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しんちゃん

かつては織田信雄の城。総石垣の広大な本丸は花見の会場に。 (2023/03/21 訪問)

田丸城はもともとは北畠氏の庶流、田丸直昌の城だったのですが、
織田信長に従うこととなり、織田信雄に城をあけ渡し、その傘下に入りました。
その後、信雄は松ヶ島城に移り、また時が流れて
天正12年(1584)新たに松ヶ島城の城主となった蒲生氏郷の支配下にはいります。
その後またいろいろあって、江戸時代には紀州徳川家の所領となり
田丸領6万石には紀州徳川家家老、久野氏が城代を置いて明治時代に至ります。
久野氏というと静岡県袋井市の久野城の主ですね。
久野宗茂の時代、駿府藩主徳川頼宣が紀州に転封になったときに
いっしょにくっついてきたんですね。
城跡は玉城中学校の背後の丘地に築かれています。
城全体が見事な石垣で囲われ、丘地の中央の最高所が本丸で十分な広さを持っています。
北には北之丸、本丸に引けを取らない広さです。
南は二之丸。今は中学校になっているエリアもかつては郭を形成していたようです。
天守は中がくりぬかれた独特の構造をしています。
石垣の周囲に柱を建て、天守を建造し石垣の内部も有効に活用していたのではないでしょうか。
この時は桜のつぼみはまだ固かったのですが、花見の会場にもなるようで
本丸の広さを十分に発揮できそうです。これは地元の方の特権ですね。

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WEST

秋田城探訪 (2023/06/07 訪問)

秋田県のお城探訪にて、秋田城跡を訪問しました。
秋田駅西口よりバスに乗車して、バス停「秋田城跡歴史資料館前」にて降車しました。乗車時間は18分です。
(バスはデイタイムに30分毎にありますので、アクセスには便利です)
まず、秋田城跡歴史資料館を見学しましたが、数々の出土遺物から、確かにその当時の多くの人の営みを感じました。
城跡は、一部は復元建物はありますが、奈良時代からの古代遺跡です。AR・VR(2022年4月にスタートのこと)の助けを借りながら、当時の姿を体感できると思います。
テレビ番組にて紹介があった古代水洗トイレは、見どころの一つでしょう。残留沈殿物の調査から、大陸からの訪問者があった可能性があるとのこと。ロマンを感じますね。

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イオ

中世と近世(山上御殿~北西尾根) (2023/04/09 訪問)

(続き)

主郭から山上御殿に向かうべく南端から下りて行くと、南斜面に大きな竪堀が落ちていました。山上御殿の南麓にも数条の大きな竪堀が見られ、南西尾根に続く尾根道は土橋を設けた堀切(竪堀)で遮断しています。

堀切で引き返して山上御殿へ。山上御殿は南辺を櫓台状の土塁で囲み、発掘調査では礎石建物や瓦、陶磁器などが確認されています。また、樹木で視界は限られるものの小浜湾を見渡すことができ、深みのある海の色が印象的でした(添付の写真はピンボケ気味ですが…)。

山上御殿から北西尾根に下りて行くと、数段の小曲輪を経て西側に巨大な竪堀が落ち、その先には西辺に土塁をめぐらせた曲輪がありました。北下には数段の帯曲輪が見られますが、土塁の下方(西麓)には畝状空堀群があるようなので、少し戻って竪堀を下りてみると……おお!! 杉の落葉にずいぶん覆われてはいますが、十数条に及ぶ畝状空堀群が広がっていました。さらに北麓に向かっては四条の巨大な竪堀が落ち込んでいます。こりゃすげえ…。

…といったところで、主な見どころはひとめぐりしましたが、主郭からはずいぶん下りてきているので、来た道を戻るのが億劫になって、竪堀東側の高低差のある数段の曲輪群を下りて行くことにしました。北西尾根はかつての大手道とされ、下りて行けば居館跡(空印寺)にたどり着けるはず……と思ったんですが、後瀬山と空印寺との間にはJR小浜線が走っており、落石または動物よけとして高さ3mはありそうな壁で隔てられていて、とても越えられそうにありません。横断できそうなポイントも見当たらず、泣く泣く急斜面を登って主郭まで戻り、来た道を下山しました。先日も越智城で似たようなことをやらかしていますが、その3倍ほど大変でした。いい加減学習しろよ…。

ともあれ、尾根部の中世山城の遺構(堀切や竪堀)と、主郭部の近世城郭の遺構(石垣)を共に堪能できる見応えのある城でした。中でも北西尾根の畝状空堀群はなかなかのものですので、時間と体力・気力のある方はこちらにも足をのばしてみて下さい。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー65城目 (2023/04/30 訪問)

待望の芥川城の城址碑を確認し、これも待望の芥川山城に繰り出しました。続100名城選定前に攻城済みでしたが、最初のスタンプラリーの時は災害復旧が完了しておらず攻城を断念していたので、これが2度目の攻城です。雨はすっかり上がっていたとはいえ、登城路のいたるところに湧き出た水が流れており、靴はずぶぬれとなってしまいました。最初の時はスルーしていた大手石垣を確認できたのは最大の収穫でした。芥川城と名を改めたリーフレット、ありがたく戴いてまいりました。

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しんちゃん

城を見て良し、城から見て良し。ビジュアル優等生の城。 (2021/11/28 訪問)

苗木城は建武年間(1334~1337)に築かれた遠山氏の城です。
豊臣秀吉により川尻氏に与えられるのですが、関ヶ原の合戦跡に遠山氏が城主として返り咲き
明治維新まで遠山氏の城として存続しています。
主郭は山頂部の岩の上でかつては懸けづくりの居館が建っていました。
今は懸けづくりを生かして展望所が設けられています。
眺望は素晴らしいの一言。やはり最頂部からの景色がすばらしい城は印象が良いです。
木曽川と恵那山のながめがすばらしく、城からながめて良し、遠目から城をながめて良しと
非常にビジュアルに優れた城です。
遠山資料館にある復元CGがまた味があって良いです。
陳腐な表現ですが、まさにジブリの世界観です。

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トク

㊻ 伊達秀宗(宇和島市立「伊達博物館」) 奥州の伊達家がなぜ宇和島にもあるの? (2023/06/11 訪問)

藤堂高虎を追って宇和島城を訪れた後、城の南(宇和島東高校前)にある宇和島市立「伊達博物館」を訪れてきました。ここには宇和島伊達家ゆかりの品々が展示されています。ちょうど伊達秀宗に関する特別展示が行われていました。3度も人質(秀吉、三成、家康の時代)として過ごし、仙台を継げなかった苦労人としての秀宗の様子が詳しく解説されていました。

【余談】奥州の伊達家がなぜ宇和島にもあるの?

25年前の古い話で申し訳ないですが、私は奥州の伊達家がなぜ宇和島に存在するのか、当時はネットも無い時代だったので解らず、ずっと不思議に思っていました。その時、大河ドラマ「独眼竜政宗」(渡辺謙さん主演)の中で、政宗の正室の愛(めご:桜田淳子さん)の子「伊達忠宗」と側室の猫(飯坂の局:秋吉久美子さん)の子「伊達秀宗」の話がありました。正室の愛には最初なかなか男子ができず、側室の子の秀宗が跡継ぎとして大坂の豊臣秀吉の元に送られ(人質)養育されます。しかし関ケ原の翌年、愛に待望の男子が生まれます。本来は正室の子が後を継ぐべきであるので、1610年正室の子には徳川秀忠から1字をもらい忠宗と名乗らせます。しかし、先に生まれた兄の秀宗が1615年大坂の陣で活躍したため、やはり秀宗を跡継ぎにと押す声が上がり、このままでは後継問題で家中が二つに割れてしまうのを恐れた政宗が、駿府の家康(津川雅彦さん)に相談したところ、秀宗には高虎移封で空いた宇和島10万石を与える事で一件落着したようです。(そうだったのか~🤔)と思った記憶があり、政宗と宇和島に行く猫と秀宗との永遠の別れのシーンがとても印象的でした。家康は政宗に対し、関ケ原での100万石のお墨付きを反故にした事をずっと後ろめたく思っていたのでしょう。また政宗には秀忠の後見を託していたためそうしたのかもしれません。1615年大坂の陣の直後で家康が亡くなる1年前の事でした。

しかしこれはあくまでドラマでの話であり、どこまでが真実でどこが脚色された部分なのか私は伊達に詳しくないので実はよくわかりません(すいません)。博物館内の解説によると、宇和島に行った後の秀宗は、人質として苦労したあげくに仙台の伊達本家を継げなかったくやしさからか、仙台から連れてきた家臣を斬ったり貸付金を無駄使いしたりなどの乱行が目立ち、それを知った政宗は激怒し親子関係は険悪になって、このままでは伊達宇和島藩の存続すら危うくなったそうです。しかし、江戸へ参勤の折りに老中土井利勝の仲介で両者対面し、お互い腹を割って話し合い、それでわだかまりも解けたとか・・・(やっぱり親子ですね~😊)。 そして秀宗の子(宗利)が、徳川に恭順の意を示すため、宇和島城を狭間などのない層塔型で建て替え、幕末まで9代伊達宇和島藩は続いたようです。ちなみに、この伊達秀宗の正室は井伊直政の娘だったそうです。

次は、高虎の関ケ原後の居城「今治城」に続きます。
 

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しんちゃん

大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公 明智光秀の奥さんの実家 (2021/11/28 訪問)

妻木城は妻木町を見下ろす標高409mの山頂に築かれています、
諸説あるのですが、最新の研究では戦国時代に築かれたとされています。
山頂の主郭は石垣によって南北に二段に分けられ、南の1郭は東側に、北の2郭は北に虎口を設けており
主郭部分は全体を見事な石垣で囲まれております。
さらに北に下ると3郭があり、このあたりからの眺望は素晴らしかったと記憶にあります。
1郭の南側には巨石群と土塁があり、この付近に特徴的な十字の矢穴の残った石があります。
このあたりは石切り場として機能していたのではないでしょうか。
大河ドラマ「麒麟が来る」の明智光秀の妻が妻木氏の人でしたので、
光秀の奥さんもこのあたりを遊び場にしていたかもしれません。
麓にはこれまた見事な石垣を備えた居館跡があります。
山上の城には車ですぐ近くまで行けるので、忘れずに見学していって欲しいです。

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しんちゃん

木造復興の意義は大きい。レプリカではなく文化財として。 (2019/03/31 訪問)

2019年に名古屋城を訪れた時の写真です。
ちょうど桜も咲きだしていたころで石垣のあたりは見事に開花していました。
この日は西北隅櫓の公開が行われていたので早速訪問することに。
東西13.9m 南北16.9m 高さ16.2m 国内に14基現存する三階櫓の中では
宇土櫓に次ぐ大きさです。
清洲城の木材が使用されていたと伝わることから、清洲櫓とも戌亥櫓とも呼ばれております。
木造再建された本丸御殿も素晴らしいですが、やはり江戸時代から残る建造物は良いですね。
天守もしっかりと木造再建してほしい。
世界遺産の金閣寺を見てもわかりますが、江戸以前と同じ構造で再建された建造物は
文化財として大きな意味合いを持つと思います。
首里城や金閣寺などの再建文化財はレプリカとは意味合いが異なると思います。
江戸時代に再建された高知城などのように、長い年月を経て文化財としての重みを増していくのだと思います。

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シャンシャン

城カード7枚目 (2023/06/10 訪問)

城カードを求めて高松城へ。
2つある櫓のうち、月見櫓は工事中で覆いで囲まれており見られず残念(T_T)
水堀には鯛がいっぱい泳いでいて、餌をあげるボートのあとを追っかけていて面白い(^^)
線路がすぐ横を通っているので、電車と城(櫓だけど)が同時に見られるのも珍しい。
天守閣がいつか再現されるといいな。

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しんちゃん

理想的な城の形。国宝天守と犬山祭り夜の部。 (2019/04/07 訪問)

国宝・犬山城は天文6年(1537)織田信秀の弟、織田信康によって今の形の基礎が作られました。
木曽川を背後の守りに標高88mの丘(山)の最上部に本丸と天守を置き
南側に杉の丸、桐の丸、櫻の丸、松の丸、三の丸を配しています。
杉の丸は現在は券売所、桐の丸は針綱神社、櫻の丸はおみやげ屋さん、松の丸は三光稲荷神社
三の丸は城下町として犬山神社や城とまちミュージアムなどで賑わっています。
犬山城については特に説明はいらないと思いますが、まだ行かれたことの無い方がいらしたら
ぜひ訪問していただきたいと思います。
木造の国宝の城は雰囲気からしてただものじゃないです。中に入るともっとすごいですよ。
当日は犬山祭りの夜の部も拝見して参りました。
大きな山車が急激に方向転換するのを間近で見るのは迫力があります。
いずれ昼の部も見に行きたいですね。

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しんちゃん

城主 岡部元信はひとくせふたくせ有りそう。人生これ戦いなり。駿河武士の鑑 (2019/04/07 訪問)

桶狭間の合戦のさい、今川側の岡部元信が城主を務めていた城です。
この岡部さん なかなか濃い人で大河「どうする家康」でも人情味のある今川方の武将として
ちらっと出ていましたね。
主君 今川義元の首級と引き換えに城を開城し、御首を輿にのせ
ゆうゆうと退去したまでは良かったのですが、そのあと武将としての悪い癖が出て
刈谷城を攻めて水野信近を討ち取ったりしてるうちに首の腐敗が進んでしまって
やむをえず西尾の東向寺に御首を葬っていったらしいです。
実直な人物ですが、いささか不器用なところがありますね。
主郭は現状 公園になっているようですが写真を取り損ねました。
天神社に城跡の説明と城址碑が立っています。


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しんちゃん

南北朝 後村上天皇ゆかりの城。清正の枕石。 (2022/11/12 訪問)

2022に三河湾三島めぐりをして日間賀島、篠島を訪問した際に登城しました。
知多半島の南端 師崎から観光船で出発。比較的メジャーな便なので値段もリーズナブルです。
日間賀島と比べるとマイナーな感は否めないのですが、自然は美しく
なんといっても篠島城があります。
南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子の義良親王が東国に向かう途中で漂流し
篠島城を住居として6~7か月滞在したと有ります。
親王はこのあと無事吉野に戻り、のちの後村上天皇になるわけです。
城跡は見たとこ岡地の上部が扁平地となっており、基本単郭のようですが
周囲に帯郭があったかもしれません。
港でレンタサイクルを借りて島めぐりをしながら訪問。
島にはほかにも名古屋城の石材を切り出したといわれる
弁財採石跡地や清正の枕石があります。
ぜひ合わせて訪問していただきたいと思います。

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駿府城

発掘情報館「きゃっしる」で駿府城を知ろう!

駿府城跡天守台発掘調査現場の敷地内に併設されているこちらの建物は何かご存じですか?
 
発掘調査現場に来たことはあるけど、こちらの建物に入ったことは無いという方もいるのでは?
こちらは発掘情報館「きゃっしる」といい、名前の由来はキャッスル(城)×知る=きゃっしるです。
駿府城の基本情報や駿府城跡天守台発掘調査での調査成果や最新情報などを展示しています。
 
駿府城の基本情報を分かりやすく展示していますので、歴史好きの方はもちろん、歴史にあまり詳しくない方でも駿府城のことを知ることができます。

<発掘情報館 きゃっしる>
開館時間 9:00~16:30(入場は16:00まで)
年中無休(年末年始を除く)・入場無料

駿府城公園にお立ち寄りの際は、駿府城跡天守台発掘調査現場へぜひお越しください♪

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イオ

中世と近世(北東尾根~主郭) (2023/04/09 訪問)

戦国前期に若狭国守護の武田元光が居城として築いた城で、織豊期には朝倉氏の支配下となるも、織田信長により朝倉氏が滅亡すると丹羽長秀に与えられ、丹羽長重、浅野長吉、木下勝俊を経て、関ケ原の戦いの功により京極高次が入り小浜城を築いたことにより廃城となりました。

小浜湾を見下ろす後瀬山頂部を中心に、北東、北西にのびる尾根に曲輪群を配した連郭式山城で、北麓に居館を構え、丹後街道と小浜湊を掌握する交通の要衝です。

北東麓の愛宕神社駐車場に車を駐めて登城開始…の前に、神社の草刈り作業をしておられた方としばし雑談。遠方ナンバーの車が駐まっているのをよく見かけるけど、ここって有名なお城なの? と尋ねられたので、城好きには有名だと思います、と答えておきました。「日本の山城100名城」にも選ばれてますしね。

さて、説明板のある登城口から山頂までは愛宕神社の参道が整備されており、10分ほどで北東尾根(東支尾根)の曲輪群に到着。参道沿いに小さな曲輪が連なり、両側には竪堀も見られます。北東尾根のピークにある曲輪から北に分岐する支尾根にも曲輪群があるようなので下りて行くと、土橋のある堀切が尾根を遮断し、西側は竪堀となって落ちています。堀切の下には階段状の曲輪群が続いていますが、支尾根の北端で折り返して主尾根に戻りました。

参道を登って行くと、西側には支尾根よりも大きく切岸も高い曲輪群が階段状に連なっています。ピークの手前に不自然に奥まった空間がありますが、コンクリートの基礎っぽいものも見られ、後世の建物跡でしょうか。北東尾根最高所の曲輪南端には堀切と土橋があり、その先は主郭部です。

主郭の周囲は丹羽期以降に石垣に改修され、北辺や西辺はところどころ崩落してはいるものの、北東隅には初期の算木積みによる石垣が状態良く遺っています。主郭には武田氏城址石碑や説明板のほか、廃城後に常高院(京極高次正室・浅井三姉妹の初)が勧進したとされる愛宕神社が鎮座し、西辺には神社創建時のものと思われる石塁も見られます。

主郭に続いては、南西側の山上御殿と北西尾根の曲輪群に向かいます(続く)。
 

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todo94

城址碑発見 (2023/04/30 訪問)

4月30日のぴーかるさんとのニアミスは、私の方が先行していたようですね。私は、真鍋城の後は阪神高速を使って高槻市まで北上しました。芥川城の城址碑は、一度、高槻駅から歩いて探したことがあるのですが、見つけることができませんでした。皆さんの投稿を拝見して植栽の中に城址碑を見つけることができて感慨無量です。ありがとうございました。なお、芥川山城は、国史跡・芥川城となったようですね。続100名城や城びとの城名表記にも変更があるのか、興味津々です。

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Pylori

堅固な城郭 (2023/06/12 訪問)

空堀と急峻な石垣による護りの城を実感できました。
二俣城が陥落し、浜松に向かってくる武田軍を見た時の家康の心境を想像できました。

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Pylori

発掘現場見学に感激 (2023/06/11 訪問)

新旧二つの天守台の発掘現場を見ることができて感激しました。

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ぎりょう

比爪系藤原氏の本拠地 (2023/06/10 訪問)

高水寺城訪問の後は国道4号線を4kmほど南に移動して比爪館跡へ。現在は赤石小学校になっている付近一帯が旧比爪館の跡地と云われている。比爪系藤原氏は平泉藤原氏初代清衡の四男清綱の家系で、この地で産出される砂金によって平泉の仏国土(浄土)造営を支えたという。文治5(1189)年の奥州合戦に際して源頼朝が平泉を制圧の後に陣ケ岡に布陣すると、比爪系藤原一族は館に火をつけて逃亡したという。
比爪館は紫波町教育委員会の発掘調査により、御所・政庁・寺院の複合施設で構成され、平泉館(柳之御所)に類似したものと考えられているようだ。
現在、周辺は宅地や小学校となっているが、館跡南側の五郎沼が往時の姿をイメージさせてくれるのみ。(参考文献 もう一つの平泉 羽柴直人著 吉川弘文館)

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しんちゃん

全国屈指の紅葉の名所。きれいすぎて山城じゃないみたい。 (2020/11/18 訪問)

香嵐渓の北側入り口からすぐにアクセスすることが出来ます。
標高251m(比高131)の山城で足助氏によって、鎌倉時代から室町時代にかけて築城されたようです。
香嵐渓にある香積寺(こうしゃくじ)が足助氏の居館跡で土塁が一部残ります。
全体が県の史跡に指定されており全国でも屈指の紅葉の名所でもあります。
おすすめはやはり紅葉の季節ですね。本郭から少し下がったところにある郭も
足元に紅葉が敷き詰められていて、とてもきれいです。
すこし歩いていくと三州足助屋敷もあり一日楽しめる所です。

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しんちゃん

春に訪れたい伊奈本多氏の城 (2015/04/04 訪問)

15世紀中ごろ本多定忠・定助によって築城。天正18年(1590)本田康俊が
下総国小篠に移封されるまで百数十年、伊奈本多氏の居城であった。(現地案内板)
現在は規模は小さいが良さげな城址公園として市民の憩いの場になっている。
周囲を堀で囲み、本丸は数種類の桜で囲まれ、北側には高さ4mほどの土塁が残されている。
土塁には左右に階段が設けられているので危なげなく昇降できる。
本丸には模擬櫓もあって、なかなか良い雰囲気を醸し出している。(入れないが)
数種類の桜の開花時期が微妙に異なるので春になると幾度か訪れています。
こういった小ぶりな良さが地元民には有り難い。
桜の咲いている写真を載せたかったので写真は古いです。

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