、そして江戸時代に入り一国一城令の時、当時の藩主が引間城は浜松城の一部に含まれるように絵図に記述し合わせて一城として幕府へ申告、それから引間城の名は消えて行ったのではないかと推測しました。
現在の引間城は元城町東照宮になっていて(写真⑤⑥)、神社の前には家康が暮らした居館の跡がありました(写真⑦⑧)。家康は岡崎城を出て引間城に入った時、おそらく手狭であったため、より広く強固な浜松城をすぐ西の丘陵地に築城しようと考え、完成するまでの間、ここにあった引間城の居館で暮らしていたようです。
神社には家康と若き日の秀吉(藤吉郎)の銅像がありました(写真⑨⑩)。今川時代の若き日の藤吉郎は仕えていた城主とここを訪れた事があるらしく、その後両者とも出世した事にあやかり、現在の引間城は出世を祈願する神社になっていました。出世にあやかりたい方は、ぜひ二人の像と一緒に写真を撮られてみてはいかかでしょうか?(笑)(写真⑩)。
しかし、ここでふと疑問が🤔? 家康がこの引間城に入ってから、わずか2年後に三方ヶ原の戦いは起きています。負けて浜松城に逃げ帰ったとありますが、もうこの時に浜松城はどこまで完成していたのでしょうか? あの有名なかがり火を焚いてわざと城門を開いたという「空城計」の策は、もしかして浜松城ではなく、この引間城で行われたのではなでしょうか? と思いながら説明板(写真④)を家に帰った後で読み返していたら、何と答えが書いてありました。やはりこの時はまだ、浜松城は完成していなかったようです。よって家康が逃げ帰ったのは、やはりこの引間城だったようです。よって空城計の策は、引間城の玄黙口で行われたようです。「玄黙口を見逃してしまった~!」という事に後で気づいてしましました~!(😩もう遅い)。
次は、その三方ヶ原古戦場をちょっと見てきます。
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