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2023/11/07 20:54
手入れの行き届いた城です! (2023/11/06 訪問)
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2023/11/07 19:45
国史跡 江馬氏城館跡 (2023/10/29 訪問)
標高802mの山城です。
戦国期に勢力を誇っていた江馬氏の城館跡。
山頂の主郭から派生する3方向の支尾根に
堀切、土塁など遺構があります。
麓の朝浦不動尊から観音めぐりコースの遊歩道
がありますが主郭まで1時間位歩きます。
少し荒れてるかもしれませんが、北尾根の中段
まで車で行けそうです。
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2023/11/07 10:27
77【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (木崎原古戦場) (2023/10/17 訪問)
(24人目)島津義弘の続き⑧です。
木崎原古戦場へは、飯野から再び同じバスで前回の「えびの文化センター前」まで戻りそこから南へ川を渡り徒歩で20分です。古戦場見学後は、次の目的地へ行くため西へ徒歩30分かけJR吉都線「えびの駅」まで歩きました。
1571年に父の島津貴久が死去すると、日向の伊東義祐は薩摩へ進攻を開始、加久藤城を攻撃します。すると義弘は飯野城から出陣、木崎原(きざきばる)にて迎え撃ちます。しかしこの時、伊東軍3000人、対する義弘軍はわずか200人しかいません。圧倒的に不利な状況です。伊東軍は余裕なのか、暑さをしのぐため川で水浴びを始めます。これはチャンスと義弘は攻撃! しかし一撃するも多勢に無勢で反撃され、もはや絶体絶命! この状況で義弘が採った起死回生の策は・・・何とここで初めて島津家の秘策「釣り野伏せ」を使いました。 逃げるふりをして木崎原へ誘い込み、10倍以上の敵をここで取り囲んで大勝利し、島津義弘の名を全国に轟かせたたのでした!😯 そして伊東氏はこの敗戦をきっかけに没落の一途をたどっていきます。
その木崎原古戦場に行ってきました(写真①-⑥)。古戦場跡には記念碑が建てられ、義弘が立てたという伊東・島津両軍の戦死者を供養する六地蔵塔もありました。義弘は戦に勝っても死んだ者達への供養を敵味方分け隔てなく行っていたようです(写真⑦⑧)。
そこから「えびの駅」(写真⑨無人駅)まで歩き列車を待っていると、ホームの向こうには霧島連山が見え、噴煙がもくもくと上がっているのが見えました(写真⑩:活火山のようです)。
伊東氏に大勝利してから26年後、今度は一転して義弘は根白坂で豊臣軍に大敗を喫し、命かながらこの飯野城へ逃げ戻ります。その時、どんな思いで飯野城からこの霧島連山や木崎原を眺めていたのでしょうか? 島津家はこれから一体どうなっていくのだろうか? 自分も兄とともに降伏すべきかそれとも一戦交えるべきか、もし降伏すれば秀吉からどう処罰されるのであろうか? そんな不安な気持ちで・・・いっぱいだったのではないでしょうか?
次は、JRで松尾城に向かいましたが、その前に念願の根白坂にも行ってきましたので、その様子から先にお伝えします。
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2023/11/07 08:08
武田氏の駿河国支配の拠点 (2023/08/05 訪問)
戦国末期に武田信玄が馬場信春の縄張により築いた城で、山県昌景を城主として駿河国支配の拠点としました。長篠の戦いで山県昌景が討死すると穴山信君(梅雪)が城主となり、東の北条氏、西の徳川氏に備えて大改修するも改修が間に合わず徳川家康に降伏して開城。家康が関東に移封されると駿府城に入った中村一氏の家臣・横田隼人が城主となりましたが、関ケ原の戦いの後、中村氏の米子移封に伴い廃城となりました。
巴川の蛇行を本丸を囲む水堀とし、丸馬出を3か所設けた平城でしたが、現在では本丸は清水江尻小学校、二の丸や三の丸は住宅地となっていて遺構は消滅しています。小学校の南東隅には江尻城跡の説明板があり、北東側の正門は「本丸門」と表示されていましたが、周囲をひとめぐりしても敷地内にあるという石碑は見付けられませんでした。小学校の北側には「二の丸町」の町名が残っており、本丸門の少し北に町名由来の説明板があります。小学校西隅の巴川沿いには「江尻城跡・江尻城復元図と小字名」の石碑が建てられていました。また、小学校南隣の魚町稲荷神社は穴山信君が江尻城の鎮護として造営したと伝わり、境内には江尻小学校を端緒とする日本少年サッカー発祥の碑が建てられています。
江尻城に続いては、ニッポン城めぐりのイベントスポットの三保松原(みほしるべ)にも行きましたが、松原は見事だったものの、期待していた富士山は雲がかかっていてよく見えず……残念無念。
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2023/11/07 07:04
桜御門 (2023/10/28 訪問)
造田城の後、献血ルームオリーブでの献血前の攻城です。目的は再建相成った桜御門。中にも入れたし、パンフレットも手に入って言うことありません。献血の予約時刻までたっぷりと時間があったので和船玉藻丸の城舟体験も狙ってみましたが、生憎、すべての枠が埋まってしまっていました。桜御門に時間をかけすぎた所為かもしれません。城舟体験はまたの機会の楽しみに取っておきたいと思います。
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2023/11/06 23:22
不思議さに拍車がかかっている (2023/04/02 訪問)
一見すると典型的な中世武家居館だが地元にも主の名は伝わらずただ「長者屋敷」と呼ばれていた。土塁の内側に堀がある構造も不可思議ながら、掘ってみたら奈良時代の遺跡と判明したことで不思議さに拍車がかかった。
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2023/11/06 23:14
金森長近が最後に築いた城。 (2023/11/03 訪問)
小倉山城は長良川の東にある標高160mの小倉山に築かれています。関ヶ原の合戦で東軍に属し功績のあった飛騨高山城主金森長近によって築かれましたが、長近の死後2万石を分知され上有知藩主となった次男・長光がわずか6歳で没すると上有知藩は廃藩となり、小倉山城も廃城となったそうです。後の元和元年に尾張藩主徳川義直の直轄となった際に、かつての館跡に代官陣屋が置かれたそうです。最高所にある展望広場が主郭のようで模擬天守のような展望台が建っています。展望台の下にある陽だまり広場がかつての館跡らしく周辺に石垣が残っているようです。東側にある忠魂碑の周辺は他の場所より高台になっていて櫓台のようにも見えます。南にある大手周辺には大手門跡と石垣が残っているようですが今回は確認していません。角櫓もあるようなので三度目の訪城の際に見に行ってみようと思います。
ちなみに次男の長光ですが長近が80を過ぎてから生まれた子供だそうです。なんかいろいろと凄い話ですが、小倉山城が築かれたのと長光が生まれたのが同年(慶長10年・1605)なので実子に跡を継がせるために、この地に城を築いたのかもしれませんね。
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2023/11/06 22:08
山城としてはちょっと心もとない (2023/11/03 訪問)
関城は永禄8年(1565)織田信長が堂洞城を攻めた際に、関地方を治めた長井隼人が陣を張った山城と、展望台にある案内板に書かれています。現在ではハイキングコースになっていて登り口はいくつかあるようですが、私は南側のトンネルの右わきにある御嶽神社の階段から登城しました。最高部が主郭になっていて特に遺構は残っていませんが、東側と西側にいくつか郭らしき扁平地があり、西端の郭には展望台が建てられています。主郭の北東側にも帯郭らしき箇所があり、そこに竪堀が一本残っているのが唯一山城らしい遺構のようです。
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2023/11/06 21:47
樫大神の石碑が目印 (2023/11/03 訪問)
松倉城は木曽川の南の堤防の周辺に築かれていたようです。加賀国の守護職富樫氏の庶流の坪内氏の城で、小網島と松倉上の島との境にあった樫の大木が水陸の交通の目印になっていたとのことです。明治に建てられた樫大神の碑は木曽川の改修工事で当時より70~80mほど南に移動していますが、かつては樫の木の下に松倉城主坪内氏の墓があって、工事の際にたくさんの土器や人骨が見つかったそうです。城跡の西にある神明神社は坪内美濃守の産土神で松倉城の鬼門に相対する神社として崇敬を受けたと神明神社の案内板に書かれています。
上ノ島神明神社‥岐阜県各務原市川島松倉町2232−1
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2023/11/06 21:01
日本遺産 Festival in 桑都・八王子 (2023/11/05 訪問)
「東京文化財ウィーク」の期間だけフェンスが開く“あの城”に行くために東京に来たのですが,昨年の八王子博物館のイベントでの予告で「日本遺産 Festival in 桑都・八王子」と期間が被っているな…と思い,ちょっと眺めてみようと立ち寄りました。
メイン会場の「東京たま未来メッセ」はものすごい人だかりでしたが,八王子博物館に立ち寄ってスタートしたスタンプラリーのコンプリートのために行くしかなかったです…<苦笑>。他に「まちなか休憩所 八王子宿」の3ヶ所で。「高尾山 天狗」,「北条氏照」,「絹の妖精 シルク」のいずれかをチョイスして投函すると,返事が届くらしいです。私は「北条氏照」をチョイス。
ラストで「東京たま未来メッセ」に行ったら,スタンプ設置場所がわからないくらい激混み…。日本全国の遺産ブースは104つ。しかも,「東京たま未来メッセ」の中だけでのスタンプラリーも。さらに,クイズラリーまで!
越後への帰還日だったため,クイズラリーまでやり遂げる時間はありませんでした…<泣>。
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2023/11/06 18:50
2023/11/06 18:35
2023/11/06 09:46
「史跡こぶしの名水」を訪ねたら今田城登城口 (2023/10/05 訪問)
今田氏館を終えて、せめて「こぶしの名水」を訪ね様と脇の道を北進約100m程で、こぶしの木の在る名水スポットに到着(34°40'03"N 132°30'11"E)、既に先客の名水汲みパーティー3名、見ると今田城の案内板と碑が在る、此処が今田城の登城口かと、その時に初めて認識しました。
今田城は広島県史跡今田氏城館跡に成ります。
山城への登城は考えても居ませんでしたので、縄張り図付きの解説板と今田氏城館跡の城名石碑、今田城こぶしの名水の由緒、を撮り、登城口より少し進入して終わりました。名水の試飲はせず。
此処で図らずも広島県北部未踏、登城の城7城目と成りました。
こぶしの名水の由緒によると、昭和59年今田城主の末裔の方が夫々、山口県熊毛町、横浜から訪ねられて400年の眠りから覚めるきっかけとなり、地域を挙げて今田城の整備保存がなされて保存会も立ち上げる。(由緒抜粋)
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2023/11/06 09:07
立石垣積の今田氏館跡 (2023/10/05 訪問)
吉川元春館、万徳院跡の立石垣を充分堪能し、同じ立石垣の在る県史跡今田氏館を初登城する、今回の広島県北部未踏、登城の城探訪6城目となります。
住所:広島県山県郡北広島町今田133
駐車場:今田氏館跡立石垣の東直近(34°39'59"N 132°30'13"E)、旧の道利用、数台可能。
参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、戦国の庭歴史館入手資料
国史跡万徳院跡を終えて一旦吉川元春館へ戻り、国道433号線、国道261号線経由して地道を今田方向へ、史跡こぶしの名水の近くにナビを合わせて走行、手前に案内板指示板があり、右折北進すると立石垣が目に入る、傍の旧道を利用した駐車場に駐める。
今田氏館は史跡吉川氏城館跡群22ヶ所の内の一つ、県史跡に成っています、ただし残念な事に立石垣塁の前に産業廃棄された部材が散乱して石垣が良く見えない、写真撮影がしずらい、廃材を写らな様に撮るのも一苦労、規模は小さいが、この地方特有の立石垣積である、内部は田圃に成っている、説明板に左奥に庭園があると記載されているが畦道、奥の畔と草が茂り探訪を諦める。
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2023/11/06 08:10
整備事業中 (2023/08/05 訪問)
江戸中期に松平信治が築いた駿河小島藩1万石の陣屋で、瀧脇松平氏のもとで明治まで続きました。明治には小学校として活用されましたが、小学校の移転に伴って解体され、御殿書院のみが移築されていたところ、小島陣屋跡整備事業の一環として、御殿書院の陣屋跡への移築復原工事が進められています。
裏門側に整備された駐車場に車を駐めて登城開始。裏門跡の説明板を確認し、裏門南側の順路の案内サインから陣屋内へ。このあたりは藩士の屋敷地で、低い石垣で区画され、東側には小島集落の眺望が開けています。大手門跡を過ぎ、順路に従って坂道を下って行くと主郭石垣に沿って順路が分岐しており、主郭石垣の上には素屋根で覆われた御殿書院が覗いています。順路をさらに下り、分岐を表門へ。表門は小規模ながら枡形虎口になっています…って、1万石の小藩の陣屋に枡形虎口!? 表門を抜けると、大手通路沿いに石垣が登り石垣状に続いています。これまた小藩の陣屋とは思えない見事な石垣です。陣屋の東下には馬場が広がっていたようですが、現在は民家が建ち並んでいます。崩落があったのか民家背後の土手にはブルーシートが掛けられていました。分岐まで戻って、今度は陣屋の南側を別当沢沿いに西側へ。主郭の南下から西下にかけては石垣により階段状の曲輪群が設けられています。別当沢はなかなかの深さがあり、西辺と南辺の天然の堀となっています。順路は西端から主郭へ続き、主郭では発掘調査に基づいて御殿書院が移築復原工事中でした。
主郭では御殿書院の移築だけでなく御殿跡・宝蔵・石段の平面表示が計画されており、大手門跡の平面表示や礎石の復元、裏門側には井戸跡の整備、多目的広場や駐車場、ガイダンス施設の整備も検討されているんだとか。真夏でも草は綺麗に刈られ、しっかり整備されていましたが、これからさらに整備が進むようですので、いずれまた再訪したいものです。
…ということで、4年ぶりの遠征です。主目的はニッポン城めぐりのイベント「家康公が愛したまち静岡 ゆかりの地めぐり」ですが、イベントスポット(清見寺)が近くにあることでもあり、以前から行ってみたかった小島陣屋からスタートしました。
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2023/11/06 03:39
2023/11/05 23:57
二の丸堀外側ウォーキング(東→北) (2023/09/08 訪問)
二の丸東大手門の櫓内は豊富な資料と展示で、発掘と整備の過程についても、また、山形城が歩んできた歴史についてもたいへん勉強になりました。
櫓見学を終え、大手橋を渡って二の丸堀の外側ウォーキングに繰り出しました。最初に出会ったのはお堀沿いの弁天様。二の丸の大改築の際に堀より掘り上げられこの場所に安置されたのだそうです。
跨線橋を渡った(戻った)ところのコーナーは艮櫓跡です。しかし、緑に覆われ水堀越しに土塁の内側の様子は見えません。(あとで見に行きます。)
住宅の間の道を歩いて行くと塁線の大きな出っ張りに差しかかりました。横矢枡形と言っていいかと思うのですが「ちょっと見てくださいよ、このかっこよさを!」と誰かに声をかけたくなるようなビジュアルで、木々の緑と相まって濃い目の抹茶のような水堀さえも神秘的に感じます。
この上にあるのは肴町向櫓。艮櫓同様、堀越しには見えないだろうなと思ったら、櫓台石垣がちらっと見えました。
これは……!撃たれます!!逃げても横から狙われます!!!お城の遺構の“かっこいい”は即ち防御力の高さだと理解しているので、この一画はちょっとヤバそうな匂いがします。(肴町向櫓跡もあとで見に行きます。)
そして、ふと足元を見ると陸軍用地の史跡碑が。明治期からの陸軍駐屯地だった時代もお城の歴史として記憶しておかなければと思いました。
いよいよ北門が見えてきました。
<つづく>
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2023/11/05 23:40
2023/11/05 21:17
田辺城に行ってきたのです (2023/11/03 訪問)
城門を修復してます。その2階が展示スペースになっています。
元が平城にて周辺は開発されてしまい、遺構は公園の中に見えるだけです。
天守台は発掘で発見されたとのこと。公園の中でたたずんでいます。
小さい規模ながら攻め口が絞られ、大軍の展開がし辛い地形で宮津を捨て田辺に籠城した細川幽斎は流石としか言えないな。
この日は舞鶴祭りの日だったらしく、城門から出陣する姿を見ることができたのは僥倖でした。
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2023/11/05 19:05
金沢城 光の祭 (2023/11/05 訪問)
チームラボ 「金沢城光の祭」が金沢城公園にて開催されています。2023年9月30日から11月26日まで、お一人様1800円でございます。
18:00~21:30 最終入城が20:45です。少々お高いですが、一見の見る価値ありです。
取り急ぎご連絡まで(*^▽^*)
プロジェクションマッピング 何を表現されているか自分には理解できませんでしたが、本当に引き込まれました(*^▽^*)ホントに凄い。
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