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todo94

2022年度最後の一日⑥ (2023/03/31 訪問)

「まむしづか」は知らなければまず読めないでしょうし、IMEの変換でも出てくるものではありませんでした。めぼしい遺構はないのかなと思いましたが、説明板の中の図の現在地を確認してみると、後背の茂みは馬出の土塁にあたる感じになりますかね。ちょっとあっさりとしすぎていますが、これが2022年度最後の攻城となりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:大井城 (2023/04/18 訪問)

志賀城から転戦。佐久公民館駐車場(36.274320、138.479677)に駐車し、登城口(36.274164、138.481817)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に大井氏によって築かれたと云われています。

駐車した佐久公民館駐車場に岩村田陣屋跡の標柱がありました。
城は湯川の西岸にある河岸段丘に築かれていました。北から南へ石並城・王城・黒岩城と並んで合わせて大井城または岩村田館と称されています。
現在は王城が公園として残されており、南の道路の対岸に黒岩城が見えます。
攻城時間は20分くらいでした。
本日の城巡りはここがラストで、ここから佐久平駅に戻りレンタカーを返却して、宿泊先のホテルがある上田駅に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:志賀城 (2023/04/18 訪問)

平賀城から転戦。雲興寺駐車場(36.249953、138.529219)に駐車し、登城口(36.250233、138.529656)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、笠原氏によって築かれたと云われています。
1540年(天文9年)頃から甲斐の武田氏が佐久へ侵攻し、1545年(天文14年)頃には郡内の諸城は武田氏によって陥落し、残すは志賀城の笠原新三郎清繁のみとなっていました。
1546年(天文15年)武田信玄自ら佐久へ侵攻すると、上野国菅原城主高田憲頼父子が援軍として志賀城に駆け付け守備を固めます。
さらに関東管領上杉憲政は金井秀景を大将として援軍を送ったが、小田井原で武田の家臣板垣信方や甘利虎泰などと合戦となり大敗を喫してしまいました。
この合戦の大敗によって籠城兵の士気も下がり、城は陥落、城主笠原清繁をはじめ高田憲頼父子などが討死しました。
落城後、城内に立て籠もっていた女・子供は捕虜として甲斐へ送られたそうです。

志賀集落にある雲興寺参道入口に志賀城への道標が出ています。
志賀城へはお寺の東側から墓地へと続く道を登っていけば山頂まで整備された道が付いていますが、倒木が多く途中で予定時間も過ぎた為、断念しました。
参道に石積の通路があり、曲輪にも所々石積が残されています。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=大井城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:平賀城 (2023/04/18 訪問)

伴野城から転戦。付近に駐車スペースはなく、城山保育園付近(36.228943、138.503629)に路駐しました。
そこから5~6分歩いて、平賀不動尊東側登り口(36.226932、138.506399)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、平賀義信によって築かれたと云われています。
平賀氏は新羅三郎義光の子義盛が平賀に館を構えて平賀冠者を名乗り、その子義信によって平賀城が築かれたと伝えられています。
義信の長男惟義は伊賀国守護を務めて大内冠者と呼ばれ、二男平賀朝雅は北条時政の娘を娶り京都守護職を務めるなど、源頼朝に従って要職を務めました。
1400年(応永7年)大塔合戦では佐久郡の他の国人領主とともに、守護小笠原長秀と戦っています。
その後、小笠原氏系の大井氏と争うようになり、1446年(文安3年)大井氏によって滅ぼされたそうです。

主郭は山頂から西へ張り出した尾根の頂部にあって、南東に本丸・北西に向かって二の丸・三の丸と連なっています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=志賀城に向かいました。

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くらのり

岡山城 (2023/05/01 訪問)

別名「鳥城」「金鳥城」と呼ばれ、国指定の史跡です。豊臣秀吉の身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城。完成までに8年の歳月を費やした岡山城は、旭川を天然の外堀に活用。
天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取り付ける特徴が、外観が黒く「鳥城」と呼ばれ、秀家は岡山城を戦の施設としてだけではなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府として城下町の整備を整えました。
秀家に代わって城主となった小早川秀秋、岡山城を拡張し、その外に寺町を配置。
岡山城は歴代城主の下で岡山の街並みの発展を見続け、近代都市の礎となったのです。

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にのまる

赤い城さんのクイズ

真壁城、同じアングルの写真をさがしてみました。
外曲輪南虎口西側のⅣの堀から北側の中城庭園方向を見上げたところですね!
このあたり、すごくかっこよくて何枚も写真を撮りました。
遠くに見える山は加波山?


GWは隔日でお仕事なのでお出かけ予定なしです。
【かるた】と溜まっている行ったお城の投稿、がんばります。

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いんげん丸虫

入山城 長野県千曲市 (2023/05/02 訪問)

村上氏関連、入山氏の要害の山城です。
水道施設から登城できるはずでしたが、
現在工事中です。

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いんげん丸虫

ピラミッド型 (2023/05/02 訪問)

ピラミッド型をした自在山の山頂に自在山烽火台
があります。
土塁に囲まれた主郭、竪堀として伸びる横堀など
が見れます。標高793m,比高400m。
険しくロープの張られた斜面もあります。
登山コースとして整備されてますが、キノコ山の
ようで9~11月頃は入山禁止ですね。立ち入り禁止
の看板が多くて少しイメージ悪いです。。
小型車なら麓の自在神社、そこまでの路肩に駐車
可能です。

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朝田 辰兵衛

赤い城さん,解答します。 (2023/04/16 訪問)

赤い城さん,茨城県クイズ,ありがとうございます。
「茶色」で「V字」のクイズだったら,小幡城しかわからなかったと思います。
画像奥に見える,緩やかでふたコブの稜線の山は,日本百名山の「筑波山」。
茨城県に筑波山と見間違う山は他にないと思います。
ということで,答えは「筑波山」と言いたいのですが,城郭名ですよね(←当たり前だろっ!)。
筑波山からの距離感から推察して,「真壁城」だと思います。
行ったことはないですが,土塁にかなり手が加わっているという,
がっかりな投稿で記憶に残っています。

さて,私の画像の場所は「板橋城」です。
長命寺の石段を,本堂まで登る途中に見つけました。
住職の趣味のエリアなのかな…?

そうそう,5/3~5/7で遠征に行ってきます。
投稿は休みますが,みなさんの投稿は閲覧させていただきます。
ご容赦くださいませ。

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にのまる

おめでとうございます🎉

赤い城さん、茨城県制覇おめでとうございます🎊
千葉県、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県コンプですねー❗️

700城到達もおめでとうございます🎈
あと2300城、がんばってください❗️

ではここで、おめでとうクイズです。
↓どこでしょう?

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yama1neko2

ご先祖様の墓参り

2021.12.11
ポカポカ秋の陽気に誘われて、ご先祖様の墓参り。
水ヶ城山は、すっかり山燃ゆる晩秋の景色に変わりました。
戦国時代の城主臼杵長景公の墓碑が水ヶ城を見つめています。
秋の古戦場、水ヶ城陣跡が目に浮かんできます。
栄枯盛衰を今もなお映そうとしているかのような気がしました。  

水ヶ城は標高280.8mの水ヶ城山から北へ伸びた尾根の標高212mの峰に築かれている。
永正2年(1505年)臼杵氏六代臼杵長景による築城(『豊後国史』)と言われている。
主郭は北西から南東へと長く伸びた曲輪で、南側に一段小高くなった土壇状の地形が残るが、上は削平されていない。
曲輪の中央東部にl字に窪んだ虎口状の地形が残されている。
水ヶ城城下の田篠台、江無田台住宅地の一角に大友系臼杵氏初代臼杵時直、六代臼杵長景、七代臼杵鑑速、そして耳川合戦で討死した臼杵統景の供養塔がある。

臼杵市江無田、鍛冶屋原の北讃岐園と言うところに長景公のお墓があります。
墓碑には
臼杵近江守長景
堅心院殿悟明宗圓大居士
大永7年12月3日
と記されています。

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10Q-Nobu

防御力が高い中学校 (2023/05/02 訪問)

景観が保全されていて、歩いてまわるのに心地いい城下町。
城は門が現存しているのみだが、石垣の積みが奇麗で見どころあります。
城跡の敷地は中学校になっており、城好きには羨ましい環境ですが、実際通っている在校生は何とも思ってないんだろうな。

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あみりん

思いがけず山登りな、佐伯城。 (2023/05/02 訪問)

最高な天気な中、思っていたより登山でした‼️
山頂からの景色は最高でした。
宿泊していた大分から特急にちりんで往復しました。
今回はたくさんの電車に乗り、充実の大分城巡りでした。
江戸時代の人々も歩いた道で山頂まで歩いたらしい。

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10Q-Nobu

太宰府絶対防衛線 その3 (2023/05/02 訪問)

水城、大野城に続いて太宰府を後背から守る基肄城へ登城。上まで車で上がってこられ、駐車場もあるので攻略は楽でした。
草スキー場にもなっており、お城目当てじゃない人も楽しめそう。

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赤い城

茨城県の城クイズ

朝田さん、メッセージありがとうございます。
藤棚、綺麗です。
純粋にお祝いとして受け止めます!
でもどこなのか気になる。

茶色とV字のイメージ、合ってるかもですね。
関東は土の城がメインなので土橋、堀切、堀底道に萌えてます。

まだ神奈川と大島が残っていますが関八州制覇目指したいですね。

さて、茨城県の城クイズです。
これは瞬殺ですね。

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ヒロケン

日本一の巨大城郭 (2023/04/29 訪問)

江戸城は、徳川歴代将軍家の居城で、江戸幕府の中心でもありました。その規模は日本最大であり、外郭周囲15.7km・東西約5.4km・南北約3.8km、内郭、周囲7.8km・東西2.3km・南北1.9kmと桁違いのスケールを誇っています。

明治維新後、明治天皇は千数十年にわたりお住まいになってなっていた京都から、この江戸城にお住まいを移し、皇居となっています。
現在は、皇居外苑に含まれる濠、及び東御苑の一部が「特別史跡江戸城」として文化財に指定されており、世界中から観光客を集めています。

この日、豊橋を3時に出発し、北の丸公園駐車場に7時頃到着。(田舎育ちの自分には、東京の街を運転するのはかなりのストレス。北の丸公園駐車場は首都高速を降りて直ぐのところにあり便利)駐車場開場時間は8時半からで、時間が少々あったので駐車場前に路駐し、靖国神社へ参拝。江戸城の訪問は4度目で3度は北の丸公園駐車場を利用しています。4月8日に続き4月29日にも訪問し、今回の画像は8日と29日両日の画像を投稿させていただきます。

機会があれば、一般参観コースを行ってみたいと思っています。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:伴野城 (2023/04/18 訪問)

根井氏館から転戦。薬師寺駐車場(36.225729、138.469935)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に伴野時長によって築かれたと云われています。
伴野氏は清和源氏小笠原氏流で、小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭となって入部し伴野氏を名乗ったことに始まるとされています。
1285年(弘安8年)三代伴野長泰の時、鎌倉で「霜月騒動」が起こり、小笠原惣領にあった長泰以下一族の多くが誅され、所領は鎌倉北条氏に没収され伴野氏は衰退します。
その後、鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代となると足利尊氏に属した伴野長房によって、勢力を回復していきます。
はじめ方形居館として築かれた伴野館も勢力の伸張とともに城として拡張され、館を本丸として周囲に曲輪を配して野沢城とも呼ばれる平城となる。しかし文明年間(1469年〜1487年)頃には前山城を築いて居城を移している。
勢力を回復した伴野氏は次第に大井氏と争うようになり、甲斐の武田氏と通じて大井氏と戦い、1549年(天文18年)に伴野左衛門は武田氏に属しました。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で倒れると伴野城は依田信蕃の一族依田肥前守によって攻略され、前山城も依田信蕃によって落城したそうです。

現在は大伴神社が建つ城山公園として整備されています。
周囲には堀の名残と思われる水路が巡り、東側、北側、西側に土塁が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=平賀城に向かいました。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー63城目 (2023/03/31 訪問)

スタンプラリーが始まる前にも登城しているのでこれが3度目の高天神城なのですが、初めて物見台の奥にも足を伸ばしてみました。深くえぐれた堀切が次から次へと現れてびっくりしました。高天神社の社務所脇の入り口は目立たないので分け入っていくのに勇気がいりますが、脚を伸ばす価値は十分にあるかと思います。延々と延びる横堀といい、一城別郭の西側は本当に見どころが多いですので、本丸のある東側だけではこの城の真価は味わえないかなと思います。歴史上に占める重要性からも続100名城選定は当然のものと納得できました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:根井氏館 (2023/04/18 訪問)

岩尾城から転戦。正法寺駐車場(36.259830、138.454647)に駐車しました。
根井行親の供養塔が、この位置(36.260175、138.454318)にあります。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に根井氏(ねのい)によって築かれたと云われています。
根井氏は滋野氏の一族・望月氏の支流で根井行親の父国親の頃にわかれたそうです。
根井行親は木曽義仲の四天王の一人に数えられた人物で、1156年(保元元年)の保元の乱では源義朝に従って奮戦し、1180年(治承4年)木曽義仲が挙兵するとそれに加わって各地を転戦しました。
1184年(寿永3年)源頼朝が源範頼・源義経に木曽義仲の追討を命じると、木曽義仲とともに近江へ逃れ「宇治川の戦い」で敗れて討死しました。

現在の正法寺周辺が館跡とされます。
特に遺構は残っていないようですが、正法寺の墓地の中に根井行親の供養塔が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=伴野城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:岩尾城 (2023/04/18 訪問)

望月城から転戦。駐車場所がなく、少し遠いですが桃源院駐車場(36.254023、138.434348)に駐車し、岩尾城入口(36.254178、138.430441)に向かいました。(駐車場所から徒歩7~8分かかります)

1479年(文明11年)頃に、長土呂大井行春の二男・大井行俊によって築かれたと云われています。
天文年間(1532年〜1555年)頃に岩尾大井行頼は武田氏に降り、その後は武田氏に従って各地を転戦したそうです。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡して織田信長が本能寺に倒れると、徳川家康の武将依田信蕃が佐久へ侵攻して諸城を攻略し、勢いに乗じて大井行吉の籠る岩尾城を包囲しました。
この戦いで城内に攻め入ろうとした依田信蕃と弟信幸を鉄砲で討ち取ったが、その後も激しく攻めたてられ降伏開城しました。

山頂に本丸、東へ向かって二の丸・三の丸が連なり、東の虎口は丸馬出しとなっています。
二の丸に伊豆・箱根三島神社が建ち、三の丸・馬出しは畑となっていて、よくわかりません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=根井氏館に向かいました。

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