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ぴーかる

山崎合戦古戦場巡り (2023/04/22 訪問)

【山崎合戦古戦場跡】【山崎城】
<駐車場他>山崎合戦古戦場跡:天王山夢ほたる公園前に少しの間なら停車できる。山崎城:未調査
<交通手段>阪急電車:西山天王山駅から徒歩

<見所>天守跡・天守跡石垣・枡形・転用石
<感想>山崎城の築城は1338年以前に摂津守護の赤松範資が南朝方の警護のために林直弘に命じて築城したとされます。南北朝の争乱や応仁の乱で次々に入城者が変わります。戦国時代後期は三好長慶の城となり、山崎の合戦後に羽柴秀吉が麓付近の宝積寺も含めて大改修を行いました。現在残る遺構はこの大改修の時のものと思われます。

 遠い昔の学生時分に通学でほぼ毎日電車から天王山を見ていましたが古戦場跡も天王山を登るのも初めて。今シーズン最後の山城攻めにしようと思い、天気の良い日のとっておきにしていました。

 ハイキングウォーキングを兼ねて今回はこれも馴染みの阪急電車を利用して午前中は嵐山城、午後に山崎を巡りました。巡り順に、
[阪急西山天王山駅]駅前に秀吉の力水という地下水があります。

[明智光秀本陣跡境野1号墳]サントリービール工場のそばの古墳が本陣跡です。石碑と説明板、古墳は半分一般墓地になっているので墓地最上部に登れます。確かに微高地になっていて南方向が見渡せますが、せり出た天王山と桂川のある狭地より若干北側の抜けた所で、男山と天王山の兵を撤収して勝竜寺城の改修に回してしまう後手の守りになってしまった光秀、何故。

[山崎合戦古戦場跡]天王山夢ほたる公園に石碑と合戦の説明板があります。添付写真は天王山を背景に「歴史人」に掲載されていた同じ構図で撮ったつもりでしたが、やはり素人全然違った。

[山崎城]南側の登山口は2つあり、観音寺の横の登山口と宝積寺を通る登山口があります。旗立松展望台の少し手前で合流します。展望台の周辺には山崎合戦地碑や合戦絵図の石板等があります。城跡手前の酒解神社は創建が鎌倉時代で重文の神輿蔵が残されています。そこから城跡へは広い登山道を登り、枡形のような広い削平地に入ります。主郭は楕円形で北側奥に天守台の可能性もある櫓台があります。石垣が少し残されています。主郭の背後は帯曲輪があり北側下方は谷になっています。南方向は段曲輪が半円形状に広がって数段ありますが3段目より下は竹藪で入り込めません。主郭や虎口付近の通路跡に酒解神社の転用石と思われる何かの台座が数か所(添付写真)見られます。観音寺の横の登山口から登城して、宝積寺を通って下山しました。

[宝積寺]山崎の合戦で秀吉が本陣を置いたお寺です。山崎合戦後山崎城を改修するのにこのお寺から山頂までを抱き込んで一体化したようです。秀吉が一夜で創建した3重塔が残されています。ここでも登頂証明書と山崎城御城印が購入できます。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

電話ボックスと下館ジャスコ。 (2023/05/13 訪問)

940年頃に平将門さんが挙兵した際に、藤原 秀郷さんが築いた「下館城」。
まさかの明治2年に廃城しました。長い年月、活躍したんですね。この辺の歴史、勉強不足です。
秀郷さんは、上館・中館・下館の3城を築いたそうです。
その1城の「下館城」は五行川沿いにありました。
八幡神社が本丸。こちらに説明板と石碑がありました。お隣に小学校があり、間に道路が通ってます。こちらは堀のようで、坂になっていました。
下ると五行川にぶつかります。

駐車場がないので、堀である坂に駐車し、写真を写し移動しました。

電話ボックスがあり現役で活躍してるのか、懐かしいたたずまいです。
私は45年位前、茨城県の筑波山の麓にある祖母の家に遊びに行くと、下館のジャスコに連れてってもらいました。
なので、下館=都会 だったのですが、昭和ムードが感じられました。
すいません、脱線しました。

今は昭和より、平安時代以降に何があったか調べたい「下館城」でした。

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赤い城

石が転がり石積も残る (2023/05/28 訪問)

麓の根古屋神社から登城路があるようですが案内板に沿って進み、説明板が設置されているところから登城しました。
車は少し広いスペースがあったので路駐。
登城路は整備されていて歩きやすいです。
少し進むと門跡のような堀切があり、竪堀となり落ちていました。
さらに進むと石が転がり、導線を兼ねた横堀にも石が転がっていました。
主郭につながる段曲輪には石積もありました。
たまたま立ち寄った城ですがこの日の城では一番な感じでした。
元々は武田氏家臣の江草氏の城ですが天正壬午の乱では北条氏の陣城だった可能性もあるようです。

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小城小次郎

海老名から来た海老名氏の城なのだそうだ (2023/01/07 訪問)

お城っぽくないのはこのお城が南北朝時代に焼かれて以降使われた形跡がないせいか。この地に根付いた海老名氏は生国の相模を地名(相生)に冠するほどの力を持っていたが、江戸時代には武士ではなく豪農となる道を選んだそうだ。

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POYO58

まるで島 (2023/04/01 訪問)

ちょー久しぶりの投稿となってしまいました。すみません。
今回は岸和田城について紹介させてください♪
宇陀松山城訪問後岸和田城に行きました。岸和田城は秀吉の叔父が築きました。その後江戸時代の改良を終え、現在の姿となっています。
残る遺構としては石垣と水堀くらいですが、犬走が残っていることが特徴的ですね。石垣は積み方が分かれていました。打ち込みはぎ中心ですが、切り込みはぎもありました。
本丸には模擬天守か建っています。もちろん元々天守はあって5階だったそうです。結構高いですな。
そして一番重要なのは天守の中、なんと明智光秀の本物の肖像画が残っています。大変貴重です。ちなみになんでここかというと、山崎合戦の後、明智光秀は坂本にいったのではなく大阪にのがれ、この岸和田の本徳寺と言うところで僧になったと言われています。
この時期はとても桜が綺麗でしたよ。
ぜひ行ってみてください。

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カズサン

西の丸・馬場平・井戸曲輪 (2023/05/25 訪問)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」放映も三方ヶ原合戦が終わり、長篠・設楽原合戦へと進むと武田勝頼との高天神城攻防戦が期待されますので、今一度高天神城を探訪しておこうと平成26年11月以来の二度目登城を前回登城の追手口からを搦手口登城として未踏の西峰曲輪群を探訪観察、投稿は横堀と堂の尾曲輪編、二の丸・袖曲輪・馬出編に続いて、西の丸・馬場平・井戸曲輪編で投稿させて頂きます。

 搦手口から登城しますと東峰の本丸曲輪群と西峰の西の丸曲輪群の分かれに着きます、追分には高天神城の案内絵図、歴史解説板が有り、西峰に向い高天神社の灯籠を通り井戸曲輪に入る、井戸曲輪南に鐘曲輪と案内板、井戸曲輪の中心に「かな井戸」、縄張り図付きで高天神城西峰に残る曲輪群の真新しい解説板在ります。
 また真新しい解説板の近くにはスマホにかざすとAR・VRアプリ「バーチャル攻略高天神城」受信スポットが設置されており、事前にアプリをダウンしておくと見る事が出来ます。当日現地でダウン出来ず私は見る事が出来ませんでした。
 井戸曲輪から北に回り込むと既に投稿した、二の丸、袖曲輪、馬出、北に長い横堀と堂の尾曲輪切岸土塁、井楼曲輪が有り、今回投稿西の丸は井戸曲輪から西に高天神社鳥居を潜り長い急な階段を登ると西の丸跡へ、鳥居横には高天神城合戦将士忠魂之碑が祀ってあります、西の丸跡は二段に成り上段に高天神社本殿、下段に社務所、手洗舎、西の丸跡の標柱、階段南横には竪堀が伸びて標柱あり、西の丸跡の高天神社の北・西の裏には土塁か残り、西に堀切を挟んで馬場平が構えています、眺望は南側遠州灘が一望景観良好です、馬場平の西には武田方の軍監横田甚五郎が高天神城落城報告のため駆け抜けた道「犬戻り猿戻り」が有り狭く両側は急峻な崖に成っており往時を偲ばせます。

 西の丸から南に伸びる見張り台を西の丸上段、下段を見ていながら探訪を忘れてました、が案内板も無く、気が付かなかったのか良く分かるようには成って居ませんでした、帰って投稿する段に成って失念に気が付いた次第です、またのタイミングで挑戦したいと思っています。
 
 続きは「本丸周辺編」、「搦手登城編」へ
 

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じゅんじん

天守 (2023/05/04 訪問)

夕方訪問。周囲を歩きました。

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じゅんじん

お城はどこ (2023/05/05 訪問)

城址碑があるところは発掘しても何もなしだったそうです。

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じゅんじん

お墓 (2023/05/05 訪問)

お墓が道沿いにありました。近くの有鹿神社は神奈川県最古の神社で海老名総鎮守です。

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じゅんじん

交差点 (2023/05/05 訪問)

お墓があるところ付近でしょうか。

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イオ

古墳を改修した城 (2023/02/11 訪問)

室町期に幕府奉公衆として岡山や砂寺内を領した結城氏の城で、三好長慶が飯盛城に入ると支城として機能したようです。松永久秀に仕えた結城忠正が改宗(洗礼名アンリケ)したことが河内キリシタンのはじまりとされ、岡山はその中心地となりました。その後のことは不詳ながら、大坂夏の陣では徳川秀忠の本陣が置かれ、戦勝を祝して御勝山と呼ばれるようになったと云われます。

忍陵神社が比定地とされますが、神社の説明板や立札に城(本陣)の記述が見られる程度で、遺構は消滅しています。神社東側の参拝者用駐車場から周囲をひとめぐりすると、南側へはなかなかの高低差があり独立丘陵上であることを実感しました。なお、社殿の東隣からは古墳前期の忍岡古墳の竪穴式石室が発見されており、覆屋によって保護されています。古墳を改修した城だったんですね。

それにしても、古墳を改修した城や陣城というのはいくらでもありますが、「大坂の陣で」「徳川秀忠が」「古墳を改修して本陣を置き」「戦勝を祝して岡山を御勝山と改めた」という条件に合致する城(砦)がもうひとつある(大阪市生野区の岡山砦)というのは何やらでき過ぎのような気もします…。
 

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:加賀野井城 (2023/04/27 訪問)

駒野城からの転戦です。標柱説明板前(35.292816、136.716612)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、 天正年間(1573年〜1591年)頃には加賀野井秀望が織田信雄に仕えて415貫文を領していたそうです。
小牧・長久手の合戦では豊臣秀吉によって攻撃され落城、秀望は城を脱出して逃れたそうです。

田畑の中に標柱と説明板が建てられているのみで遺構は残っていません。
グーグルが狭い道ばかりナビするので、脱輪しないかヒヤヒヤしながら運転しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=竹ヶ鼻城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:八神城 (2023/04/27 訪問)

駒野城からの転戦です。移築一の門付近(35.254872、136.685538)に路駐して移築一の門を確認し、その後、銀杏付近(35.267490、136.692877)に路駐して銀杏を確認しました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年~1570年)初期に毛利氏によって築かれたと云われています。
毛利氏は清和源氏の後裔を称し石田城を居城としていましたが、22代広盛の時に八神城を築いて移り、織田信長に仕えたそうです。
江戸時代には尾張徳川氏に仕え3,000石を領し明治まで続いたそうです。

現在は田畑と住宅地となっており、僅かに石碑と案内板のある辺りに土塁が残されています。
攻城時間は移動を含めて10分くらいでした。次の攻城先=加賀野井城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:高須城 (2023/04/27 訪問)

駒野城からの転戦です。城跡公園入口(35.222300、136.630290)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1338年(暦応元年)美濃国石津郡に地頭職を賜った氏家重国が館を構え、これを高須城の前身とする説があるようです。
1522年(大永2年)大橋重一が築き、以降、信重、重長と続きます。
大橋氏は後に勝幡城の織田信秀に属し、天文年間(1532年〜1555年)以降は高津直幸、平野長治、秋山信純など多くの城主が入れ替わりました。
関ヶ原合戦後、松ノ木城から徳永寿昌が50,700石で高須城に入り高須藩となりますが、二代徳永昌重は1627年(寛永4年)大坂城改修工事で監督不行届があり改易され、出羽国鶴岡藩酒井忠勝、さらに出羽国新庄藩戸沢政盛にお預けとなりました。
同じく、嫡男徳永昌勝もお預けの身となっていましたが、1648年(慶安元年)に赦され、子孫は2,200石の旗本として速続しています。
1640年(寛永17年)下総国関宿から小笠原貞信が22,700石で高須へ移ってきましたが、度重なる洪水などに悩まされ、自ら領地替えを幕府に願い出て、1691年(元禄4年)に越前国勝山へ転封となりました。
その後は天領となっていましたが、1700年(元禄13年)尾張藩主徳川光友の次男で信濃国高井藩主松平義行が高須藩へ転封となり、以降、高須藩30,000石として代々続いたようです。

高須小学校の北側の「城跡公園」に説明板があります。遺構は残っていません。城跡公園入口に路駐した為、速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=八神城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:駒野城 (2023/04/27 訪問)

津屋城からの転戦です。防火水槽付近空スペース(35.226968、136.594217)に駐車して、説明板付近(35.227669、136.593575)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、正暦年間(990年〜995年)瀬戸道明寺が城を築いたのが始まりとも云われています。
鎌倉時代の文治・建久年間(1185年~1198年)には守護職土岐光衡・光行が南濃の要地として城を築き守将を置いたそうです。
その後土岐家歴代の家臣が守っていたが、1542年(天文11年)斎藤道三の家臣髙木彦左衞門に攻略され、この時より高木氏が居城したとの伝承があります。
一般には文明年間(1469年〜1487年)に高木貞政が築城したとされるが、その伯父・高木貞成が永正年間(1504年〜1521年)に築いたとの記録もあるようです。
髙木系譜によれば、2代目髙木彦左衞門貞久は織田信長に仕え、次男貞利へ1567年(永禄10年)駒野城を譲り今尾城主となり、1568年(永禄11年)弟貞秀に譲っています。
1579年(天正7年)貞秀は庭田城へ入り、弟貞友に駒野城を譲ったそうです。
信長没後、高木貞友は徳川家康の家臣となり、1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで秀吉方の筒井順慶らと戦ってこれを退却させたが、秀吉の天下になり、髙木一族は美濃を退去したそうです。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の際、石田三成がこの地を巡察し、桑名より大垣への守りのために塁壁の構築を命じたが、関ヶ原合戦後、駒野城は廃城となりました。

校門の先50~60mほどの所に大木があり、その下に説明板がありますが、敷地内に入れませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高須城に向かいます。

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三浦の晃ちゃん

橋が印象的 (2023/06/03 訪問)

江戸時代からの建物は、門があります。譜代大名のお城です。池にかかる橋が、印象的でした。城内には、花がキレイに咲いていました。

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キンヤ

街中に遺構が良く残された総構えの平城 (2023/05/27 訪問)

1594年に加藤貞泰により築城され、1610年に伯耆国米子へ移封となるまで、わずか16年のみ使われ廃城となりました。

本丸は方形で中はグランドになり、周囲に高い土塁と堀が巡っています。
但し、南側の土塁は昭和に復元されたようです。
南西側には枡形虎口跡があり、西に土塁が張り出していますが、南側の土塁は失われてます。

個人運営と思われる二ノ丸資料館で見学をお願いすると、館長さんが詳しい説明をして下さり、資料を沢山見せて頂き感謝です。

北側の外堀跡は搦手・東木戸跡から西木戸跡まで東西に長く残っており、数ヶ所で折れがありました。
特に多賀神社裏側の外堀が見応えありました。

「岐阜の山城ベスト50を歩く」の本の縄張り図によると、城下町南西側に土塁跡があるので行ってみると、折れもある土塁がありました。
ただ、後世の堤の可能性もあるかもしれません。

外堀跡まで巡ると総構えで規模の大きさがよく分かり、街中に遺構が良く残された貴重な平城だと思います。

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朝田 辰兵衛

大可島城から徒歩で。 (2023/03/20 訪問)

大可島城から,鞆の浦のシンボルとなっている常夜灯を経由して,鞆城へ。町並に風情があるので,ゆっくりと時間をかけて。
月曜日ということで,鞆の浦歴史民俗資料館は休館日でした。しかし,(雨男なので)天候に恵まれたのでよかったです。同伴の母が晴れ女なんだと思います。

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龍ノ口城(城びと未登録) (2023/04/30 訪問)

備中の兵乱で、毛利氏と宇喜多氏に挟撃され、滅亡した三村氏。一時期、備中の覇者でありながら、知名度は低いです。三村氏を主役にした、井瀬伴著「瀬戸の群狼」を見つけ、これを参考にして、2020〜2021年に、「備中の覇者 三村氏所縁の城を巡る」と題して、備中〜備前の城を訪問し、いくつか投稿しました。
小説の中で、穝所氏の龍ノ口城が、三村氏と宇喜多氏のせめぎあいの重要なポイントになっています。まだ、訪問できておらず長らく気になっていたのですが、リニューアルされた岡山城天守閣を見学するついでに登城してきました。

龍ノ口城は、地理的にも旭川が平地に出る地点、山陽道の渡河点で重要であり、備中勢の最前線でした。城主の穝所元常は、主家の松田氏が備前・宇喜多氏に取り込まれるのに反して備中側につきました。宇喜多直家についての軍記ものでは、宇喜多側に暗殺されたとされることが多いようですが、上記の小説では三村側の弥屋与七郎が、堅城の龍ノ口城を欲しくなり、城の西側の絶壁から突き落としたとしています。
城の北側と西側が絶壁。南に続く尾根には深い堀切があります。さらにその先に、雛壇状の平削地の出丸郭群が。現在は出丸郭群の下の鞍部分に鳥居があり、主郭にある龍ノ口八幡宮への参道になっています。今回は、西側の尾根道を登りました。岩が露出した険しい道でした。主郭西側の絶壁上から岡山城方面もよく見えます。

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ぴんぴん

2回目の訪問 (2023/06/03 訪問)

中世のお城の特徴をほぼ残している非常に貴重なお城です。
今回は資料館で詳しい説明を聞く事ができ大満足でした。

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