かにえじょう

蟹江城

愛知県海部郡


旧国名 : 尾張

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🏯城好きのメガネ

「蟹江城」 (2020/03/21 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
蟹江城は1429年頃に北条時任が館を築いたのが始まりとされる。戦国時代には今川方の松平広忠によって落城した。その後、伊勢国の長島城主だった服部友貞の支配下に入り、織田信長に対する拠点として活用された。1570年頃には、滝川一益が入り大改修が行われ、伊勢侵攻や長島一向一揆鎮圧の拠点となる。小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、落城したとされる。現在、本丸井戸跡が遺されている。

<アクセス>
JR蟹江駅 徒歩10分

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カズサン

天正地震で壊滅した蟹江城 (2020/03/17 訪問)

 荒子城、前田城を終えて西に5、6km程の蟹江城に初登城。

 情報、ガイドは古城盛衰記さんグーグルマップで城跡場所と駐車可能場所を確認し蟹江町の産業文化会館及び中央公民館にナビを合わせて走行。
 車は産業文化会館北の駐車場を利用、西に水路を渡った大型の駐車場在り。

 駐車後グーグルマップ、スマホマップを頼りに直接蟹江城址公園を探訪、公園に大型の蟹江城名石碑、案内板、西の蟹江川方向に本丸井戸現存、案内板、案内板によると小牧長久手合戦の中で蟹江合戦の説明、天正13年の天正地震で蟹江城壊滅、往時は海岸線も近く蟹江川沿いで地震による液状化現象か津波かに依り甚大な被害だったのでしょう、遺跡は井戸のみ他は市街化の波にのまれています。

 探訪後歴史民俗資料館を訪ねましたが中央公民館と合わせて今回の武漢コロナで3月末まで休館、しかし産業文化会館玄関の受付前に蟹江合戦の資料展示あり合わせて配布資料も置いて有りました、蟹江城址公園案内図も有り先に産業文化会館に寄り案内図をゲットする事をお勧めします、私は案内図を見て井戸の存在を知り二往復しました。
 産業文化会館は屋上階櫓風に成って居り現在の蟹江城なのでしょう。

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橋吉

蟹江城 (2011/01/22 訪問)

蟹江城へ行ってきました。
場所は名古屋の西、海部郡蟹江町のほぼ真ん中です(現地案内板です)。

予習のため、まずは蟹江町歴史民俗資料館へ行きました。
ちなみに、ここの住所は愛知県海部郡蟹江町城です。

同じ建物に、産業文化会館と中央公民館分館が同居しています。
最上部が城を意識したデザインになっています。
資料館は、入場無料でした。

ここでの、予習した成果を紹介します。

現在では、内陸となっているこのあたりですが、戦国時代は海岸線でした。
したがって、桑名(伊勢国)あたりからの攻めに対する防御のために、永享年間(1429~1441)に北条時任が築いたそうです。

この城が脚光を浴びたのは、1584年(天正14年)の蟹江合戦の舞台となったときです。
小牧長久手の戦いで、徳川家康に大敗を喫した羽柴秀吉は、その雪辱と伊勢湾の制海権、そして織田信雄と家康の間を離反させるために挙兵いたしました。
滝川一益を主将に九鬼水軍を伴いいったんは優勢に進んだのですが、支城である大野城(尾張国海東郡)主の山口重政は助力を拒み、織田徳川連合軍の反撃の前に、秀吉は撤退を余儀なくされます。
こうして、秀吉と家康の表だった戦いは終焉を迎えました。

資料館では、蟹江城への道順を記したプリントを配布しています。
路地のような細い道を歩いて数分です。

住宅地の一角に石碑が建っているだけでした。
唯一、本丸の井戸が残っていました。
おそらく、最近まで使っていたのではないでしょうか。
それでなければ、じゃまなので取り壊してしまいますよね。

小さな城の小さな戦いですが、蟹江合戦が後世に与えた影響は大きいです。

まずは、羽柴秀吉と徳川家康
この戦いを最後に軍事的な争いを避けました。
秀吉は得意な外交戦略に方針を変えました。
関白となり家康よりも上の立場となるとともに、妹の旭姫を嫁がせ、母の大政所まで人質に出し、懐柔をはかります。これには家康も折れて、豊臣の政権が樹立することとなりました。

滝川一益
蟹江城主の留守を預かっていた前田長定は、かねて羽柴方の滝川一益に通じており、一益軍を蟹江城へ招き入れてしまいます。
しかしながら、織田・徳川連合軍に包囲された一益は対抗できず、長定の首をはねて降伏
してしまいます。
かつては、織田家有数の武将と言われていましたが、本能寺の変のあたりから凋落し始めた一益にとってこの件は決定的打撃となりました。
「命惜しさに長定の首をはねた卑怯者」と誹られ、以降漂泊・餓死したと伝えられています。

佐治一成・お江
佐治家は、知多半島の大半を領した豪族です。
秀吉は佐治一成を懐柔しようと考え、お市の三女のお江との婚姻をまとめたようです。
しかし、一成は合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡において、家康に船を提供し、秀吉の怒りを買ってしまいます。
このため、お江は最初の夫と離縁させられてしまいました。

茶粥
米をほうじ茶または緑茶で炊いたものです。
調べてみると茶粥は奈良・京都・大阪・和歌山で見られる食文化で、北前船の影響で西日本の各地に広がったそうです。
ただし、私の知っている限り尾張にはこの文化が残っていません。
唯一、この蟹江町だけ存在するのです。
これは蟹江合戦の折、連合軍に包囲された場内では、水をくむことも米をとぐことも満足に出来ず苦肉の策として茶の湯に米を入れたのが始まりだそうです。

蟹江町歴史民俗資料館より

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蟹江合戦 (2019/08/17 訪問)

 JR蟹江駅から徒歩10分くらいです。小牧長久手の合戦のときに籠城戦がありました。蟹江の地名は河口から海岸線に蟹が多く住んでいたからついたという説があります。城址には碑と説明版があります。遺構は碑の近くの本丸井戸だけです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 北条時任
築城年 永享年間(1429〜1441)
主な城主 北条氏、滝川氏、佐久間氏
廃城年 天正12年(1584)
遺構 井戸
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城
問い合わせ先 蟹江町歴史民俗資料館
問い合わせ先電話番号 0567-95-3812