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シャンシャン

現存12天守4城目!! (2023/06/03 訪問)

瀬戸大橋を渡って香川に上陸、丸亀城へ。
ここはやはりなんと言っても石垣がすごい!
昔の人はこんなに高い石垣をよく築いたものだと感心する。
下から見上げると天守は立派に見えるけど、間近に来るとこじんまりとして可愛らしい。
崩れた石垣の修理完了予定は5年後。そのとき是非また来たい。

割と近くにある四国水族館とゴールドタワーも観光のついでに訪問。
両施設とも見応えあって大満足。
そして合間に食べた讃岐うどんもコシがすごくて美味い!

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カズサン

登城3度目逆井城一巡 (2023/05/31 訪問)

 下総栗橋城を終えて時間も若干あり、栗橋城探訪は消化不良気味であり、東方約11~12km程先に逆井城が在り地道を使い3度目の登城をしました。
 駐車場は大手口に専用駐車場が有り利用しました。

 前回2度目登城は平成22年11月で13年振りです、前回も家内と一緒で土浦城復元西櫓東櫓探訪見学の帰りでした。
 
 登城ルートは、大手口から大手橋、城門、二層櫓には登る、平櫓、井楼矢倉には登る、薬医門、主殿、観音堂、一曲輪馬出、内堀、鐘堀池、一曲輪内部、櫓門、櫓橋、東二曲輪、外堀、外堀橋、西二曲輪の事務所で係りの方にパンフレットと若干会話。
  会話中に今年の桜開花桜まつり前に、井楼矢倉に登れ様に改修補強したと、二層櫓も一時登れなかったようでしたが登れました、復元建物群も昭和60年県の史跡に指定された頃から発掘調査結果をもとに建てられており、補修の時期に成っているようです。
 逆井城の建物群はよく戦国などの時代劇などにセットとして利用されており、放映の度に行った思いの有る城郭で一層親近感がわいてきます。
 東二曲輪では地元の方がグラウンドゴルフをプレーされて居り、城跡の芝生広場でのプレーは羨ましい限りです。
 今回も家内と一緒に廻りました、栗橋城、中山家範館は車で待ってもらい急ぎの探訪でした。
 歴史は省略します。
 
 続きを、二層櫓編、一曲輪編、逆井城点描編と後ほど順次投稿させて頂きます。
 
 

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yoda 1253

世界遺産 (2019/02/17 訪問)

白漆喰が塗りたてで真っ白で荘厳でした

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小城小次郎

感状の名を冠する山城 (2023/01/07 訪問)

武家にとって感状とは武功を賞する名誉のしるし。新田の大軍を足止めにした功により足利尊氏から受け取った感状を城名に冠するその山城は、赤松氏にとって他のお城とも一線を画する名誉の象徴だったのではなかろうか。

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yoda 1253

山全体が城 (2023/04/16 訪問)

トレッキングでした

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yoda 1253

信長の天下城 (2023/04/16 訪問)

無数の石垣を使った要塞

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yoda 1253

犬山城 (2017/06/17 訪問)

木造最古

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えの

遠いけど一度は行っておきたい城郭 (2023/05/03 訪問)

熊本市内から車で2~3時間ほど。訪れた時期がGWというのもありかなり混んでいました。
しかし、道中の景色は大変良く、天草の海を見ながらドライブ出来ます。

島原・天草一揆の戦場となった城で、石垣にはその痕跡も残っていました。

天領時代の代官、鈴木重成公に関する情報など、江戸時代の様々な時代の富岡城の歴史が学べます。

駐車場上がってすぐにある、発掘・復元された三つの時代の石垣は見所です!

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ぴーかる

綾井城 (2023/04/30 訪問)

【綾井城】
<駐車場他>専稱寺参拝者駐車場
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅4城目。現地説明板によると綾井城は鎌倉期の城で南北朝時代には足利氏に属していました。戦国時代の城主沼間任世は信長の元で活躍(沼間水軍)しました。沼間氏の子孫は旗本として存続しています。
 南海電車高石駅より徒歩で来城しました。現地は専稱寺というお寺さんになっていて、南東面の堀だけが現存しているそうです。境内の本堂左手の寺務所内に御城印が販売されています。

<満足度>◆◇◇

<追記>todo94さんとのランデブーせずは、私は9:00頃に淡輪城、11:00前に眞鍋城でした。この綾井城は11:40に訪城です。淡輪城の時間帯は結構な雨で古墳も見たかったのですが早々に退散しました。この綾井城も投稿されておられないようなのでもしかして…3000も城びと城があるのに奇遇ですね。
 朝田辰兵衛さんこの旅で私、大阪コンプリートするか、せーへんかはまだ内緒です。

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うさ

仙台城 (2023/05/27 訪問)

ツアー中、お願いして少し抜けさせて頂きました。時間との戦いではありましたが、石垣堪能しました。

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畿内の火薬庫、大和 (2023/05/21 訪問)

呉座勇一著「応仁の乱」の第一章は、「畿内の火薬庫、大和」です。室町幕府は、大和に守護をおかず、興福寺が事実上の守護でした。室町幕府成立後そうおかず1351年から30年以上にわたり、興福寺内の一乗院と大乗院が、大和の豪族を巻き込んで争いました。当初の摂関家分裂の余波から、南北朝の対立も入り込みます。1400年代になり、親幕府的で一乗院衆徒の筒井氏と反幕府的で大乗院衆徒の越智氏との対立を軸に展開しました。応仁の乱前に、大和では、激しい抗争が、長らく続いていたのです。
越智氏に限らず大和の反幕府的な豪族は、将軍が停戦命令などを出しても言うことを聞きません。中でも越智氏は、領地が、奈良盆地南端、吉野も近く、強者です。貝吹山城は、御屋敷の越智城の詰めの城の位置付けですが、後には、更に、高取城も詰めの城としたと。
私の少し前に登城されたイオさんの投稿にない写真を中心にアップします。

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todo94

ニアミス・その2 (2023/04/30 訪問)

びーかるさんの2城目・畠中城はスルーして、私は淡輪城から直行しました。「村上海賊の娘」の主人公の好敵手・真鍋七五三兵衛の居城は絶対に落としたくなかったので、最優先したということです。びーかるさんもチェックされている伯太藩渡辺家墓所にも脚を伸ばすことができました。

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イオ

大規模山城ではあるものの… (2023/02/26 訪問)

築城時期は不明ながら、越智氏が居城である越智城の詰城として築いた城で、戦国後期には筒井氏や松永氏との争奪戦が繰り広げられましたが、織田信長の大和一国破城令により廃城となりました。

駐車場はありませんが、与楽カンジョ古墳の南側道向かいの道が広くなったあたりに路駐して登城開始。古墳の前を東に進み、防獣ケーブルを越えたところに案内表示が設けられています。ここが登城口です。登城道に入ると竹林の中の土橋状の道沿いに土塁っぽい盛土や平坦地が見られますが、遺構かどうかはよくわかりません。

さらに登って行くと、道の両側に曲輪群が階段状に展開されており、登城口から15分ほどで貝吹山頂の主郭部に到着。主郭の南側には三段の曲輪を配し、主郭には城址碑が建てられ、主郭北下の広い曲輪には貝吹山城や越智城、越智氏についての手書き資料を掲示した説明板がありました。最高所だけに眺望も開けています。

貝吹山城は主郭から放射状にのびる支尾根に曲輪群を配していますが、北尾根はなかなかの藪で下りて行くルートが見出せず、遊歩道が整備されている北西尾根に下りて行くと、小さな段曲輪の先に堀切が設けられていました。堀切で引き返して、今度は南東尾根へ。手持ちの縄張図によれば南東尾根には多数の曲輪と土塁や櫓台がある…はずですが、道を外れて南東尾根に向かおうにも、凄まじい竹藪と倒竹でとても足を踏み入れられる状態ではありませんでした…。

…ということで、多くの曲輪群を擁する大規模な山城ではあるものの、普通に見て回れる範囲は限られるため、やや消化不良感が残りました。なお、貝吹山城とは直接関係ありませんが、登城時は登城口手前の与楽カンジョ古墳の整備工事が行われており、麓には見学者用の駐車場ができるのかもしれません。そうなれば車を駐める場所に困らずに(以下略)
 

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トク

㊸【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と大洲城) (2023/03/10 訪問)

(19人目)は「藤堂高虎」です。
これから高虎ゆかりの4城と陣跡を訪れます。
まず関ケ原当時の居城「大洲城」を訪れてきました。

高虎は、朝鮮出兵(慶長の役)までは、宇和島城を居城としていましたが、帰国後は宇和島城がまだ改修中であったこともあり、恩賞でもらった大洲城に居を移し、そして関ケ原へ出陣します。

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ここからは、また話は脱線します(いつもすいません)。
かるたでお伝えした【1泊100万円:城泊情報】の続きです。

私が訪れた時は16時くらいでしたが、何やらあわただしい気配が・・・おや? 大勢のスタッフがやって来て、城の回りに旗を差してステージなどが用意されています(写真①②)。 なななな何と・・・本日は城泊者がいるとの事!(通算10人目だそうです) 私はトク派員に変身し😎、嫌われながらも根堀葉堀スタッフから聞き出し、そして趣向の一部の情報をGETする事に成功しました! そして17時になり、いよいよ宿泊者が・・・という所で・・・閉館で~す。ここからは貸切ですので出て行って下さいと追い出されてしまいました(ガ~ン😱!見たかったな~)(写真④)。

しかし、私が得た情報から推測するに、趣向はこんな風ではないか思います。まず、宿泊者は殿様衣装に着替え下に用意された馬にまたがり家臣(鉄砲隊)を従え登城する(写真⑤トラックが止まり馬が下りてきました!)。そして用意されたステージで歓迎のセレモニーがある。伝統芸能による舞が披露され、名物(鉄砲隊)による火縄銃の実演がある(甲冑に着替えている人が数名いて鉄砲もありました!)。それからライトアップされた大洲城を眺めながら西の丸にある別邸で温泉入浴。その後天守に戻って饗応料理による豪華な夜の酒宴が開かれる。そして肱川で花火が上がりそれを天守最上階から眺める(写真⑥⑦肱川)。夜は天守1階に殿様布団が敷かれそこでゆっくり寝る(写真③)。翌日はまた別邸で贅沢な朝食、そして専用車による市内観光、こんな趣向が城泊者のためだけに貸切限定で用意されているのではないでしょうか!?

これが本当かどうか、募集しましたが誰も確かめてくれそうにないので、私が自ら確かめるべく、宝くじを買ってまた唐津の宝当神社に行き、100万円以上の高額当選が当たるようにお願いして来る事にしました~!(それじゃあ結論になってないぞ-!😩)。

(訂正)1泊100万円は2名1組利用時2名分の料金です(+消費税10万円😯)

次は、高虎の話に戻ります。
 

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むらひろ

田中城 (2023/04/29 訪問)

かつての城の範囲至る所に遺構があるのでぜひ自転車で巡るといいと思います。
私はレンタサイクルで回りました

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カズサン

技巧的な縄張図に魅せられて初探訪 (2023/05/31 訪問)

 今年2月19日のT-Shionoyaさんの投稿写真の縄張り図を見て技巧的で馬出が各曲輪に付いており横矢掛りの角々の折れも素晴らしく是非訪ねたいと、城びとマイページの行ってみたい城一覧に登録してチャンスを待っていました。
 今回の孫の運動会観戦に合わせ、山中家範館跡初探訪の後、圏央道久喜白岡JCTより東に一区間の幸手ICを降りて栗橋城跡を訪ねました。

 駐車場:栗橋城跡東側に在る法宣寺東山門横参拝者駐車場を利用

 案内ガイドは余湖図コレクションさんの縄張俯瞰図、古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 現在城域は私有地で私宅に成っており見学が容易ではありません、案内板は法宣寺山門から南50m程の所、松本私宅の入り口通路が約西に50m程あり宅地の入り口に堀が樹木に覆われて南北に確認できます、一部土塁も樹間に見る事も出来ますが入り込めません。
 入口にお住まいの方がいらっしゃれば声掛けして見学したかったのですが見えられませんでしたので退散。
 古城盛衰記さんの案内に法宣寺北駐車場からの登城ルートも記載されていましたので法宣寺塀を東から北へ回り込みましたが駐車場は扉が閉まって入れず、北側の道を西へ権現堂川の川原へ、西から田圃越しに栗橋城跡の西辺を眺める、樹木、草に覆われていおり入り込めそうな道は無い、また川原には土手などの残存土塁を思わせる土の高まりが見受けられる。

 余湖図コレクションさんの縄張俯瞰図で、現在の松本家が東外郭、南側に南外郭、北側に北外郭、西側に内郭、主郭が構えて各曲輪間には馬出上の曲輪が控え出角、入角で横矢掛かりが十分に機能してる、七曲の東に現在の法宣寺、権現堂川の河川改修などと農地改修、宅地開発により内郭、主郭、北外郭、南外郭は消滅してるようです、残って居れば素晴らしい中世、戦国の城跡を見る事が出来たでしょう。縄張図を見ただけでも十分興奮します。
 今後も大切に残ってる遺構を保存管理して頂きたい。

 今後も皆さんの登城投稿を参考に私の体力、脚力に合った城郭を探訪観察を続けたいと思っております。
 
 
 

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ぴーかる

眞鍋城/伯太藩主渡辺家墓所 (2023/04/30 訪問)

【真鍋城】
<駐車場他>南溟寺専用駐車場
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅3城目。眞鍋城は南北朝時代に楠木正成の家臣眞鍋氏によって築城されたとされます。現在は遺構は残されておらず南溟寺の本堂前に城跡碑があります。境内に和泉国伯太藩主であった渡辺家(城びと伯太陣屋)の墓所があります。

<満足度>◆◇◇

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Yon

尼崎城と櫻井神社 (2023/05/31 訪問)

再建された尼崎城に行ってきました。樹木も育ってきて、再建当初よりは少し雰囲気が出てきたでしょうか。
ついでに、尼崎城の南側にある、とあるアイドルグループやロックバンドの聖地となっている櫻井神社へも行ってみました。絵馬には、コンサートチケット当選の祈りなどなど。しかし、この神社は桜井徳川家が祭られている由緒正しい神社なんです。建物のいろいろな場所に桜の花がデザインされていて、探す楽しみもあります。



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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:松本城 (2023/04/28 訪問)

(長野県&岐阜県方面城巡り)は福島城で終りましたが、松本駅でレンタカー返却後、帰りの電車まで時間があったので、松本城を見にい
きました。

松本城は3回目の攻城です。
1回目は2015/06/17に次男と二人で攻城(100名城スタンプ押印)
2回目が2018/03/05に妻と二人での攻城
3回目が今回(2023/04/28)です。

ゴールデンウイークが始まっていましたので観光客が多かった為、中には入らず周囲を散策しました。
攻城時間は30分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで松本駅から千葉の自宅まで帰ります。
今回の遠征での歩行歩数=234,138歩、歩行距離=163.83Kmでした。
風邪をひいた影響で、9日目(4/26)の攻城を途中で断念した為、歩行距離は短めでした。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:福島城 (2023/04/28 訪問)

須原城からの転戦です。木曾福島郷土館入口(35.853992、137.701651)から進入し、駐車場に駐車しようとしましたが、木曾福島郷土館は休館中だった為、少し戻って興禅寺の駐車場を借用しました。

戦国時代の天文年間(1532~55年)木曽氏18代の木曽義康により築かれました。木曽氏19代の木曽義昌も居城としました。
平時は、「上の段城」を館とし、この山城を「詰の城」とし、木曽川を挟んで館の向いに築かれたので向城とも呼ばれていました。
武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直が争うと(天正壬午の乱)、義昌は家康に通じて盟約を結び、再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得ました。
1584年(天正12年)家康と羽柴秀吉との対立をうけて義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順しました。
このため家康は小笠原貞慶、菅沼定利、保科正直らを木曽福島へ攻め込ませ、妻籠城で戦し義昌が勝利しました。これによって、家康は木曽家を快く思わなくなったと史書は伝えているそうです。
1590年(天正18年)家康の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)10,000万石(あるいは20,000万石とも)が与えられて木曽谷を退き、城は廃城となりました。  
ちなみに木曾家は1600年(慶長5年)木曽義利の時、叔父義豊を殺したことで改易となりました。


遊歩道入口から片道1.8Kmのハイキングコースです。福島城址分岐点までは緩やかな登り坂が17~18分、そこから本丸までは12~13分くらいだと思います。
堀切、空堀、土橋などが確認できます。
本丸に城址標柱と説明看板が立てられ、祠が祀られていました。
攻城時間は65分くらいでした。レンタカーを松本駅で返却する為、松本駅に向かいます。

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