大坂城の石垣は日本一の高さを誇りますが、大坂夏の陣の後、豊臣期からさらに高く積み増し、巨大な鏡石をいくつも備えた現在見られる徳川期の石垣は、まさに天下人の威信の証だったんだろうな、という思いを詠んでみました。
…って、読み札本文を入れずに投稿してしまいました。読み札は以下の通りです。
天下人 証(あかし)の石垣 大坂城
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2023/04/23 09:00
【かるた】大坂城の読み札と絵札
大坂城の石垣は日本一の高さを誇りますが、大坂夏の陣の後、豊臣期からさらに高く積み増し、巨大な鏡石をいくつも備えた現在見られる徳川期の石垣は、まさに天下人の威信の証だったんだろうな、という思いを詠んでみました。
…って、読み札本文を入れずに投稿してしまいました。読み札は以下の通りです。
天下人 証(あかし)の石垣 大坂城
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2023/04/23 07:38
上田城千本桜まつり (2023/04/01 訪問)
上田城は1583年、上田盆地のほぼ中央に真田昌幸公によって築かれた平城です。堀と土塁で囲まれ、虎口に石垣をを使った簡素な城ですが、城の南側は千曲川が流れ、自然地形を巧みに使った堅城です。
上田城は、かの徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城で、第一次上田合戦の折は。2,000人の兵で7,000人余の徳川軍を撃退し、第二次上田合戦では、関ヶ原の合戦で東山道を西上する徳川秀忠軍38,000人の大軍を真田方2,500人の兵で籠城戦を繰り広げ、徳川秀忠公の軍勢を関ヶ原の合戦に間に合わせなかったことは、史実として有名です。
しかし、上田城は関ヶ原の合戦後に破却され、藩主真田信之公も松代に移封となっています。その後、小諸から入封した仙石氏によって上田城は再興され、幕末には本丸に櫓門2基、櫓7基があったそうですが、現在は、櫓門1基と櫓3基を見ることが出来ます。
訪問した日は、上田城千本桜まつり開催中で凄い人出"(-""-)"、また、駐車場を探し30分程うろうろし、誘導員の方に「どこか空いてるとこあります?」と聞いたところ、町の方へ誘導され、車列から外れ誘導された方へ行くと、商工会議所に空きがあり無事駐車(*^▽^*)
凄い人出で画像に収めるのも、一苦労しましたが流石、桜の名所「桜千本まつり」城跡と合わせ素晴らしかったですよ(*^▽^*)
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2023/04/22 23:23
麻績古城 (2023/04/22 訪問)
麻績氏は最初に居館の詰城として麻績古城(虚空蔵山城)を築き、その後戦国時代に山上の麻績城を築いたとされています。
麻績城から急斜面を下れば行けそうでしたが、急がば回ろうと一度地上へ戻り登城しました。観月苑方面から登城しましたが、主郭周囲は露出した岩盤でロープを使っての軽いロッククライミングとなります。ちょっと難渋しました。見どころは何といっても主郭南北の堀切です。特に北側の堀切は圧巻で堀底部に土塁があり二重堀切のようになっているように見えました。写真では迫力が伝わらないことが残念です。ただ両方の堀切とも上り下りには少し苦労しました。石積みがありましたので写真を添付しましたが、当時のものではないと思います。
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2023/04/22 23:07
交通の要衝 (2023/04/22 訪問)
松本と善光寺を結ぶ街道を眼下に見下ろす要衝の地にある城です。
尾根に築かれた城で堀切をおいて防御しています。南北は急斜面となっています。主郭周囲の西側は南北に比べると比較的斜面が緩いのですが数段の腰曲輪で守られています。東側はのろし山に続く細尾根です。堀切がよく残っていて楽しいのですが、縄張り図で示された竪堀は浅くなっていてわかりにくい所もありました。
麻績城は麻績城(新城)とその尾根に築かれている麻績古城(虚空蔵山城)があります。
まずは新城に登城しました。JR篠ノ井線聖高原駅を降りると正面に見える山が麻績城です。徒歩にて麻績氏居館跡を経由して歩いて行くと、所々に麻績城址道標があり迷うことなく城址へ行くことができます。途中で地元の人から「こちらから行くといいよ」と教えていただき尾根伝いの道を行きましたが、道なりに行っても辿り着けます。駅から30~40分ほどで城山とのろし山の間の鞍部に到達し、そこに案内板がありました。道は整備されていますが、枯れ葉が堆積していたりして少し歩きにくい所もありました。
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2023/04/22 17:33
2023/04/22 17:20
案内板と石碑 (2023/03/20 訪問)
松坂城の案内板は表門跡と裏門跡に城跡案内図と解説文付きで設置してあります、また松坂城跡・散策マップが歴史民俗資料館の前に設置してあり、みどころ20選も掲示されています。
松阪城跡城名碑と蒲生氏郷公と松阪の石碑は表門南の高石垣下に設置されてます、また松坂城跡城名角柱碑は表門と裏門に在ります。
さらに市営駐車場のフェンスには松坂城跡を上空より撮影した航空写真と解説文をカラーで「日本100名城」松坂城跡の案内板もあります。
今回の投稿でどこにも入らなかった井戸跡(表門跡枡形の北櫓台の北東角に在ります)を一枚掲載いたします。
長々と9編に分けた投稿をご覧いただきありがとうございました。
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2023/04/22 17:16
小島城 (2023/03/19 訪問)
【小島城】
<駐車場他>城跡に駐車場があります。私が行った時は城跡までの道には落石が多く道を塞ぎ、<36.251208, 137.183345>の場所までしか車で進めませんで、車を置いて1㎞以上歩きました。麓の杉崎口や沼町口から登った方が近いかもしれません。
<交通手段>車
<見所>堀切・虎口・石垣・切岸
<感想>日帰り強行飛騨山城攻めの旅3城目。小島城は「理文先生のお城NEWS解説」の特集で知った城跡で、行ってみたかった城でした。城跡の駐車場は主郭から北へ伸びる舌状の連郭の最下段にあたる曲輪で駐車場のさらに北側に城跡終わりの2重堀切が見られます。駐車場から3段上が主郭主要部に入ります。主要部は東西に長く、東隅に櫓台西側に主郭の土壇(当時は石垣台)があります。主郭の西側と南側斜面に石垣跡が見られます。主郭から西側に2段程下がった曲輪に内枡形虎口跡と北西隅の曲輪壁に見応えある石垣遺構が見られます。そこから南西側が小曲輪群の連段、北西側に切岸を降りて行くと小島古城に到ります。小島古城の主郭奥に大土塁、主郭から北西方向に連段曲輪で端が2重堀切になっています。小島古城には石垣遺構は見られないものの、連郭サイドの曲輪壁の切岸は高く削り見事な見応えがありました。
<満足度>◆◆◆
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2023/04/22 16:32
本丸下段北辺郭 (2023/03/20 訪問)
本丸下段北辺郭は本丸上段北側下の北西面と北東面に高石垣城塁に多門櫓台を設けた構造で、きたい丸北西角の隅櫓台から北の角、藤見櫓台、北東面に続き相坂のある雁木を設け、鐘の櫓台と続き、本丸下段東郭助左衛門御門西の脇櫓台を兼ねて厳重な枡形へと繋がっている。本丸上段をコの字型に北西、北東を護っている。
北側は山容が急峻に落ち込み崖と成り現在市営グランド、同駐車場に成っている。
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2023/04/22 11:50
2023/04/22 11:35
本丸上段 (2023/03/20 訪問)
松坂城の本丸上段は東角に金の間櫓、金の間櫓台所、同階段が構え、西角に天守と付櫓、敵見櫓の連立式構造が構え、南に金の間櫓台所台を東の脇石垣として三連の連続虎口が在る、西に天守下裏門虎口が在る、その間は多門櫓が周囲に構え護りを更に厚くして居る。
平成の石垣大修理完成でその遺構をしのぶ事が出来る。
17年前のH18年に探訪した折、歴史民俗資料館に寄り「松阪城再発掘」氏郷、1588年の都市計画とその後・平成16年3月25日発行の二刷り小冊子を購入しました、その中に名古屋工業大学内藤昌教授の松坂城天守・敵見櫓 南立面図と松坂城金之間櫓・台所東立面図が付図2、3として折込されており、その復元図面を見てさらに想像復元を頭の中で膨らませましたが、今回の探訪も同じ妄想復元でしのびました。
素晴らしい構造の天守で三層四階望楼型下見板張り高欄廻縁付き、付櫓、敵見櫓は二階建て高欄付き、また金之間櫓は二階望楼付きと素晴らしい建物だった様です。 発掘調査もされておりますので天守の復元がされると嬉しいのですが⁈ 天守は正保元年81644年)に大風(台風)で倒壊してその後再建無し、写真も図面も無く中々考察のみでは難しのでしょうね?
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2023/04/22 08:47
【かるた】岐阜城の読み札と絵札
岐阜城の 天守で天下 睥睨(へいげい)す
岐阜城の天守からの眺望は本当に素晴らしく、濃尾平野を一望にしていると信長ならずとも「天下獲ったらぁ!」な気分になるよなぁ、と。
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2023/04/22 06:46
2023/04/22 06:32
2023/04/22 06:08
熊本城の復旧状況(2023春) ④ 連続桝形 (2023/03/30 訪問)
行幸橋を渡った右手(長塀の左端)には「馬具櫓」がありましたが、現在は解体保存されています。櫓台はセメントで崩落防止の仮止めがなされていました(写真①②③)。ここも石垣から積み直しされるようです。馬具櫓の右側の「櫨方門」も解体保存されています(写真④⑤)。
門を入ると、竹の丸を通り本丸へと続く有名な「連続桝形」がありました。6回も折れ曲がる熊本城最強の防御が施された場所でした。西郷隆盛も近づく事さえできなかったこの場所! 今では別の意味で近づく事や立ち入る事も出来ません。
震災前までは、櫨方門から入り、竹の丸をぬけ、左手に飯田丸五階櫓を眺めながらこの連続桝形を通り、闇通路・本丸御殿下を通って本丸(天守)へ登城するルートが一般的でした。現在は、遠く特別見学通路の上から眺められるだけです。
連続桝形にも被害は多々あるようです。プレハブの事務所が置かれヘルメットをかぶった調査員が詳細に調べていました。また雑草を刈っている方々もいました。ここが復旧し通れるようになると特別見学通路も撤去されるのではないかと思いますが・・・近くに行けないので状況はよく分かりませんが、見た感じではまだ数年はかかりそうな感じです。(写真⑥⑦⑧⑨)
私はここでもう一度攻め入る体験をして、清正公と勝負してみたかったです(笑)(おはんが勝てる相手じゃなか!😩)。
次は、奇跡の一本足「飯田丸五階櫓」の現状です。
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2023/04/22 03:50
2023/04/21 22:30
小谷城⑤ 福寿丸、山崎丸 (2023/04/08 訪問)
大嶽城に続いて最後の投稿をさせて頂きます。
【福寿丸】
朝倉氏により築かれた出城とされます。
北側は二重の堀切で、土塁と堀に折れがあり、北西側の虎口は枡形状です。
南北二段の曲輪は土塁で囲まれています。
東側の虎口も枡形状で、その南側には空堀もあり巧妙です。
【山崎丸】
ここも朝倉氏により築かれた出城とされます。
南東側に突出部があり横堀が折れています。
南西側の虎口は2回曲がって南側の曲輪に入ります。
南北二段の曲輪は土塁で囲まれています。
南曲輪から中央にある北側の主郭への虎口は枡形状です。
北側の虎口も枡形状で外側には二重の竪堀があります。
福寿丸と山崎丸は似たような縄張りで、浅井氏の本城とは違うテクニカルな出城で驚きました。
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2023/04/21 21:59
2023/04/21 21:38
2023/04/21 20:57
表門から二の丸周辺 (2023/03/20 訪問)
松坂城の二の丸は北東筋の大手門から南西に表門が枡形で構えて本丸下段北東石垣と二の丸北東石垣の間を南東に入り虎口枡形は土戸御門を抜けて本丸下段月見櫓台下を通って二の丸に入る、本丸下段の東を護る郭に成っている、北東、東、南側を高石垣、東は出隅で南北に横矢が掛り、西端に大型櫓台で裏門の東を抑えてる、南側の三の丸には御城番屋敷があり二の丸からよく眺望できる。
紀州徳川氏時代には二の丸に御殿が建ち藩主の宿泊、南伊勢の政務を執る徳川陣屋と呼ばれていた。
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2023/04/21 20:35
【かるた】高遠城の読み札
鎮魂の 桜花零(こぼ)れる 高遠城
天正10年3月に思いを馳せて。
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