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赤い城

茨城県の城振り返り

朝田さん、にのまるさん、
クイズの回答ありがとうございます。
筑波山を望める整備された城、真壁城でもちろん正解です。
皆さんには失礼な問題でした。
にのまるさんのクイズですが拡大して標識の文字を確認しようとしましたが読めず。
街中にある黒い天守のシュッとした城、松本城でしょうか?
全く自信はありませんが間違っても笑い飛ばす感じで。

さて、茨城県の振り返りです。
先日も書きましたが近年調査や整備が進んでいるようです。
常陸なので佐竹氏メインとなりますが北部は那須氏や岩城氏に備えた山城が多く、最近発見された城もあります。
常陸大宮市の美和地区の城、高部館や檜沢城など未登録ですが駐車場も完備、整備されて見やすいです。
中でもおすすめは常陸太田市の久米城、地元の管理人さんが10年以上かけて整備されています。
ここは是非行って欲しい。
茨城県は平地が多いので基本的に深く掘った城も多いです。
小幡城が代表格ですかね。
見川城や河和田城、木原城もこれに当たるでしょうか。
南方三十三館の城たちもこれにあたり、攻めるよりは呼び出して殺しちゃう戦略は当時としては効率的であることも納得できます。
島崎城や中居城、鹿嶋城、他にも未登録の山田城など。
北関東3県は城好きにとっては魅力度の高い素敵なエリアだと思います。
それでは茶色とV字の写真集をどうぞ。

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ゆき

障子堀 (2023/05/03 訪問)

圧巻でした!

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侍ホリタン

2023年春桜の名城を訪ねて12 (2023/05/04 訪問)

桜本数250種類1万本、日本さくら名所100選に選ばれています。私が訪問した時には遅咲きの桜が満開でした。令和5年4月22日から5月7日まで桜まつりが行われています。松前城は異国船からの海防強化のために江戸幕府が松前氏に命じて造らせた城です。居城の福山館を拡張する形で築城されて1854年完成、三層の天守を持ち日本で最後に造られた日本式城郭となりました。国宝に指定されていましたが昭和24年に焼失、現在の天守は昭和36年に資料館として建てられたものです。戊辰戦争の一つ函館戦争では、旧幕府軍に攻められ短期間で落城しています。元々海かの攻めを想定していた為、陸からの攻めには弱かったと考えられています。しかしながら翌年には新政府軍により奪還されています。

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アイナサハリン

しろいし (2023/05/04 訪問)

近くにあるミュージアムシアターは見た方がいいです。

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ゆいと

壊された置塩城 (2023/04/30 訪問)

置塩城は秀吉に壊されてしまいました。しかし、本丸跡からの景色は素晴らしいです。でも備中松山城は本丸(天守)が残っていて置塩城の本丸跡の大きさと似ていました。しかし、置塩城が壊されたのは歴史なので歴史を変えることはできません。でも山城は本丸が残っているのが1つだからこそ楽しいのです。

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三浦の晃ちゃん

中世の姿が復元 (2023/05/03 訪問)

江戸時代の姿を復元しているお城は、だいぶ見ているのですが、中世の姿を復元しているお城は久しぶりに訪問しました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:矢沢城(城びと未登録 長野県上田市) (2023/04/19 訪問)

車は矢沢城跡公園駐車場(36.413368、138.308029)にそのまま置いて、矢沢陣屋(城びと未登録 長野県上田市)から徒歩で公園入口案内板付近(36.412590、138.308750)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、矢沢氏によって築かれたと云われています。

戦国時代には真田頼昌の三男で幸隆の弟である頼綱(はじめ綱頼)が矢沢家の養子となって家督を継いでいます。
矢沢氏は武田氏に従い、やがて真田昌幸が真田家の家督を継ぐ頃になると真田氏を補佐し、やがてその重臣となっていきます。
1583年(天正11年)矢沢頼綱は真田昌幸から沼田城代に任ぜられ、北条氏から沼田領を守り抜きました。
頼綱の子頼幸は真田信幸が沼田へ入部するとこれに仕え、上野国猿ヶ京城代となっている。

現在は公園として整備されています。
堀切、石積、帯曲輪を見ることができます。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=真田氏館に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:矢沢陣屋(城びと未登録 長野県上田市) (2023/04/19 訪問)

上田城から転戦。矢沢城跡公園駐車場(36.413368、138.308029)に駐車しました。

1669年(寛文9年)上田藩二代藩主仙石政俊が隠居したとき、弟政勝に二千石を分与しました。
これによって仙石政勝は旗本となり、知行地の矢沢に館を構えます。
政勝は旗本として江戸に居たことから、この地は代官を置いて管理しました。
上田藩仙石氏は、三代政明のときに但馬国出石へ転封となりますが、この旗本仙石氏は明治まで代々続いているようです。

別名=矢沢仙石氏館と云います。
現在、個人宅となっていますが、石垣や隅櫓風の蔵があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=矢沢城(城びと未登録 長野県上田市)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:上田城 (2023/04/19 訪問)

上田藩主居館(城びと未登録 長野県上田市)から転戦。上田城城門前(36.403159、138.245118)に着きました。

上田城は4回目の攻城になります。
①2017/04/08 クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/06/24 電車&レンタサイクルを使って日帰りで、富士見城/小諸城/龍岡城や田口城などを一人で巡りました。
③2020/10/13 自宅(千葉県)から車を使って妻と二人での攻城。
④2023/04/19(今回) (長野県&岐阜県城巡り)一人での攻城。

真田昌幸と黒田官兵衛が好きなおじさんにとって何度攻城してもいいお城です。
朝早く、霧がかかっているので、写真は見ずらいかもしれません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=矢沢陣屋(城びと未登録 長野県上田市)に向かう前にホテルに戻って朝食をとります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:上田藩主居館(城びと未登録 長野県上田市) (2023/04/19 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に歩いて、上田高校門前(36.400657、138.249675)に向かいました。

1601年(慶長6年)真田信之によって築かれました。
信之は破却された上田城を修築することなく、三の丸であったこの地に居館を築き上田の所領を統括しました。
以降、上田城主となった仙石氏や松平氏の藩主もこの地を居館とし、明治まで続きました。

現在の上田高校の敷地になっています。
東側一帯に堀や土塁が残っています。また東門や土塀も現存する建物です。
朝早く、霧がかかっているので、写真は見ずらいかもしれません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上田城に向かいました。

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todo94

2023年度最初の攻城 (2023/04/01 訪問)

ホテルの朝食をいただきチェックアウトした後、浜松城に赴く前に朝駆けしてまいりました。ここが2023年度最初の攻城の地となりました。

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ゆいと

備中高松城水攻め (2023/05/03 訪問)

1582年4月に備中高松城の戦いが始まりました。秀吉側の戦法は水攻めに決定しました。6月に秀吉側に本能寺で信長が死んだという知らせが来ました。秀吉は毛利側に信長が死んだことがバレないように仲直りの条件を出しました。それは城主が切腹するという条件でした。そして城主の清水宗治が切腹をしました。そのあとに備中高松城は水攻めをされたのでくずれ落ちてしてしまいました。それで今のすがたで残って続日本100名城にえらばれました。毛利軍は5000人、織田軍は3万人という兵力の差でした。

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ゆいと

もったいない城 (2023/05/03 訪問)

津山城は戦争時(第二次世界大戦)に天守閣が取り壊されました。それは昭和20年8月でした。戦争(第二次世界大戦)の終戦の月でした。取り壊された理由は目立ってここがまちの大きいところだとバレてしまうからです。しかしもう津山は攻撃されないので僕は津山城を取り壊したのをもったいないと思いました。

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美夢

【かるた】飫肥城の読み札


大手門 杉が自慢の 飫肥城跡

読み札のみの投稿です
飫肥城で再現された大手門には、飫肥杉が使用されています
樹脂が多く、腐りにくく、軽くて白アリにも強い
江戸時代から伊東氏が植林をし、船の材料として出荷し藩の財政を支え
現在でも宮崎県は杉の生産量日本一だそうです

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ゆいと

現存天守12城の1つ (2023/05/03 訪問)

備中松山城は山城で唯一天守閣が残っている城です。この城が残っているおかげで山城がどんなに大きいか分かりました。他にも天守閣が残っている素晴らしい城を観光しに行きたいと思います。

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華日和

山城があったなんて知らなかった (2023/05/03 訪問)

御城印が500枚限定で販売。地元の高校書道部の生徒さんが書いてくれたとのことでした。和紙で作られたおしゃれなデザインです。御城印をきっかけに、近所なのに知らなかったこの山城へ行ってみました。
駐車場はないけれど、近くにパーキングエリアの駐車場があるので、お店でシラス丼やカツオ丼、ソフトクリームなど美味しく頂き、トイレも寄ったりして。
石脇城址への入口は2箇所。ここから?って思う所から入っていけるのでドキドキします。
一番上まで上がると大日堂があります。一の曲輪の大土塁辺りから北側をよく眺めると、山の向こうに花沢城の旗がヒラヒラしているのが見えました!感動!
石脇浅間神社には徳川家康の逸話が残る旗掛け石があり、ついでに寄って来ることができます。

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ゆいと

もし備中高松城の戦いがなかったら (2023/05/03 訪問)

備中高松城はたくさんの歴史や跡などが残っていて素晴らしい城だと分かりました。もし備中高松城の戦いがなかったら今の時代にもある天守として素晴らしい見た目の城だったと思います。備中高松城跡には公園があってそこの広さが天守閣跡なのできっと大きい城だと思います。もしかしたら姫路城と備中高松城が世界文化遺産だったかもしれません。

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にのまる

高野街道の先に。 (2023/03/05 訪問)

千早城から下山後、河内長野駅から高野街道を歩いて向かいました。
登城口はいくつかありますが、古墳広場へ通じる長尾根の道を枯れ葉を踏みしめながら上がってみました。
古墳広場からさらに尾根道を進むと、やがて現れたのは想像をはるかに超えるダイナミックな土の芸術。浅学ながら関西圏の城郭のイメージとはかけ離れており、まさかの邂逅に心も躍り、どこからどう見てまわろうかとプチパニック状態に陥りました。
惚れ惚れするような大土塁に堀切、横堀。整然と並ぶ建物跡の礎石。横堀の角に設けられた堀内障壁は想像力を必要としましたが、パーツの一つ一つが大胆明瞭で魅力的。特別大きな城郭ではありませんが、実際の規模以上のスケールを感じました。公園整備がなされており歩きやすく見学しやすいこと、動物に出会う心配のないこともあってなかなか離れがたく、全体像を頭に描きながら1時間半ほど同じ場所をぐるぐるとまわって楽しんできました。
帰りは駐車場側の出入口に下って駅へ向かいがてら烏帽子形八幡神社へ。こちらも登城口のひとつとなっています。ここで出会ったのが「楠公武威の松」(輪切り)です。湊川の戦いに出陣した楠木正成が武運を祈願して植えたとされる松の木で、残念ながら昭和9年の室戸台風で倒れてしまったそうですが、その木の一部が納められていました。

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にのまる

【かるた】千早城の読み札

・大軍を 寡兵で迎撃 千早城

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にのまる

【かるた】大阪城の読み札

・3代目 めざせ100歳 大阪城

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