しょばたじょう

勝幡城

愛知県稲沢市


旧国名 : 尾張

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織田信長生誕の城 (2026/03/26 訪問)

 何となく信長ゆかりの地に行きたくなって行って来ました。久しぶりの登城です。織田信長生誕の城で、永正年中(1504~1521)織田弾正忠信定(信長の祖父)によって築かれたと伝えられています。二重の堀に囲まれた館城でしたが、遺構はありません。石碑が日光川沿いに2カ所にあり織田弾正忠平朝臣信定古城蹟、勝幡城址とそれぞれ刻まれています。勝幡城祉の石碑の近くの説明板は新しくなっていました。また、この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていました。縁起が悪いという理由で織田信定もしくは信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれています。

 近くにある津島は伊勢と尾張をつなぐ湊として、また津島神社(津島牛頭天王社)の門前町として繁栄し「尾張の金銀はすべて津島を通る」と言われていました。織田氏はこの地を支配するようになり経済力をつけ、後に津島は「信長の台所」ともいわれるようになります。その後、地形も変わり今は湊としての機能はありませんが、説明板などで当時を知ることができます。津島神社は約1450年もの長い歴史を誇り、人々から疫病や厄除けの神様として親しまれてきました。「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称され、全国に3000余あるといわれる天王社の総本社です。戦国時代には織田氏は当社を氏神と仰いで経済的援助を行い、豊臣氏も織田氏に続いて社領を寄進したりしていました。現在の重要文化財指定の楼門は天正19年(1591年)豊臣秀吉公が寄進したもので、また南門は慶長3年(1598年)秀吉の病気平癒を祈願して秀頼より寄進されたものです。現在の御本殿は慶長10年(1605年)清洲城主であった松平忠吉公(家康の四男)の病弱を憂えた妻女政子の方が寄進しました。
 津島という商業都市が近くあったことが、織田信長の経済感覚を育てたのだと思います。

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しんちゃん

織田信長生誕の地という説もあり (2024/03/10 訪問)

勝幡城は織田信定が永正元年に築城したと伝えられています。東西約100m、南北約140mの平城で二重に堀を巡らし、さらにその外側四方に総構の堀があったそうです。信定の子、信秀(信長の父)は清洲城の三奉行の一家「織田弾正忠家」として勇名をはせ、尾張に勢力を伸ばし、西三河にまで進出していきました。織田氏はここから商業地・津島を治め経済力を蓄えており、近年では織田信長の生誕地と考えられているようです。

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小城小次郎

信長生誕の城なのだ (2023/04/15 訪問)

織田信長の祖父・信定が築いたとされ、信長が生まれた頃に信長の父・信秀がここにいたことがほぼ確定して信長生誕の地としてほぼ認定されたが中心部分は河川掘削で消滅。ただ現地の勝幡城愛はすばらしく至る所に道案内がある。

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ぴーかる

勝幡城 (2023/07/22 訪問)

【勝幡城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾15城目。勝幡城の築城は永正年間(1504~1521年)に織田信定(信長の祖父)によって築城されたとされます。織田信長はここで生誕し父織田信秀が今川氏の那古屋城を奪ったのちは父と共に那古屋城に移ったされるのが有力な説になっています。信秀はここに家臣の城代を置いていましたが拠点が清洲城に移った頃から城は次第に衰退していったようです。
 現在遺構は残っておらず城跡碑が「勝幡城址」と「勝幡城跡織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の2か所あります。御城印の販売している稲沢市観光協会に行ったら土日お休みで、もう1か所5月に行った小木江城跡近くの愛沢市観光協会に行って購入⇒2か所の城跡碑⇒名鉄勝幡駅前の勝幡城模型・銅像を撮影した。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 織田信定
築城年 永正年間(1504〜1521)
主な城主 織田氏、武藤氏
廃城年 天文7年(1538)?
遺構 消滅
指定文化財 市史跡(勝幡城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県稲沢市平和町六輪字城之内(地図は石碑の場所を示す)
問い合わせ先 稲沢市役所生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0587-32-1111