いちじょうじじょう

一乗寺城

富山県小矢部市

別名 : 一乗寺堡、一条寺城、一乗之城、蟹田一乗城、横根城
旧国名 : 越中

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登城道 城址碑
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しんちゃん

それほど広くないが縄張りの完成度は高いようだ。 (2021/11/19 訪問)

一乗寺城は近くまで林道が続いていてアクセスは企画的容易です。城跡は林道の北側に
位置していて、最高所の主郭を中心に周囲に郭が配されています。
主郭の東にも段階状に郭が続き屈曲した入口がついているようです。
主郭より西に二の郭、三の郭(二の郭)と続き四の郭(西郭)は周囲を土塁で囲まれています。
四の郭の北側には枡形の虎口があり、四の郭の西側にも大きな堀切があるようです。
いささか記憶も薄れかかっているので、城郭大系や他のサイトの縄張り図もいくつか
参考にさせていただきました。ありがとうございます。
一乗寺城の初見は南北朝期の応安2年(1369)に桃井直常の籠る一乗之城を幕府方が攻めて
落城させたことになります。戦国期には佐々成政の将、杉山小助がここを守ったとあります。
現在の高度な縄張りもその際に改修を受けたものだと思います。

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キンヤ

越中の佐々成政が国境を守るために改修したテクニカルな城 (2022/11/20 訪問)

1584年、越中の佐々成政と加賀の前田利家が対立した際、佐々成政が改修し、杉山小助が守ったとされます。
城の西側から南側には街道の田近道が通ってます。

加賀側の西曲輪(三ノ丸ともされる)の西側下には巨大な堀切があり切岸も高く圧巻です。西曲輪の折れた土塁や櫓台から横矢が効いています。
西曲輪の北側の登城ルートはスロープ状から折れて西曲輪や櫓台から横矢が効いており、更に枡形虎口があり巧妙です。
西曲輪・主郭間の曲輪(ニノ丸ともされる)の虎口も枡形状の折れがあります。
大手とされる東側の登城ルートは枡形状や竪土塁で何度も複雑に折れがあります。

遺構がしっかり残され見所が多く、テクニカルな縄張りで、佐々成政の築城技術が凄いと思う山城でした。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:一乗寺城 (2022/07/30 訪問)

松根城からの転戦です。石碑前空スペース(36.637319、136.801241)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1369年(応安2年・正平24年)室町幕府に反抗した桃井直常方の軍勢が立て籠もっていた一乗之城を、幕府方の吉見氏が攻め落としたことが知られています。
1584年(天正12年)佐々成政が前田利家に対する備えとして、家臣杉山小助を配置して越中国源氏ヶ峰城、加賀国松根城、加賀国荒山城 (金沢市荒山)などと共に大改修を施しました。
1584年(天正12年)佐々成政は一乗寺城から「田近道」を通って加賀国朝日山城へと攻め込むも撃退され、末森城の戦いの後には、逆に朝日山城に拠っていた利家の重臣・村井長頼に攻められ落城しました。
村井長頼は後に、同じく攻略した加賀国松根城を本城とし一乗寺城を支城として管理しましたが、前田家が加賀国と越中国を治めてしまっている為に軍事的価値が無く、さほど時を置かずして廃城となったようです。

遊歩道が設けられています。主郭は山頂にあり、西側に向かって二の丸、三の丸と土橋を残して南北に空堀があります。
四郭北側の堀切は大きく、城塁はとても登れません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=源氏ヶ嶺城に向かいます。

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todo94

国境の城 (2016/04/09 訪問)

加越国境の城です。土塁、空堀、虎口などの遺構が残ります。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 丹羽吉左衛門
築城年 正平年間(1346〜1370)
主な改修者 杉山小助
主な城主 桃井氏、杉山氏、村井氏(前田氏家臣)
廃城年 天正12年(1584)以降
遺構 曲輪、土塁、堀切、切岸、枡形虎口
指定文化財 市史跡(一乗寺城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 富山県小矢部市八伏/石川県河北郡津幡町
問い合わせ先 小矢部市教育委員会文化スポーツ課
問い合わせ先電話番号 0766-67-1760