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おっちゃん

佐倉城案内図 (2015/09/19 訪問)

現地案内板より抜粋。

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POYO58

城と動物

さあこの石垣の写真。どこに何がいるかわかりますか?難問!答えお待ちしてます。投稿から動物の名前をお知らせください。

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BUCHI38

積み方の異なる石垣。 (2022/04/30 訪問)

さあ展望台から景色を眺めたら、次は石垣。本アカウント(POYO 58)でも記したようにこの城は4種類の積み方をした石垣が存在します。全て役割は違い、さまざまな縄張りを構成します。二の丸を行ってみると、この城でここにしかない谷積みの石垣が確認できます。二の丸の櫓跡の隣には的場があり、打ち込み接ぎが。谷積みの先には切り込み接ぎも見えて来ます。石垣を見てしまうと止まりません。模型で見てみるとこの石垣の上には建物がずらりと並んでいると考えられていて、当時の様子が想像できました。

苗木城に関しては終わりです。投稿をご覧になられた皆様お疲れ様でした。

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BUCHI38

続 苗木城主郭へ足を運ぶ。 (2022/04/30 訪問)

さて大矢倉を見た後は天守跡へ向かおうと思った時大矢倉から後ろを振り返ると、なんと見事な展望台。景色最高です。登城路は数回区画しています。登るときに何度も見えてくるのは巨石。この道をそるようにたっている石垣は殆どが野面積み。もしかしたら、本丸は最初の戦国時代に作られ、その後、大矢倉など打ち込み接ぎの石垣を徳川時代に作ったのかな?考えると面白いです。展望台は沢山のアングルで撮ることができ、どれも最高。登っていくと大矢倉の全体も見下ろすことができます。そして展望台を登ると、木曽川と恵那山の絶景、汗だくでした。まだ4月なのに。でも見どころはここだけではないです。

さあ次は石垣を中心に見ていきましょう♪
続きます。

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POYO58

半年ぶりに再攻城 (2022/04/30 訪問)

遠山氏により築城。織田氏と武田氏と縁戚関係を結び勢力を広げるものの、本能寺の変後、森長可に城を奪還される。その後、関ヶ原合戦前、家康の命令により苗木城を取り戻す。その後270年間、12代にわたり遠山氏が城主を務めた。

石垣がとても良好な状態で残っています。積み方は場所によって異なり、野面積み、打ち込み接ぎ、切り込み接ぎ、谷積みの4種類に分かれます。特に、打ち込み接ぎが多くを占めています。戦国時代のお城のものの、石垣は徳川時代の積み方のように綺麗に積まれていました。またここは巨石がいくつか配置されており、敵の攻撃を妨げるような形になっています。天守跡には現在展望台があり、木曽川と恵那山を見ることができます。二の丸と武器蔵には礎石が残っていて、ここに櫓が建っていたことがよくわかります。春はとても桜が綺麗だそうです。ただ登るので汗をかくので3月が一番いいと思います。

続きます。

評価
全体:4
遺構:4
行きやすさ:2
建物:-

攻城時間
60分〜90分 結構城まで歩くので。

アクセス
車 中津川インターから国道257号(下呂方面)約6km
電車、バス 中津川駅から北恵那交通バスに乗り苗木バス停で降りる

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ぴーかる

【究極の1枚】

落ちたらヤバい!(>_<)

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ぴーかる

【究極の1枚】

落ちたらヤバい!(>_<)

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ぴーかる

竹中氏陣屋 (2022/04/09 訪問)

【竹中氏陣屋】岐阜県不破郡垂井町
<駐車場他>陣屋跡櫓門前に観光駐車場無料あり。
<交通手段>車

<見所>櫓門・石垣・堀
<感想>城びと未登録の竹中陣屋、見所多い陣屋跡なので菩提山城とは別に別途投稿します。この登城日の1週間前に美濃攻城が降雨で中断したので今回は日帰りで続きを行った。
 竹中陣屋は元々竹中氏の平時の平城居城で岩手城と呼ばれていました。山城の菩提山城と使い分けていたようです。関ケ原合戦時には竹中半兵衛の息子竹中重門は当初西軍側に付いていましたが、東軍に鞍替えし、この地に匿われたこともある黒田長政に強力します。合戦後重門は旗本となった為に城は陣屋となりました。
 現在陣屋跡は小学校となっている為に中に入ることはできませんが東側の正門である櫓門と堀・石垣は見ることができます。一角しか残ってはいませんが元々城として築城されたものであるだけに堅固で立派、見ごたえあります。

<満足度>◆◆◇

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ぎりょう

江戸時代初期に奥州押さえの地に築かれた土の城 (2022/04/22 訪問)

赤館城の次は棚倉城へ。この城は元和8年(1622)に常陸江戸崎から5万石で移封された丹羽長重が築城を開始するが、寛永4年(1627)その完成を見ずに白河に所替えとなる。以後は内藤、太田、松平(越智)、小笠原、井上、松平(松井)と藩主は交替し、最後の藩主阿部氏のとき戊辰戦争により焼失したという。城地は本丸を二ノ丸で取り巻き、北西に三ノ丸を置く「土の城」。本丸を囲む高い土塁と東西南北の内堀、大手道から続く南門桝形、北二門桝形が保存されている。往時は本丸土塁上をすべて多門櫓が巡っていたというが、土塁の幅と本丸内から見上げる高さがかなり印象的である。明治5年の調査記録である富原文庫蔵「陸軍省城絵図」に、本丸は「本城跡」と記載され、ニノ丸の大手門、南門、北一門、土蔵、板蔵、長屋、屋敷(旧知事住居)などの記載があるが、本丸にあった櫓5か所と櫓門2ヵ所、多門櫓は「跡」と記載されている。
戦国時代には常陸佐竹氏と陸奥芦名・白川結城氏の国境、江戸時代にあっては関東側の奥州押さえの地として親藩・譜代の家が配された城。水戸街道沿いにはかつての城下町風情がたっぷりと残る街並みが続く素敵な場所である。

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カズサン

木付から杵築へ名称が変わる (2009/06/10 訪問)

 杵築城へは中津城を終えてレンタカーで移動し杵築城手前の専用駐車場を利用、模擬天守閣も有り以前より訪ねたいと思って居りました、今回の4泊5日大分県宮崎県城廻り探訪の2城目です。
 小雨降ったり止んだりの中登城、小雨、城中は木も茂り葉も茂り中々良い写真が撮れない、駐車場から城門を潜り天守曲輪、天守閣に登る、天守からの眺め、遠く城下、八坂川、杵築大橋から先は河口の干潟が広がり別府湾豊後水道側の海に繋がる、雨も降り坂の町杵築は勘定場の坂を下から眺めて終わる。

 木付城は半島状に海に突き出た元岩盤小島を城として木付氏が築き大友氏と共に滅び城主が以後移り変わり細川氏の時代に重臣松井氏が城主にこの時代に宮本武蔵が寄ってたのではの伝聞あり、小笠原氏、松平氏と代わり松平氏の時代正徳2年(1712年)6代将軍徳川家宣の朱印状に木付が杵築と誤記された事から以後、杵築と成ったとの事。(城内案内板抜粋)
 城内が狭く西の台地に侍屋敷を構え坂の町杵築が作られ武家屋敷が良く残ってる、昭和45年には模擬天守閣が建てられ資料館、岩盤の上に天守閣が各方位から眺められ風景に溶け込んでいる。

 余談ですが NHKドラマの「陽炎の辻~居眠り磐音 江戸双紙から」で豊後関前藩が磐音が帰路関前藩を峠から眺めるCGの海に浮かぶ城郭は何処かなと想像すると、杵築城か臼杵城かと思い悩ますのですが父国家老のロケーションを考えると杵築の武家屋敷の様に思えるのですが、如何でしょうか?

 

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赤い城

桜の季節が過ぎたあとに (2022/04/24 訪問)

桜の名所でもある100名城の一つ。
歴史博物館も城域となります。
この日は京成佐倉駅から徒歩で登城しました。
歴博手前の堀を渡り坂道を登ると角馬出に。
黄色いタンポポが彩を加えていました。
へび坂を降りて出丸へ。
薬医門から一旦外に出ます。
水堀沿いに歩き、本丸へ戻ります。
遅咲きの八重桜も終わりかけ、曇天でもあったためか人も少なかったです。
主郭の土塁は高さもあり、堀に降りることは出来ませんが深さがありました。
現時点での最大の見どころは三の丸の空堀かと思います。
深さもあり、横矢も掛かる素敵な彫りでした。
今回は駆け足での見学になりましたが、更地だった大手門の辺りが公園になっていて土塁が復元されていました。

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10Q-Nobu

定期復興確認 (2022/04/30 訪問)

3年ぶりに熊本城を訪問。
前回はまだクレーンに囲まれて復興中でしたが、今回は天守内も開放されてました。しかし天守から階下を見ると、まだ手の付いてない崩れた石垣がよく見えて、まだまだ復興に時間がかかりそうです。

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岩崎城

第1回岩崎城歴史講座のお知らせ

第1回歴史講座は、
「丹羽一族の城館ー藤島城・傍示本城・諸輪北城・諸輪中城を中心にー」です。

日進市域を支配していた岩崎丹羽家。日進市には丹羽家の居城である岩崎城のほかに一族の城も含め、
いくつかの城が存在します。その中でも丹羽家分家の藤島城は城館の規模も大きく、
本家との争いにも登場する城です。丹羽家の支配領域は東郷町にまで及び、
岩崎城の戦いで討死した城代・丹羽氏重ゆかりの城もいくつかあります。
今回はそんな丹羽一族の城にスポットライトを当てて、その歴史や現状を紹介します。

ぜひお気軽にご参加ください!

※講座は一回ごとに募集いたしますので、お好きな講座にのみご参加いただけます。
募集期間等はその都度ご案内します。

募集期間:6月11日(土)~25日(土)
開催日時:6月26日(日)13:30~15:00

場所 :岩崎城歴史記念館2F 多目的ホール

対象:日進市内在住・在勤・在学の方を優先(市外の方も可)

講師 :当館学芸員 内貴 健太

定員 :30名(先着順)

参加費:無料

申込方法:日進市広報・当館ホームページなどで募集開始後、
期日までに当館へお電話にて申し込みください。

お問い合わせ  岩崎城歴史記念館
〒470-0131 日進市岩崎町市場67番地
Tel 0561-73-8825 Email n-iwasakijo@mf.ccnw.ne.jp
HP  http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/
開館時間 9:00~17:00 休館日/月曜日(祝日の場合は開館)、12月28日から1月4日

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ぎりょう

赤館(福島県棚倉町)佐竹氏✕芦名・白川結城氏攻防の中世山城 (2022/04/22 訪問)

郡山市に所用があり未踏の地棚倉町を訪れた。お目当ては、建武年間の築城説から始まり、赤館氏、芦名・白川結城氏連合、佐竹氏、立花氏、丹羽氏と戦国時代から近世初頭の寛永年間まで続いた南東北を代表する山城「赤館」です。
棚倉市街から北に2kmほど。現在は桜の名所「赤館公園」として市民の憩いの場所となっている。比高60mの丘陵最高部に東西120m、南北130mほどの主曲輪を中心に山腹と尾根伝いに曲輪群が続く縄張。遺構は曲輪、切岸、虎口跡など。また南東側に鎮座する宇迦神社も出曲輪であったという。
赤館は元和8年(1622)に丹羽長重が棚倉に5万石で配され、寛永2年(1625)の棚倉城築城により、その長い歴史に幕をおろした。丹羽氏以前の慶長11年(1606)に、立花宗茂が棚倉で1万石の大名に復帰し、この赤館を居城にしたという。関ヶ原戦後に浪人し、慶長9年(1604)に幕府に召出され、当時は二代将軍秀忠に近侍していた宗茂が棚倉を訪れることがあったのかは知らないが、主曲輪から眺める奥州の景色は戦国の雄の眼にどのように映ったのであろうか。

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10Q-Nobu

よりみち城巡り (2022/04/30 訪問)

熊本城再訪の前に久留米城によってみました。
駅から城まではブリジストン城下町みたいな街並みでしたが、本丸は綺麗に石垣で堅められ見所はある城です。

有馬氏入城400年を記念して、北側の木を伐採し遊歩道を整備したようで艮櫓跡からの眺めはオススメです。

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todo94

県内の城めぐり2022⑮ (2022/04/09 訪問)

北アルプス展望美術館から信濃富士と呼ばれる有明山方向に向かって小岩嶽城を目指しました。模擬砦門や烽火展望台が建てられている城址公園です。説明板の縄張図に詰城が記載されていたので、詰城に向かったのですが道はかなり険しいです。眺望の開けた曲輪から有刺鉄線沿いに登っていって何とか詰城には到達できたかと思います。落ち葉が厚く積もった急斜面で知らない間にスマホを落としてしまい、冷や汗をかいてしまいました。

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イオ

小浜宿めぐり (2022/04/16 訪問)

伊丹台地の西端に位置する一向宗の毫摂寺を中心とする寺内町が戦国期に城郭化したもので、北・西・南の三辺は大堀川、東辺はため池と土塁で囲み、東門は京伏見街道、南門は西宮街道、北門は有馬街道に通じた要害かつ要衝の地でした。毫摂寺の娘が豊臣秀次の側室になっていたことから秀次切腹事件に連座して焼き打ちに遭いましたが、江戸期には宿場町として復興し繁栄しました。

小浜城としての明瞭な遺構は見られませんが、台地の縁らしく思いのほか眺望が開けていたり住宅地の中にクランク状の道があったり、かつての面影を伝える史跡は遺っていますので、あちこちめぐってみました。

毫摂寺
小浜御坊とも呼ばれる寺内町の中核寺院で、豊臣秀吉や千利休、豊臣秀次が有馬温泉への道中に宿泊したとされます。毫摂寺の次女(小浜の局)はその時に見初められた挙げ句に処刑され、さらには焼き討ちまでされるんですから、もう滅茶苦茶ですよね…。立派な本堂は江戸末期の再建です。

小浜宿資料館
山中鹿之助を祖先とする山中家住宅の敷地内に建つ資料館で、交通の要衝としての制札や大工の町として大工道具など小浜宿についての資料が展示され、中でも町並みのジオラマは精密な出来で、大堀川とため池に囲まれた小浜城の縄張がよくわかりました。また、敷地内には利休が秀吉に茶をたてた際に用いたと伝わる玉の井があり、申し出れば見学することもできます。時間のある方は資料館の方が丁寧に案内して下さいますので、ぜひどうぞ。

代官所跡
代官所跡は公民館になっていて、通り沿いに石碑と高札場(復元)が建てられています。

井川家住宅
清酒「菊仁」の造酒屋で、阪神淡路大震災で小浜宿の建物の多くが倒壊した中、江戸期の建物が現存しています。ブラタモリの宝塚の回ではタモさんが井戸の水汲みをしていました。

門跡と愛宕宮
東門、南門、北門ともに門自体は遺っていませんが、それぞれ門跡の石碑(北門には説明板も)と門の脇にあった愛宕宮が見られます。

大堀川
小浜城の北・西・南の三辺を囲む堀代わりの川ですが、城郭化した際に人工的に流路を変えたと考えられます。特に北辺ではかなりの深さの谷状になっています。

旧和田家住宅
江戸期に飯野藩領の庄屋を務めた和田家の住宅で、阪神淡路大震災で半壊するも古材を用いて修復され、往時の姿を今に伝えています。建物内は歴史民俗資料館として公開されており、土蔵や井戸が見られるほか、長槍やとび口が展示され、訪問時には豪華な御殿飾り雛も飾られていました。小浜城の外ではありますが(北門跡から徒歩1分)、なかなか見応えがありますので、時間が許せばぜひ。
 

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にのまる

【城と看板】

やめて。

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小城小次郎

淡河氏へのリスペクトか (2022/01/08 訪問)

鎌倉北条氏の流れを汲む淡河氏は三木城攻めの際には別所方として奮戦し羽柴軍を大いに困らせたらしい。淡河城の最後の城主は有馬氏だが淡河城本丸脇には今も淡河氏累代の墓がそのまま残る。淡河氏へのリスペクトではなかろうか。

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にのまる

🌸桜🌸 (2022/04/01 訪問)

18きっぷ3回目の1城目。
八高線児玉駅から徒歩10分くらいです。途中、まだ全然それっぽくないところに突然「縣指定史蹟雉岡城址入口」と刻まれた石柱が現れました。史跡指定が昭和13年なのでその頃のものかもしれません。
訪れたのはちょうど桜が満開となるころで、今を盛りと咲き誇る300本のソメイヨシノを土塁の上から眺めつつ城跡散策を楽しみました。公園として整備されていますが大手門跡はその形状がよくわかりましたし、水堀も空堀も残されていて、学校建設のために二の丸や三の丸が消滅したとはいえ、城址の面影を十分に感じることができました。
騎馬像が坂上田村麻呂と教えてくださりありがとうございます。

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