古墳が連なる平山城
(2023/02/26 訪問)
越智谷に向かってのびる尾根の先端に位置し、大和四家に数えられる越智氏が南北朝期に居城として築いた城で、筒井氏との勢力争いの舞台となりましたが、織田信長に屈服した後は大和一国破城令により廃城となりました。
越智公民館の駐車場に駐めさせてもらって登城開始。水路沿いに東に進むと、馬蹄形の尾根の南向きに開けた谷間に南北三段のオヤシキと呼ばれる居館跡が広がっています。現状は畑になっていますが、瓦器や土師器、青磁、宋銭などが発見されているようです。
オヤシキ後背の尾根が城郭部分で、東尾根南麓の土塁の間を抜けて鉄塔管理用の道を登って行くと、東尾根には小さな古墳が連なっていて明瞭な城郭遺構はほとんど見られません。かろうじて北東端の東麓を見下ろす位置に古墳を土塁や櫓台に見立てたような曲輪があったくらいでしょうか。東尾根を北側に下りると西側に防獣柵の入口があり、ここが北東側の登城口です。
防獣柵の中に入って尾根北麓を西に進むと、北からのびる尾根を遮断する巨大な堀切に行き当たります。竹につかまりながら北尾根によじ登ると、東尾根と違って古墳は見当たらず、削平された小さな曲輪群が尾根上に続いていました。北尾根の北端も巨大な堀切で断ち切っていて、堀切の西側にはいくつかの広い曲輪がありましたが、防獣柵で進めないので南側の堀切まで引き返して、今度は西尾根へ。
堀切付近から直登すると防獣柵沿いに扉があり、扉を開けて西尾根に進みます。西尾根も小さな古墳が連なっていて、古墳と古墳の間が堀切っぽくも見えますが、西尾根の真ん中あたりには明瞭な堀切があり、オヤシキ側に竪堀となって続いています。堀切の先は古墳を改修した曲輪が続き、南西端には櫓台に見立てた墳丘の三方を横堀で囲んだ曲輪が設けられていました。その南下には二段の帯曲輪があり、西側に堀切(堀底道)となって続いています。
…と、これで越智城をひとめぐり。未整備な上に古墳がそのまま遺るなど城郭としてもあまり加工されていませんが、それでも堀切や竪堀は見応えがありました。ただ、ほぼ全域に防獣柵が張り巡らされているため、登城ルートは限定されますのでご注意を。くれぐれも、来た道を戻るのが面倒だからと竪堀を下ってオヤシキへ抜けようとするも、防獣柵に阻まれてまた竪堀を登る羽目になったりすることのないように。…そんなヤツは私だけかもしれませんが(笑)
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