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しんちゃん

大河ドラマで忍者に攻められた城というキャラが確定? (2023/02/11 訪問)

大河ドラマ「どうする家康」 上ノ郷城での戦いの放送回に先駆け久々に訪問してきました。
東側のかつての堀跡に水路が巡っていて周辺に細い道が城跡に向かって続いているのですが
地元の人が軽トラックで通る道です。一般の人ではきつい。
南側にある赤日子神社を目指して南から訪問するのがよさそうです。
神社の駐車場を拝借させていただきました。
城跡は周囲を良く見渡せる高台にあるのですが、登城道に土塁が一部残っています。
主郭以外にも南東側に郭が残っているようです。
郭から切岸をのぞくと、下側に堀が見えます。なかなか急峻な崖のようです。
これは大河ドラマ同様 よじ登るのは苦労しそうです。
主郭まではすぐにたどり着けるので老若男女、だれでも楽しめるお城探訪入門編にうってつけの城です。

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しんちゃん

大河ドラマ 女城主直虎の城 (2019/04/06 訪問)

大河ドラマ「女城主直虎」で有名な井伊氏の城です。
平安時代に築かれたというので歴史はかなり古いですね。
構造的には単純な部類で山上に主郭が広がり北側がいくらか高くなっています。
南北朝のころに天皇の皇子を迎えることがあったら、そちらに入っていただいたんでしょうね。
周囲にうっすらと土塁が残っているようなのだけど、写真では判別できません。
ちょっと防御力に不安があるようです。
ちなみに後醍醐天皇の皇子宗良親王は北東2㎞くらいの位置にある
三岳城にこもって北朝の軍と戦いました。
宗良親王はここから南に1㎞ほど下って行ったところにある井伊谷宮に祭られています。
親王の廟所もあるんですよ。
すぐ近くに直虎ゆかりの龍潭寺もあります。小堀遠州の庭園が有名で
春にはツツジが、秋には紅葉がきれいです。
このあたり見所には欠かさないんですよ。

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chiroru

久能山城として (2023/05/26 訪問)

五年前にはここが城跡だとは知らずに足を運び、今回は久能山城として登りました。お城はいろいろな形で今に残り楽しませてくれる私にとってのテーマパークです。

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カズサン

逆井城点描 (2023/05/31 訪問)

 13年振り3度目の登城、前編の一曲輪(本丸)古城址からの続きです、戦国末期北条氏の前線基地として飯沼を外濠に使う要害の地を逆井氏を滅ぼし北条流に修築した、古城址を一曲輪・内堀・馬出とし北が飯沼に面している、西、南、東をの曲輪が囲みその外を堀が囲む、二曲輪は西二曲輪、東二曲輪に分かれている、東に三の丸外構えと成っている。
 佐竹氏、結城氏、山川氏、多賀谷氏と対峙してる最前線国境の城、小田原征伐に伴い廃城に成った。

 中世戦国末期の模擬復元されて二層櫓、平櫓、板付土塀、櫓門、木橋、主殿、移築門などの建物が揃い戦国期の風情を醸してる西二曲輪、土の城エリアの一曲輪、東二曲輪、東側の外堀も残り、当日は堀の落ち葉掃き、清掃整備が行われていた、東二曲輪の芝生広場では地元の方々がグラウンドゴルフを楽しまれていました、素晴らしい有効活用です。

 写真を沢山撮りましたので前三編に重ならない写真を投稿して締めたいと思います。
 長らくご覧いただきありがとうございました。

 4時半ごろに撤収し境古河ICより高速を飛ばして宇都宮の孫達との会食には十分間に合い久しぶりの楽しい食事に成りました。
  

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しんちゃん

桜の名所。市民の憩いの場 亀城公園 (2019/04/05 訪問)

刈谷城は天文2年(1533)に水野氏によって海に面した河口に築かれ
現在は亀城公園として整備されています。
桜の名所として市民の憩いの場になっており、本丸には幕末の天誅組の
松本奎堂(けいどう)の歌碑があります。
本丸周囲にはある程度 土塁が残っているようで、さらなる城址公園としての
整備の計画があるようです。
櫓や門などが作られたりするのでしょうか?
これからもじっくり見守っていきたいです。

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しんちゃん

織田氏中国進出の拠点の城 石垣はイオンモールの下に眠る (2023/05/27 訪問)

天正8年(1580)に織田信長の重鎮 池田恒興によって築かれました。
かつては主郭を中心に東・北面に副郭が取り囲む、梯郭(ていかく)式の城郭であったそうです。(現地案内板による)
大きさは推定 南北約150m 東西約140mであったと考えられます。
主郭の石垣を安定させるための胴木組と言われる木材を石垣の下に敷くなど、当時の先端技術が用いられていた城のようですが
現在は発掘調査を終えてイオンモールの下に石垣が眠っています。
幻の天守台を見てみたかったと思います。

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しんちゃん

三河武将 戸田氏の野心の城 (2023/03/12 訪問)

豊橋市中心部にある吉田城から東に約2㎞のところに仁連木城はあります。
戸田氏中興の祖 戸田宗光が息子に田原城を譲り渡し仁連木城を築城し移り住みました。
後に仁連木戸田氏は徳川家康に仕え、家康の関東移封に伴い関東へ移り、仁連木城は廃城になります。
周囲は宅地化が進んでいますが、城址公園として整備されています。
比較的高台に位置し、本丸の周囲に土塁が良好に残っています。
数年前から本丸に梅を植樹しているようですが大きくなるにはまだ年月がかかりそうです。
これからも長く市民の憩いの公園として残ってくれればと思います。

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しんちゃん

隠れ紅葉の名所 武田勝頼ゆかりの城 (2021/11/14 訪問)

ちょうど今 大河ドラマ「どうする家康」が長篠の合戦で盛り上がっていますが
その長篠の合戦で敗れた勝頼が甲斐に戻る際に立ち寄った城です。
この時期でも紅葉している木がありますが、この武節城は隠れた紅葉の名所であります。
本丸まで車で登ることが出来るようですが私は少し離れたところに車を置いて登城道を歩いて登りました。
比高もそれほど高くなくすぐに本丸にたどり着きます。
最高所は神社になっており物見台 狼煙台の看板が立っています。
本丸のすぐ後ろは堀切になっており外郭との間を隔ててあります。
投稿の写真はいずれも秋の物です。
少し離れたところにお住いの方も、秋に豊田 三河の紅葉の隠れ名所の城を訪問してみませんか?

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ぴーかる

天王寺城 (2023/04/30 訪問)

【天王寺城】
<駐車場他>月江寺の横にコインPあり。
<交通手段>JR桃谷駅から徒歩

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅ラスト6城目。天王寺城は1576年に織田信長の家臣原田直政(塙直政)が石山本願寺攻めの拠点城として築いた城です。塙直政は本願寺攻めの戦いで討死しますが、あとを受け入城した佐久間信盛は主な戦果をあげられず本願寺との和議のあと追放されます。城もこの時廃城となったようです。現在は月江寺というお寺になっており山門も開かれていなかったので中には入りませんでした。
 イオさん、にのまるさんが天王寺城投稿で上町台地や坂について記述しておられたので私も気になって見て来ました。月江寺のすぐ南の谷町筋交差点「六万体」の西側からは急な下り坂になっています。交差点の東側は100m少し行って下り坂になっています。この辺りは上町台地の幅がだいぶすぼんでいて、谷町筋が上町台地上を縦断しているのが歩いて実感できました。天王寺城も台地上のへりの部分にあったのだろうと思いました。
 今回は主に南海電鉄沿線の残したちょこ城を日帰りで巡りました。大阪の城びとはとって置きにして1城を残すのみとなりました。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

初代と18代目。 (2023/05/13 訪問)

城跡歴史公園として整備されている「結城城」。
入口に説明板があります。
結城 朝光さんが築いた。と、ありました。
朝光さんを調べてみたら、源 頼朝さんが伊豆で挙兵した時に参加したそうです。
なら、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出演してたかな~と検索。
出演してました。実衣の琵琶の先生をしてました。
ありましたね、あの朝光さんか~と説明板を見ると、確証はないとの事。むしろ南北朝動乱期に築かれたそうです。
ふーん。と、次の説明は、家康さんの次男 秀康さんについて書かれてました。
結城家の養子になりますからね。
あっ、2023年の大河ドラマ『どうする家康』でお万の方が、お手つきされました。ドラマでは、まだ秀康さんは、お万のお腹の中で誕生してませんが、必ず出演します。
2年連続で大河ドラマのキャスト武将を、出演させる「結城城」です。

城跡歴史公園は少し高い所にありました。
ただ、遺構は分かりにくいです。写真②は狭間っぽいと思い写しました。(絶対に違う。)

たくさんの木々があり、四季を通して楽しめそうな「結城城」です。
この日は、雨がザーザー降りでした。ウグイスが『ホーホケキョ、ケキョケキョケキョケキョ。』と大フィーバーでした。

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トク

㊺【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と宇和島城(2)) (2023/06/11 訪問)

(藤堂高虎と宇和島城(1)の続きです)。

藤堂高虎が建てた三重三階の望楼型の天守はこんな形だったという図がありました(写真⑧)。高虎時代の石垣もよく残っていました。宇和島は雨が多いせいか(訪れたこの日も雨)、その石垣は苔むしているものが多く、築城から427年の時の流れを感じました。(写真③-⑦)

藤堂軍の旗印は三餅です(写真⑨:黒地に白い餅が三つ描かれています)。この意味は御存知ですか? 浪人生活を送っていた若き日の高虎は、吉田宿(現豊橋)で空腹のあまり餅屋の餅を無銭飲食したようです。高虎は謝罪しましたが、あまりに食べっぷりがよかったので主人は許し、「故郷の近江へ帰り親孝行しなさい」と諭します。そして「きっと出世し城持ち大名になり餅代は必ずお返します」と答え別れました。それから近江へ行く途中、羽柴秀長と出会い、出世してついに宇和島で城持ち大名にまで出世する事ができました。あの餅の事を忘れないように、旗印は三つの白餅(=城持)にしたそうです。

私は宇和島城の天守に立ち考えてみました(写真①②)。宇和島で初めて城持ち大名となった高虎は、どんな思いでこの天守から宇和島の町や海を眺めていたのでしょうか? きっと餅屋の主人の事を思い出し、感謝していたのではないでしょうか?・・・ 

そして高虎は1597年ここから水軍を率いて朝鮮へ出兵します(慶長の役)。
次は、宇和島城(伊達博物館)へ続きます。

【余談】伊達御前
宇和島名物「鯛めし」と「じゃこ天」がはいった「伊達御前」という定食を食べてみました(ムフフ・・・めちゃおいしい!😊写真⑩)。
 

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トク

㊹【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と宇和島城(1)) (2023/06/11 訪問)

(19人目)「藤堂高虎」の続きです。
高虎の最初の居城「宇和島城」を訪れてきました。
宇和島駅からバスに乗り6分「バスセンタ-」で下車(160円)すると城の入口「家老桑折家長屋門」です(写真⑧⑨⑩)。

生涯で7度も主君を変えた男、藤堂高虎! 身長190cmもある大男だったそうです。当時は、主君を守り生涯主君に仕えるのがあたり前だった時代に、自分の技術や知識アイデアをより買ってくれる主君に転々として仕える(今で言うキャリアアップ転職ですね🤔)。そしてその高虎を最初に評価したのが羽柴秀長です。秀長の下で鉄砲や水軍や兵站なども貪欲に学び徐々に頭角を現します。そして秀長の居城となる和歌山城の築城を任され。ここで築城術も必死に学びます。秀長死後、一度は出家するも、その後に秀吉の家臣となり宇和島板島7万石を与えられ、この時に宇和島城を築城しました。

宇和島城は五角形の縄張りをしています(写真⑦)。それはなぜだか御存知ですか? 敵は四角形だと思い四方から攻めてきます。すると一方が空くわけです(忍者もだまされたようです)。そこで有利な状況になるとそこから攻め出しまたは兵糧を運び、不利な状況になるとそこから脱出できるように、そういうトリッキーな縄張りにしたのではないかと言われています。海城だったため、脱出用の船も船倉に用意されていたようです。最初から負ける時の事までも考えて築城していたのは、高虎だけではないでしょうか? 最初の主君の浅井長政の時、姉川の戦いで敗れ、命かながら逃げた経験があるのでこのような考案をしたのだと思いました。高虎がこの時に建てた天守はまだ望楼型だったようです。いったいどんな天守だったのでしょうか?

現在の現存している天守は、1666年に宇和島藩2代藩主伊達宗利(秀宗の子)が築城した層塔型の天守です。小じんまりしていますがいい感じです。当時は関ケ原からもう66年が経ち、平和な時代だったせいか破風が目立ち、狭間や石落としなど戦のための備えは見られません。

(藤堂高虎と宇和島城(2)へ続きます)
 

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高安城のみ車で行く場合 (2023/05/21 訪問)

信貴山城に行った際に高安城まで足を伸ばしてなく、気になってたのですが、2020年11月のぴーかるさん投稿に、山頂近くまで車で行けそうだとの旨があるのを発見し、行って参りました。
平群から生駒山地山腹を行くフラワーロードに入り、更に細めの道を行くと、高安山山頂直下まで行けました。気象レーダーまで行く手前に広場があります。今回は、二輪車でしたので、道の細さや駐車場所は、困らなかったですが、四輪はちと頑張らないといけないかも。因みにフラワーロードの名前の由来は、付近が小菊生産日本一であることからと。
高安山は無線愛好家が集う場所のようで、高安山山頂にも愛好家がおられ、山頂表示だけ撮影して通過。舗装道路を挟んだ、二ノ丸、三ノ丸にも踏み込んでみました。人工的な雰囲気はあるのですが、平削が甘く遺構はよくわからなかったです。横穴式古墳群がありました。
気象レーダーを通り越して、ケーブルカー駅まで行き、大阪方面を眺めました。ここにも無線愛好家が数人。
駐車した広場に戻り、信貴山方向に少し下って、高安城の倉庫跡(朝鮮式山城の遺構)を見ました。途中、生駒スカイラインを横断します。

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えりんぎ

洲本城 (2023/06/11 訪問)

毎日見てるお城なのに、小学校の遠足以来
数十年ぶりに行きました。

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しんちゃん

山上にそびえるイケメン天守 おすすめは紅葉のころと新緑のころ (2018/11/18 訪問)

司馬遼太郎も大好きだった山城 郡上八幡城です。
もともと、この形状の天守が立っていたわけではないのですが
戦前に大垣城をモデルに木造で建造されました。
ちょっとカクカクしてるかな?なんて感想もちょっぴりありますが
見る角度を選ばない間違いなくイケメンな天守です。
模擬天守とはいえ、木造ですので雰囲気は味わえます。
やはりコンクリとはちがう。(失礼)
11月半ばとはいえ紅葉はすでに散りつつありました。
郡上の紅葉は早いのね… 今は温暖化しているのでもっと早いのでしょうか?くわばら くわばら

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しんちゃん

イケメン天守にイケメン三成 戸田氏鉄の立場が… (2021/12/05 訪問)

岐阜県きってのイケメン天守がそびえる大垣城に行ってきました。(2年前ですが)
郡上八幡城や墨俣一夜城のモデルになったほどのイケメン天守ですが
本物の天守は太平洋(大東亜)戦争の空襲で焼失していまい、
現在は鉄筋コンクリートの模擬天守が鎮座しております。
天守の前には2代 戸田氏鉄公の銅像が立っているのですが
関ヶ原の合戦の際に石田三成が本拠にしていたので すっかり石田三成の城の
イメージが定着しております。
同じ地元の自分としてはいささか歯がゆい。いや三成公も好きですけどね。

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にのまる

大好き(°▽°) (2023/04/22 訪問)

公共交通機関利用なので、行き帰りの移動を如何に上手にクリアするかというミッションも抱えています。月山富田城へは安来駅からのほかに荒島駅からもイエローバスでアクセス可能。当日は松江からの移動だったので、接続がよく到着時間も早い広瀬~荒島線を利用しました。
※イエローバスはこの6/1にダイヤ改正されています。ナビサイトによっては反映されていない可能性もあるので安来市のHPで都度確認されるのがよいかと思います。また、月山富田城は広瀬バスターミナルからそう遠くないので、何かあっても何とかなりそうな感じでした👌ちなみに乗車距離にかかわらず大人1回200円です。

「市立病院前」で降車すると、飯梨川越しに幟旗のはためく大きな城山が目に飛び込んできました。
“尼子氏滅亡の”が枕詞になりがちなため、寂しげでしんみりとしたイメージを漠然と持っていたのですが、あまりのかっこよさにうるっ🥲
このあと城内を歩いている間ずっと、かつての難攻不落、戦国屈指の要害と周囲の山並み、そして現代に受け継がれる城下の美しい街並みが融和した風景を味わえ、史跡整備に力を尽くしてくださっていることを大変ありがたく思いました。
歴史資料館開館までは1時間以上あったので、最新情報収集なしで登城開始しました。
資料館裏手の登城口から入ると尼子(塩冶)興久公墓所。登っていくと馬乗馬場。麓から見上げた幟旗のところです。眼下に広がる風景の素晴らしさに、もっと高いところからの視界は一体どんなだろうかとワクワクがとまりません。
尼子神社のある千畳平から太鼓壇へ。尼子氏再興のために力を尽くした山中鹿介幸盛の祈月像がありました。6年前に行った上月城が思い出されます。
奥書院を経て花の壇復元建物へ。発掘調査で見つかった柱穴により、武将の生活の場と兵士たちの待機場所だったと考えられているそうです。城内道がよく見渡せ、山中御殿もすぐそこ。この距離であれば互いの様子がよく見え、連絡も取りやすかったことが理解できました。
その山中御殿は……めっちゃ広い!びっくりするくらい広い!
それだけでなく、復元整備のおかげでわかりやすい(^^)/
文字情報のみに頼った己の想像力の限界を突きつけられた思いでした。
山中御殿で確認しておきたかった攻め手三方向の菅谷口・御子守口・塩谷口からの虎口をチェックします。
菅谷口は櫓跡、雑用井戸跡近くで、軍用道もすぐ横。かっこいい石垣の虎口です。道が続いていたので少し進んでみました。機会があれば城安寺コースで登ってみたいです。
塩谷口もかっこよかったです。狭間塀跡から下りてみると行き止まりで、攻められそうになかったですが、振り返った狭い虎口が雰囲気ありすぎでした。
御子守口は帰りに通りました。

本丸方面へは復元石垣の階段からではなく、軍用道から行ってみました。
親子観音では壮絶な戦いの中での人間の苦しみを思い、合流した七曲り道では通路の整備に感謝しつつ下界の景観を楽しみ、未だ水を湛える山吹井戸では悠久の時を感じつつ登りました。

登りきった西袖ケ平の端から飯梨川と城下の風景を眺めていると、お世話になったイエローバスがまるでジオラマの中のミニチュアのように走っているのが見えました。バスターミナルに向かうバス、出てくるバス。瓦屋根の町なかを走っている姿がかわいすぎる🚍

そして振り返るとでんっと構える三の丸。
右側からぐるっとまわって二の丸から上がりました。遥か遠くまで眺めていると、戦国の世が続いていたらここを捨て置くことはなかっただろうと思えてきました。
二の丸と本丸の間の堀切は通路整備がされていてもその規模が伝わってきて圧倒されます。そしてついにここまで来たぞっという達成感。
本丸には山中鹿介幸盛記念碑。勝日高守神社の奥ギリギリのところまで行き下を覗いてみました。竪堀や通路があるような感じではありましたが、自然のままに近い場所で確証を得るのは難しいです。
本丸でコンビニのどら焼きで小休憩して下山しました。
山中御殿まで下る途中にも曲輪跡のような平場があったので寄ってみましたが、実際に見えている遺構はほんの一部で、最初の築城時から辿ると途轍もない山城だったんだろうなと、想像不可能なことや知り得ない事実の多さを思いました。

山中御殿の爽快さを再び味わい、登るときから気になっていた池へ行ってみました。軍用大井戸の説明板が立っていましたが、しっかりとした石組みで、井戸と呼ぶにはかなり大きかったです。

遠目にもはっきりわかる大土塁にも行きました。
近くにあったヤマザクラは令和元年の台風で大きなダメージを受けたにも関わらず、翌年いつもと変わらない可憐な花を咲かせたそうです。「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈った鹿介の精神と人々を勇気づけてくれる存在から「鹿介桜」と名付けられたとのこと。自然の持つ圧倒的なパワーを思い知らされました。
大土塁は本当に大きかったです。月山は高さ190メートルでものすごく高いというわけではありませんが、要所要所でスケールの大きさを感じます。

ここから堀尾吉晴公廟所へ向かいます。
ちょっと寂しい道……が大分寂しい道になっていきますが、いつも行っている山城と同じ茶色い世界に、そう、これがほんとうの姿なんだからと、一歩一歩地面を踏みしめながら歩きます。案内も立ててくださっていますし、出口である御子守口の方へ向かっているはずなので不安はありません。
大土塁から5分ほどで「堀尾吉晴の墓・山中鹿介供養塔」の石段の下に着きました。
石段の上に大きな五輪塔がありました。吉晴公自身の遺言によりこの地に遺骸が葬られたと伝わるそうです。後方には山中鹿介幸盛の供養塔。幸盛公の遺徳を偲び、吉晴公の御内儀によって建てられたと説明板にありました。
富田城は不便だから吉晴公は松江に築城した、とただ一言の知識としてインプットしておしまいにしてはいけないな、と感じる廟所でございました。

吉晴公の娘、小那姫のお墓があり、まるで曲輪……な感じがすごくする巌倉寺を通って御子守口から退出しました。
歴史資料館に向かっていると地面!にお城の全体地形模型があったので復習。資料館に入館し、見学させていただきました。

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しんちゃん

家康 秀忠も使用した将軍家のお茶屋敷 (2021/12/05 訪問)

御茶屋とは江戸・京都の往還に整備された将軍家専用の宿泊施設である。(現地案内板)
慶長10年(1605)完成。家康公や秀忠公も使用しています。
まだまだ物騒な時代だけに土塁 堀もしっかり備え、ちょっとした城郭造りになっています。
四隅には櫓まで備えていたって… かわいいネーミングの割にはずいぶん要塞してますな。
ちょうど紅葉の季節も重なって 素晴らしい景色を見ることが出来ました。
ああ福眼… 日本人ならやっぱり紅葉 桜 富士山 城ですな(アナログ思考)

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しんちゃん

石垣 紅葉 四季桜 畝状竪堀 見どころ多過ぎ欲張りすぎる城 (2019/12/07 訪問)

豊田の山奥にある比較的マイナーな城ですが全国でも珍しい
四季桜と紅葉の饗宴が見られる城です。
三河地方有数の石垣に畝状竪堀 土塁に堀切と
正直こんな城は全国でもここだけではないでしょうか。
はっきり言って贅沢すぎます。
四季桜と紅葉のジャストミートするタイミングは難しいですが
訪れてみる価値はあると思います。
近くの小原四季桜の里も必見ですよ

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ぎりょう

公園化による改変で残念な状態に・・・・・ (2023/06/10 訪問)

例年6月第二土曜日に開催のチャグチャグ馬コを見に岩手県滝沢市を訪問した。このお祭りは滝沢市の鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮までの14kmを60頭の馬コが鈴の音を響かせて行進する。馬体に約700個の鈴を付けた馬コに、きれいな装束を身にまとった子供さんたちが跨り観客に手を振る光景には心が癒されます。
今回の盛岡近隣への訪問はチャグチャグ馬コと、昨年クマ出没により攻城中止を余儀なくされた紫波町の高水寺城が目的でした。昨年は5月と6月の二回訪問しましたが、地元で城山と呼ばれる城址は入山禁止が解除されず空振りでした。先週紫波町役場に状況を確認し現在のところは大丈夫との回答を得ての攻城となりました。
この城は中世(14世紀後半か?)に斯波氏が本拠地とした城(築城年月は不明)であり、城域は城山の全域に及んでいる。天正16(1586)年に南部信直の攻撃により斯波氏は滅亡する。その後は南部氏の支城として中野氏が城代となるが、寛永6(1629)年には補修され郡山城と呼ばれるようになり、築城中の盛岡城へ寛永10(1633)年に重直が入城するまでは南部氏の本拠地であったという。その後、寛文7(1668)年に廃城になった。
北上川右岸の独立丘陵の最高所に主曲輪を置き、周囲に大小の曲輪を配置して防御する典型的な中世山城の姿だったのだろうが、近世初頭の改修では石垣が積まれる(廃城後北上川の橋建設のため撤去されたらしい)など近世城館へ改変されているようだ。
現在は公園化にともない車道、駐車場、階段などが設置され、桜の名所として多くの方々の利便性は高まったと考えますが、中世山城ファンにとっては少しばかり残念な状態と感じました。

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