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高安城のみ車で行く場合 (2023/05/21 訪問)

信貴山城に行った際に高安城まで足を伸ばしてなく、気になってたのですが、2020年11月のぴーかるさん投稿に、山頂近くまで車で行けそうだとの旨があるのを発見し、行って参りました。
平群から生駒山地山腹を行くフラワーロードに入り、更に細めの道を行くと、高安山山頂直下まで行けました。気象レーダーまで行く手前に広場があります。今回は、二輪車でしたので、道の細さや駐車場所は、困らなかったですが、四輪はちと頑張らないといけないかも。因みにフラワーロードの名前の由来は、付近が小菊生産日本一であることからと。
高安山は無線愛好家が集う場所のようで、高安山山頂にも愛好家がおられ、山頂表示だけ撮影して通過。舗装道路を挟んだ、二ノ丸、三ノ丸にも踏み込んでみました。人工的な雰囲気はあるのですが、平削が甘く遺構はよくわからなかったです。横穴式古墳群がありました。
気象レーダーを通り越して、ケーブルカー駅まで行き、大阪方面を眺めました。ここにも無線愛好家が数人。
駐車した広場に戻り、信貴山方向に少し下って、高安城の倉庫跡(朝鮮式山城の遺構)を見ました。途中、生駒スカイラインを横断します。

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えりんぎ

洲本城 (2023/06/11 訪問)

毎日見てるお城なのに、小学校の遠足以来
数十年ぶりに行きました。

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しんちゃん

山上にそびえるイケメン天守 おすすめは紅葉のころと新緑のころ (2018/11/18 訪問)

司馬遼太郎も大好きだった山城 郡上八幡城です。
もともと、この形状の天守が立っていたわけではないのですが
戦前に大垣城をモデルに木造で建造されました。
ちょっとカクカクしてるかな?なんて感想もちょっぴりありますが
見る角度を選ばない間違いなくイケメンな天守です。
模擬天守とはいえ、木造ですので雰囲気は味わえます。
やはりコンクリとはちがう。(失礼)
11月半ばとはいえ紅葉はすでに散りつつありました。
郡上の紅葉は早いのね… 今は温暖化しているのでもっと早いのでしょうか?くわばら くわばら

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しんちゃん

イケメン天守にイケメン三成 戸田氏鉄の立場が… (2021/12/05 訪問)

岐阜県きってのイケメン天守がそびえる大垣城に行ってきました。(2年前ですが)
郡上八幡城や墨俣一夜城のモデルになったほどのイケメン天守ですが
本物の天守は太平洋(大東亜)戦争の空襲で焼失していまい、
現在は鉄筋コンクリートの模擬天守が鎮座しております。
天守の前には2代 戸田氏鉄公の銅像が立っているのですが
関ヶ原の合戦の際に石田三成が本拠にしていたので すっかり石田三成の城の
イメージが定着しております。
同じ地元の自分としてはいささか歯がゆい。いや三成公も好きですけどね。

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にのまる

大好き(°▽°) (2023/04/22 訪問)

公共交通機関利用なので、行き帰りの移動を如何に上手にクリアするかというミッションも抱えています。月山富田城へは安来駅からのほかに荒島駅からもイエローバスでアクセス可能。当日は松江からの移動だったので、接続がよく到着時間も早い広瀬~荒島線を利用しました。
※イエローバスはこの6/1にダイヤ改正されています。ナビサイトによっては反映されていない可能性もあるので安来市のHPで都度確認されるのがよいかと思います。また、月山富田城は広瀬バスターミナルからそう遠くないので、何かあっても何とかなりそうな感じでした👌ちなみに乗車距離にかかわらず大人1回200円です。

「市立病院前」で降車すると、飯梨川越しに幟旗のはためく大きな城山が目に飛び込んできました。
“尼子氏滅亡の”が枕詞になりがちなため、寂しげでしんみりとしたイメージを漠然と持っていたのですが、あまりのかっこよさにうるっ🥲
このあと城内を歩いている間ずっと、かつての難攻不落、戦国屈指の要害と周囲の山並み、そして現代に受け継がれる城下の美しい街並みが融和した風景を味わえ、史跡整備に力を尽くしてくださっていることを大変ありがたく思いました。
歴史資料館開館までは1時間以上あったので、最新情報収集なしで登城開始しました。
資料館裏手の登城口から入ると尼子(塩冶)興久公墓所。登っていくと馬乗馬場。麓から見上げた幟旗のところです。眼下に広がる風景の素晴らしさに、もっと高いところからの視界は一体どんなだろうかとワクワクがとまりません。
尼子神社のある千畳平から太鼓壇へ。尼子氏再興のために力を尽くした山中鹿介幸盛の祈月像がありました。6年前に行った上月城が思い出されます。
奥書院を経て花の壇復元建物へ。発掘調査で見つかった柱穴により、武将の生活の場と兵士たちの待機場所だったと考えられているそうです。城内道がよく見渡せ、山中御殿もすぐそこ。この距離であれば互いの様子がよく見え、連絡も取りやすかったことが理解できました。
その山中御殿は……めっちゃ広い!びっくりするくらい広い!
それだけでなく、復元整備のおかげでわかりやすい(^^)/
文字情報のみに頼った己の想像力の限界を突きつけられた思いでした。
山中御殿で確認しておきたかった攻め手三方向の菅谷口・御子守口・塩谷口からの虎口をチェックします。
菅谷口は櫓跡、雑用井戸跡近くで、軍用道もすぐ横。かっこいい石垣の虎口です。道が続いていたので少し進んでみました。機会があれば城安寺コースで登ってみたいです。
塩谷口もかっこよかったです。狭間塀跡から下りてみると行き止まりで、攻められそうになかったですが、振り返った狭い虎口が雰囲気ありすぎでした。
御子守口は帰りに通りました。

本丸方面へは復元石垣の階段からではなく、軍用道から行ってみました。
親子観音では壮絶な戦いの中での人間の苦しみを思い、合流した七曲り道では通路の整備に感謝しつつ下界の景観を楽しみ、未だ水を湛える山吹井戸では悠久の時を感じつつ登りました。

登りきった西袖ケ平の端から飯梨川と城下の風景を眺めていると、お世話になったイエローバスがまるでジオラマの中のミニチュアのように走っているのが見えました。バスターミナルに向かうバス、出てくるバス。瓦屋根の町なかを走っている姿がかわいすぎる🚍

そして振り返るとでんっと構える三の丸。
右側からぐるっとまわって二の丸から上がりました。遥か遠くまで眺めていると、戦国の世が続いていたらここを捨て置くことはなかっただろうと思えてきました。
二の丸と本丸の間の堀切は通路整備がされていてもその規模が伝わってきて圧倒されます。そしてついにここまで来たぞっという達成感。
本丸には山中鹿介幸盛記念碑。勝日高守神社の奥ギリギリのところまで行き下を覗いてみました。竪堀や通路があるような感じではありましたが、自然のままに近い場所で確証を得るのは難しいです。
本丸でコンビニのどら焼きで小休憩して下山しました。
山中御殿まで下る途中にも曲輪跡のような平場があったので寄ってみましたが、実際に見えている遺構はほんの一部で、最初の築城時から辿ると途轍もない山城だったんだろうなと、想像不可能なことや知り得ない事実の多さを思いました。

山中御殿の爽快さを再び味わい、登るときから気になっていた池へ行ってみました。軍用大井戸の説明板が立っていましたが、しっかりとした石組みで、井戸と呼ぶにはかなり大きかったです。

遠目にもはっきりわかる大土塁にも行きました。
近くにあったヤマザクラは令和元年の台風で大きなダメージを受けたにも関わらず、翌年いつもと変わらない可憐な花を咲かせたそうです。「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈った鹿介の精神と人々を勇気づけてくれる存在から「鹿介桜」と名付けられたとのこと。自然の持つ圧倒的なパワーを思い知らされました。
大土塁は本当に大きかったです。月山は高さ190メートルでものすごく高いというわけではありませんが、要所要所でスケールの大きさを感じます。

ここから堀尾吉晴公廟所へ向かいます。
ちょっと寂しい道……が大分寂しい道になっていきますが、いつも行っている山城と同じ茶色い世界に、そう、これがほんとうの姿なんだからと、一歩一歩地面を踏みしめながら歩きます。案内も立ててくださっていますし、出口である御子守口の方へ向かっているはずなので不安はありません。
大土塁から5分ほどで「堀尾吉晴の墓・山中鹿介供養塔」の石段の下に着きました。
石段の上に大きな五輪塔がありました。吉晴公自身の遺言によりこの地に遺骸が葬られたと伝わるそうです。後方には山中鹿介幸盛の供養塔。幸盛公の遺徳を偲び、吉晴公の御内儀によって建てられたと説明板にありました。
富田城は不便だから吉晴公は松江に築城した、とただ一言の知識としてインプットしておしまいにしてはいけないな、と感じる廟所でございました。

吉晴公の娘、小那姫のお墓があり、まるで曲輪……な感じがすごくする巌倉寺を通って御子守口から退出しました。
歴史資料館に向かっていると地面!にお城の全体地形模型があったので復習。資料館に入館し、見学させていただきました。

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しんちゃん

家康 秀忠も使用した将軍家のお茶屋敷 (2021/12/05 訪問)

御茶屋とは江戸・京都の往還に整備された将軍家専用の宿泊施設である。(現地案内板)
慶長10年(1605)完成。家康公や秀忠公も使用しています。
まだまだ物騒な時代だけに土塁 堀もしっかり備え、ちょっとした城郭造りになっています。
四隅には櫓まで備えていたって… かわいいネーミングの割にはずいぶん要塞してますな。
ちょうど紅葉の季節も重なって 素晴らしい景色を見ることが出来ました。
ああ福眼… 日本人ならやっぱり紅葉 桜 富士山 城ですな(アナログ思考)

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しんちゃん

石垣 紅葉 四季桜 畝状竪堀 見どころ多過ぎ欲張りすぎる城 (2019/12/07 訪問)

豊田の山奥にある比較的マイナーな城ですが全国でも珍しい
四季桜と紅葉の饗宴が見られる城です。
三河地方有数の石垣に畝状竪堀 土塁に堀切と
正直こんな城は全国でもここだけではないでしょうか。
はっきり言って贅沢すぎます。
四季桜と紅葉のジャストミートするタイミングは難しいですが
訪れてみる価値はあると思います。
近くの小原四季桜の里も必見ですよ

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ぎりょう

公園化による改変で残念な状態に・・・・・ (2023/06/10 訪問)

例年6月第二土曜日に開催のチャグチャグ馬コを見に岩手県滝沢市を訪問した。このお祭りは滝沢市の鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮までの14kmを60頭の馬コが鈴の音を響かせて行進する。馬体に約700個の鈴を付けた馬コに、きれいな装束を身にまとった子供さんたちが跨り観客に手を振る光景には心が癒されます。
今回の盛岡近隣への訪問はチャグチャグ馬コと、昨年クマ出没により攻城中止を余儀なくされた紫波町の高水寺城が目的でした。昨年は5月と6月の二回訪問しましたが、地元で城山と呼ばれる城址は入山禁止が解除されず空振りでした。先週紫波町役場に状況を確認し現在のところは大丈夫との回答を得ての攻城となりました。
この城は中世(14世紀後半か?)に斯波氏が本拠地とした城(築城年月は不明)であり、城域は城山の全域に及んでいる。天正16(1586)年に南部信直の攻撃により斯波氏は滅亡する。その後は南部氏の支城として中野氏が城代となるが、寛永6(1629)年には補修され郡山城と呼ばれるようになり、築城中の盛岡城へ寛永10(1633)年に重直が入城するまでは南部氏の本拠地であったという。その後、寛文7(1668)年に廃城になった。
北上川右岸の独立丘陵の最高所に主曲輪を置き、周囲に大小の曲輪を配置して防御する典型的な中世山城の姿だったのだろうが、近世初頭の改修では石垣が積まれる(廃城後北上川の橋建設のため撤去されたらしい)など近世城館へ改変されているようだ。
現在は公園化にともない車道、駐車場、階段などが設置され、桜の名所として多くの方々の利便性は高まったと考えますが、中世山城ファンにとっては少しばかり残念な状態と感じました。

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小荷駄

石上城跡 (2023/05/20 訪問)

駐車場は登福寺さんに許可を頂き駐車場をお借りしました。トイレは確認できませんでした。本丸までの登山道は整備されていて歩きやすかったです。散策時間は小一時間程でした。尚県道63号は現在登福寺さんより先藤枝市方向には通行止めになっていました。

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chiroru

縄張り (2023/04/14 訪問)

机上論より歩く。これが手に取るようにわかる城跡でした。公園として残してもらい市民の皆様に感謝です!

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小荷駄

白河小峰城跡 (2023/05/17 訪問)

白河駅でホームに降りた時から目の前にお城が見えて小走りで向かいました。小峰城歴史館と合わせて三時間程かかってしまい慌てて現実の世界に戻ることになってしまい楽しみにしていた二の丸茶屋に寄れず少し残念でしたが次回のお楽しみにと思います。

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chiroru

景色が素晴らしい (2022/05/05 訪問)

文句なしの登城日和で、ガイドさんに懇切丁寧に案内してもらいながら楽しめました。もっとたくさんの方に来城してほしいなぁと思いました。

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しんちゃん

国の史跡 隠れ紅葉スポット (2015/11/20 訪問)

松平東照宮が紅葉の名所なのは徐々に浸透してきているところですが
国の史跡 大給城も隠れ紅葉の名所でもあります。
最近TVでも紹介されたこともあり、じわじわ訪問客が増えてくるのではないでしょうか。
石垣や土塁もしっかり残っていて、季節を問わず楽しめる城です。
ロッククライマーの聖地でもあるようで、いつ行ってもクライマーの人たちがいます。
巨岩の上からの眺めも最高でピクニックにはもってこいなんですよ。

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chiroru

想像以上に (2023/06/10 訪問)

石垣が立派でした。刻印確認したかったけれど、本丸石垣は修復中でした。

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しんちゃん

すごい人の屋敷跡と知らずに (2016/11/20 訪問)

7年間の写真データが出てきたので掲載させていただきます。
町中にひっそりとお墓のようなものがたたずんでただけなので
ふーん、といった感じで2枚しか写真を撮っていませんでした。
しまった、もっと写真を撮っておけば良かった。
それを言ったらきりがないのですが、この多治見国長氏、ちょっとした有名人のようなのです。
後醍醐天皇の討幕計画に参加しようとして密告されて
三千の兵相手にわずか二十騎で勇敢に戦いものの見事に玉砕したらしいですね。
いやあ、そんなすごい人の屋敷跡だと知っていたら
もっとじっくり調べておけばよかった。
それを言ったらきりがないんですけどね。

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しんちゃん

圧倒的な紅葉の美 国の史跡、松平東照宮 (2016/11/20 訪問)

松平氏館は現在 国の史跡、松平東照宮になっています。
国内屈指の紅葉の名所 香嵐渓でも有名な豊田市は
秋になると各地で見事な紅葉を見ることが出来ます。
松平氏館も秋になると見事な紅葉を見ることが出来
年々人が増えてきています。
境内には徳川家康産湯の井戸もあります。
写真は少し古いですが、このような美しい紅葉をずっと
見ることが出来ればと思います。

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しんちゃん

大河ドラマでの扱いはイマイチ 現在石垣修復中 (2023/06/07 訪問)

地元 豊橋の続百名城の吉田城です。
先日の大雨であまり状況が良くありません。
自慢の本丸の高土塁に堀切も水がたまって水堀のようです。
石垣の保全が良くなくて時々崩れてくるので修復の真っ最中です。
まだしばらくは今の状態が続くようですね。
ちなみに崩れた石垣の修復が完了した箇所を見に行ったのですが
なんか前と石の形や積み方が異なっているように見えます。
ここはたしか野面積だったはずじゃ? 
雑草が生えてきて対応が追っついていないですが
この城は石垣がけっこういいんですよ。
名古屋城のおさがりの石をもらって来たりしているので
刻印のある石があったりします。
この日 一つ見つけました。
訪問時には本丸から川辺に降りていく周辺の石垣を見てみてください。


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しんちゃん

三河戸田氏 東三河西部拠点の城 (2023/06/10 訪問)

東三河の武将 戸田氏が田原城に移る前に本拠としていた城です。
立地は少し高台になっていて、その分だけ守りには適しています。
本丸は豊橋市立家政高等学校になっていますが金曜午後6時近くということもあり
人影はありません。おかげで安心して近くを散策できます。
舗装された道路を通って学校の裏手に入ります。
学校裏の土地も大きな郭のようになっていて背後には土塁らしき土の壁がそびえます。
こっそり登ってみますが先日の大雨のせいで足元が危ういです。
すぐに下に降り城跡に敬意を払いつつ家に帰りました。
ちなみにここが我が家から一番近い城人3000城です。

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しんちゃん

三河譜代牧野氏勇躍の城 マイナーなんて言わないで (2023/06/10 訪問)

三河譜代大名 牧野氏が今橋城(吉田城)に移る前に本拠としていた城です。
完全な平城で現在は畑地化されて遺構はそれほど残ってはいないのですが
高さ3mほどの土塁が一部残されていて、かつての雰囲気を味わうことが出来ます。
宅地化、畑地化が進んで、平城がどんどん飲み込まれていく中
こうして一部だけでも遺構を残していただけることは有り難いことだと思っております。
牧野氏は今橋城に移ったあと、周辺地域の派遣をかけて戸田氏と争うことになりますが
後に両氏とも徳川譜代大名として全国に散らばっていくことになります。
戸田氏も牧野氏もNHKではほとんど取り上げられることのない地味な大名ですが
この両氏の入封した城(藩)って結構多いんですよ。

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しんちゃん

深溝松平氏の城。近くには あじさい寺の本光寺と深溝松平家廟所(国の史跡) (2023/06/10 訪問)

深溝城は室町時代前半 深溝地域を支配していた三河大庭氏によって築かれました。(現地案内板による)
後に松平一族の五井松平家松平大炒助が入城を許され深溝松平家を名乗ります。
松平氏は後に各地に封じられた後、島原6万5000石に転封になりますが、お墓はこの地に残していきました。
すぐ近くに あじさい寺で有名な本光寺があり、廟所もそこになるのですが
東廟所の損壊が年々ひどくなっていっています。

深溝城は現在工場の敷地内で一部土塁が残っているようです。

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