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ぎりょう

白鳥城 山形県村山市白鳥字土海在家 (2023/10/22 訪問)

この日午後の北村山市地域史研究会による楯岡城攻城前に、近場でもう一ケ所と考え白鳥城を目指しました。ここは大永年間(1521~29)にこの地に入部した白鳥氏の城と伝わります。天正12年(1584)に最上義光に謀殺された白鳥十郎長久は名高いですね。
戸沢中学校の裏山にあたる比高60mの最高所に東西40m、南北30mほどの主曲輪をおき、その東側・南側は腰曲輪と帯曲輪、西側は堀切、北側は細長い曲輪で防御する構造です。ニノ曲輪から主曲輪までは遊歩道があります。事前の情報では西側の堀切と帯曲輪の切岸が見事との情報でしたが、時節柄草が伸びており確認が困難でしたが、主曲輪から見下ろす景色は素敵でした。
長引くコロナ禍と各地の熊出没情報で山城探訪を控えており、久々の攻城に息も絶え絶えでしたが、よい汗を流しました。
ニノ曲輪に駐車場(3台分)が設置されてはいますが、途中の道が細い坂道のためスリップで路外逸脱の危険があります。車での訪問の際は土海在家自治公民館の駐車場利用をおすすめします。

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雲海を眺めに早朝登山 (2023/10/26 訪問)

雲海シーズンには必ず登り、雲海を眺めながらサーモボトルのお湯でドリップしたコーヒーを楽しみます。
本丸からは、紅葉越しの雲海を眺め、西の丸からは眼下に広がる雲海を楽しみます。

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松ともみじと広島城 (2023/10/25 訪問)

広島城を訪れたら必ず撮影する場所です。松ともみじのフレームの中に見える広島城。紅葉した時期にまた撮影に行きます。

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チェブ

お堀の鯉。 (2023/10/04 訪問)

昨日 投稿した『精忠神社』の後「壬生城」へ。
鳥居 元忠さんの三河魂を教えていただき、転戦です。

「壬生城」は壬生氏が築城しました。
秀吉さんの北条討伐中に、壬生氏は病死し滅亡します。
家康さんが関東に入ると、結城 秀康さんが「壬生城」に入ります。
その後、城主がいろいろ変わりました。
日光に参詣する歴代将軍が「壬生城」の御殿に宿泊したんだそうです。
その御殿の広さ、563坪990畳。全然、想像ができません。
1712年に鳥居 忠英さんが治めました。明治の世まで、8代続きます。

『精忠神社』から水堀が見え左折。本来、駐車場がある方から入城すれば、二ノ丸表門が見られます。
水堀で何やら動きます。
鯉です。
ちょっと手を叩いたら集合しました。歩けば鯉も移動します。、、、エサないのに悪い事しました。
水堀をカクカクと曲がり本丸跡へ。土塁が見られます。敷地内には公民館や資料館、噴水もあります。芸術的な銅像もあり、何か違うと思い引き返しました。
玄関石なる古墳の石室内にあった石がありました。
なぜ、本丸に?なんだか、盛りだくさんな「壬生城」です。
鯉とばかり遊んでいたので二ノ丸表門や礎石は見落としました。
堀の石垣が、石垣風だったので、公園を散歩したような「壬生城」攻めでした。
、、、反省してます。

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しんちゃん

久々利城の写真のあまり 岐阜県可児市久々利1133 (2023/10/22 訪問)

久々利城のオマケですが、地元有志の方々が多数の看板(案内板)を設置
してくださっています。これがなかなか味のある字でなかなか面白い。
城守隊と書かれていますね。ではこちらは攻城隊(攻城団みたい、一人だけど)で
行きたいと思います。猪やカモシカも出るようですね。敵に注意と言われても
猪やカモシカと争うつもりは有りませんが‥。猪には会ったことはことはありま
せんが鹿やカモシカには良く会います。鹿はずぶとくて憎たらしい奴ですが、
カモシカはなかなか気のいい奴らで、すぐに逃げていってしまいます。
以前、別の城の曲輪の周囲をぐるぐる回っていたらカモシカとばったり鉢合わせ
して、お互いにびっくりしましたが、すぐに逃げて行ってしましました。

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しんちゃん

西尾根と北尾根への防御も申し分なし (2023/10/22 訪問)

久々利城は土岐氏の一族、久々利氏の城で県道84号線、安土桃山街道の北側にある
山の東西に分かれた尾根に築かれています。メインの登城道は東尾根側にあり
城址碑や看板が設置されています。登り始めてすぐに素晴らしい枡形虎口が
待ち受けてくれています。その先は三の丸に進みます。写真では取り損ね
ましたが南西側から二の丸ごしに本丸を望むことが出来るようです。二の丸、
本丸の側面はセイタカアワダチソウでいっぱいです。正直ここで見たくは
なかったのですが、時代の流れですか‥。主郭の眺望を楽しんだ後は北の物見台
を確認してその先の二重堀切を確認します。そこから城域は西の尾根越しに
南西側に展開しています。複数の竪堀が西と北の守りをなし、南に武者走りや
堀切が配されています。西尾根の遺構を確認して東禅寺の登城道から下山します。
主郭まで行って引き返すのものいのですが、東から西の尾根を周回して戻って
くると満足度が倍増しますので、時間に余裕があれば是非にと思います。

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しんちゃん

明智光秀公供養塔 岐阜県恵那市明智町羽山町 (2023/10/22 訪問)

明知城の北側、龍護寺には明智光秀公の供養塔と明智光秀公出征の地の石碑が
あります。供養塔(碑)には斜めに大きなひび割れが入っているとされ、光秀公に
かかわる碑は、ことごとく割れると言った通説があるそうです。今回、明知城の
写真の余りも掲載させていただきました。天神社登城道の左手にある出丸を
直接登ってきたのですが、基本藪で、いくつか扁平地がありました。この出丸は
本城とつながっておらず雑草の種が大量にくっついて来るのでお勧めは
できません。

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姫街道

弥生時代の城 (2023/10/27 訪問)

土塁・堀・逆茂木等、とても弥生時代とは思えない規模の防御施設。古墳時代の形跡が多少あったらしいが、弥生時代700年続いた後は堀も埋められ、中世でも忘れ去られた空間だったらしい。これほどの立地が弥生時代以降活用されてこなかった事が不思議に感じた。

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カズサン

【出雲田和山遺跡】島根県松江市 弥生の三重環壕山城の様 (2023/10/04 訪問)

 田和山遺跡は弥生時代前期末(紀元前200年頃)から中間後半(紀元後50年頃)にかけて環壕を持つ集落遺跡です。山頂部に三重に囲む環壕を設けてる。
 城郭放浪記さんに昨年3月、日々更新の放浪履歴に掲載が有りこれは是非探訪したいと、今回帰省の3泊4日城探訪の初日一発目の登城としました。

 住所:島根県松江市乃白町32-3
 駐車場:遺跡南西下(35°26'17"N 133°03'11"E)下段アスファルト舗装に4台、登って上段非舗装に10台以上、トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ。

 山陰道、松江市立病院建設に伴う発掘調査で発見され、平成13年8月13日国史跡に指定さました。遺跡西下に案内解説板、田和山遺跡名の石碑あり、登り口遊歩道もあります、案内盤も各所に在ります、遊歩道階段は登り急で丸太階段は施設から年数経過してる様で少し危険な個所も有り要注意、遊歩道、曲輪内は草は刈られて居り問題無、目的の三重環壕は草に覆われて観にくいですが、三重の畝がよく確認できます、西方向と南方向に木道と壕に架かる木橋が有り、写真的に絵に成ります、三重環壕の一部には壕、土塁にモルタル加工がされて見やすくしてますが草に覆われて景観がもったいない、頂部には発掘の建物跡の木柱表示と周囲に柵列が設置されています、また見晴らしは素晴らしく宍道湖がよく見通せます、北方向の松江城はビル、木立に隠れて確認できませんでした。
 城郭放浪記さんの掲載写真に探訪のきっかけを得て是非見たいと今回の中学卒60年の同級会を利用して帰省、鳥取から松江まで約80km程ですが、無料の山陰道、有料区間と大変便利になり約1時間ほどで到着、素晴らしい遺跡、弥生の山城を堪能しました、出雲にはまだまだ何か残って居るのでしょう、未発見の物もいっぱいある事でしょう?「素晴らしいものを見させてもらいました」
 

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小城小次郎

西櫓のその先に (2023/04/03 訪問)

「西櫓」と呼ばれる角馬出の先にはだらっとした坂が続く。馬出しは出撃・迎撃拠点として最前線に作られるものなのでその先に何かある必要はないわけで、軍事要塞としての山中城には無駄がないということなんだろうな。

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しんちゃん

畝状竪堀群が「ごんぶと」い (2023/10/21 訪問)

明知城は明知遠山氏によって築かれた城郭で、本格的な山城の遺構を備えています。
特に目を引くのが北側から南東側に展開する畝状竪堀群で、かなりの太さと大きさを
誇ります。正直、他の城の畝状竪堀とくらべると、こんなに太かったっけ?と首を
かしげるほど太いです。今回は陣屋跡の冠木門をくぐって稲荷神社登城口から
登っています。畝状竪堀を見学しながら東に回り込み、貯水池のある郭から出丸を
確認して、二の丸から本丸に入ります。本丸の虎口は東に付いていて、本丸の南西側
に切岸が確認できます。その後は東側の畝状竪堀群や大竪堀を確認し、明智光秀公
学問所跡の天神社を経由して下山しました。最も近い駐車場は東側の登城道の近くに
駐車スペースがあるようです。

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しんちゃん

十兵衛坂を周っていくと遺構が各所に残っている。 (2023/10/22 訪問)

明智長山城は土岐氏の一族、明智氏の城で天文21年(1552)もしくは
弘治2年(1556)に斎藤氏に攻められ落城、一族は離散したとされています。
大手門入り口近くに駐車場があり、そこから石畳が続いています。大手門は
老朽化のため取り除かれていますが、再設置を予定しているようです。
大手道の突き当りが馬場跡で七ツ塚や馬防柵が設置されています。馬場の北側に
本丸があり東に二の丸曲輪、中ノ曲輪、東出丸曲輪がありますが、今回は割愛
します。西手に西出丸曲輪があり、本丸の北側から十兵衛坂が続いていて、台所曲輪
、水の手曲輪、乾曲輪を周回しながら大手門駐車場方向に降りてきます。
水の手曲輪周辺では発掘調査で複数の竪堀が発見されており、2020年2月16日に
小和田教授が現地確認をされ、本物の竪堀であると確認されています。乾曲輪の
周辺には遺構が残り、堀切が下山道に遮断され道と一体化しているようです。曲輪の
西側のヘリは急峻な切岸になっていて人工のもののようです。曲輪の先にある
六親眷属幽魂塔は明智一族の供養塔とされ、さらにその先は物見台になっていて
行き止まりになっているので下山道に戻って、そのまま帰途につきました。

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ぴーかる

山鹿城 (2023/09/09 訪問)

【山鹿城】
<駐車場他>白山神社駐車場
<交通手段>車

<感想>>1泊2日北九州・豊前中津の旅7城目。山鹿城は天慶年間(938~947年)に藤原秀郷の弟、藤原藤次により築城されました。藤原藤次は姓を山鹿に改め、この城を代々の居城としました。山鹿氏は平家都落ちの際に安徳天皇と平氏一門を迎えた為に敗れて鎌倉幕府に没収されます。鎌倉時代には宇都宮氏の所領となり山鹿氏を名乗ります。戦国時代には庶流の麻生氏の出城となり秀吉の九州征伐後に廃城となります。
 現地は公園化されています。駐車場から南東方向に登るとすぐに白山神社があります。ここが三の丸跡で北方向の尾根を進むと山頂本丸跡に着きます。北側下段が二の丸跡でここに城跡碑・説明板があります。防御設備の遺構が表面観察では見受けられない曲輪のみの城跡でした。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

非常に高度な技術を以て作られている。 (2023/10/22 訪問)

大森城は永禄年間(1560年頃)久々利城主土岐三河守の家老、奥村元信の子
奥村又八郎によって築かれたとされています。比高もそれほどではなく、城の規模
も中程度ですが、非常に高度な技術で築かれている、とても見ごたえのある城です。
大森神社の背後の丘陵地が城域で神社の下段の広間の右手にある建物の背後から道が
続いています。郭をいくつか通過しながら主郭へ向かいますが、主郭北の小さな郭が
枡形のようになっていて、そこに喰い違い虎口が続いています。主郭には土塁が
残りますが藪に覆われており、南側の二の郭の間は堀切で遮断され土橋がかかって
います。この堀切ですが高低差をもって、まるで滑り台のように竪堀が東側下段に
続いています。二の丸は土塁が良く残り、そこから西側の主郭背後の土塁と堀切を
見に行きます。土塁の中間あたりに切れ目があり、虎口が付いています。
そのあとは主郭と二の丸の間の堀切を東へ下って行って、東側の土塁を見ながら
元来た道を戻っていきました。

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しんちゃん

岩村藩主邸跡 岐阜県恵那市岩村町坂下町 岩村城の写真の余り (2023/10/21 訪問)

岩村城城下町の岩村歴史資料館のある場所が江戸時代の岩村藩主の居館跡になります。
かつての藩主邸は廃藩置県の後も残されたのですが、明治14年(1881)に火事で
全焼。表御門や平重門、太鼓櫓が平成2年に復元されています。大給松平家が設立した
藩校・知新館の正門と釈奠(せきてん)の間(正門のなか)が移築されています。

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チェブ

番外編『精忠神社』の巻き。 (2023/10/04 訪問)

大河ドラマ『どうする家康』、そろそろ関ケ原の戦いに向けてドラマが進行してきました。
その前に、石田 三成さんVS鳥居 元忠さんの、伏見城の戦いがあります。
上杉討伐に主力を注ぎたい家康さん。でも、伏見を空にする事ができない、、、。
と、元忠さんは、捨て駒になることを立候補し、伏見城の戦いで散りました。

「壬生城」の駐車場へ車を入れる時に、『鳥居 彦右衛門 元忠公』の大きな看板が目に入りました。
『なぜ、彦?』とドラマの観すぎな呼び方をして、見れば鳥居 元忠公をお祀りする『精忠神社』でした。
長い参道の先に山門があり、奥に神社がありました。
近くに、元忠公の血のつく畳が供養されてます。
雨のせいか、ひっそり寂しく感じます。

三河魂と忠誠心。
鳥居 彦右衛門 元忠公の『精忠神社』、「壬生城」と一緒にいかがでしょうか。

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カズサン

圧巻の残存総石垣「三の丸・二の丸・登城路」編(4/4) (2023/10/02 訪問)

 三の丸広場は以前サスペンスドラマで使われて事が有りTVで見ていた時、若桜鬼ヶ城だ!と声を上げた事も有りました、あれから二十年以上経っておりますが、その時は簡単に登れるのかなと思っておりました、頂上探訪が十数年経ってしまいました。
 三の丸、同俯瞰、二の丸、搦手までの登城路の写真を投稿致します。

 長々の投稿に成り申し訳ございません。
 この翌日は中学校卒業60年記念の合同同級会、同窓会と呼んでいますが?、翌々日から、出雲、備後、安芸、備中、備前の未踏の城探訪とチョイ寄り再探訪に3泊4日で出掛け、鳥取の実家に帰り、行事を済ませて浜松着です。
 ボチボチ投稿致します。
 

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カズサン

圧巻の残存総石垣「六角石垣への道」(3/4) (2023/10/02 訪問)

 西尾根下先端に在る六角石垣は見張り砦の役目をしていたのでしょうか、先端が六角形の角のような造りでそう呼ばれてる、観光案内所の担当のおばちゃんがやけによく説明し是非見てくださいとのお勧めでした、全体探訪した後の残り時間に挑戦しました、山城の登り降りは苦手なのですが、作業されてる若い役場の方に聞くも5分程ですよとの返事。
 本丸西下の帯曲輪に下城用の枡形虎口石垣が有り、案内板も「六角石垣」と出て居り、それに従って降りる、急なところもあり、滑って転んでしまいました、余計心配になりゆっくりと降り、長く感じましたが10~15分くらいで六角石垣の天端曲輪へ到着、東屋と説明板在り、更に降りて六角石垣の城塁を撮影しなければならないのですが、降りてきた道を登るとなると足が進まない、天端のみ写真を撮って皆さんの投稿写真を拝見する事としました、降りた本丸西下帯曲輪までがまたしんどい、足ががくがくです。
 

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カズサン

圧巻の残存総石垣「大手門・搦手門枡形虎口」編(2/4) (2023/10/02 訪問)

 三の丸に構えてる大手門桝形虎口の残存石垣も大変すばらしい、二の丸への返し喰い違い虎口が連続してる、搦手門枡形虎口も大きな石を使用してどっしりしている、裏側に武者溜り曲輪を構えてる、搦手には馬場跡から堀切、ホウヅキ段石垣を南、南西側の裾を通って搦手に至る、石垣城塁の横を通る道である。樹木の茂りと石垣が直近で南側の本丸・天守台石垣を俯瞰撮影する事が出来ない。
 それにしても織豊系の石垣、枡形虎口が大変な見所で圧巻です。
 

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カズサン

圧巻の残存総石垣「本丸・天守台」編(1/4) (2023/10/02 訪問)

 12年前に林道登城路を間違えて頂上の総石垣郭を未探訪のままに成って居ましたが、今回、若桜駅前の観光案内所で十分確認して林道を使って登城探訪する事が出来ました。
 沢山撮影した写真から、本丸と天守台として写真投稿させて頂きます、破城されて居ますが大きな石も残り総石垣造りの若桜鬼ヶ城が甦って来るような気持でした、本丸跡には残存瓦片が散見され、どんな建物、天守閣が建っていたのかと思いを膨らませます、ふるさと鳥取の名城の一つである若桜鬼ヶ城の復元イラストを是非香川元太郎画伯にお願いしたいなぁ~の気持ちです!
 

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