かにえじょう

蟹江城

愛知県海部郡


旧国名 : 尾張

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小城小次郎

滝川一益に始まり滝川一益に終わる? (2023/04/15 訪問)

服部党と本願寺をだまくらかして築城させて乗っ取ったという噂に始まり小牧長久手の戦いにおける蟹江城攻防戦に至るまでこのお城は滝川一益に始まって滝川一益に終わったと言っても過言ではないだろう。奇跡的に井戸だけが残る。

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ぴーかる

蟹江城 (2023/07/22 訪問)

【蟹江城】
<駐車場他>産業文化会館駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾ラスト17城目。蟹江城の築城年は定かではなく主に3つの説があるようで、
①蟹江城址碑文に「永享年間(1429~ 1440年)に北条時任が城塞を築いたのがはじまりとされる。」とあります。
②既に織田信長に仕えていた滝川一益が長島一向一揆で長島城に籠城していた旧知の武将、服部友定を騙して信長から長島を守るために本願寺に金を出させて築城し築城後に滝川一益が城主として入り騙し取ったとする。
③長島の戦い後に滝川一益が信長から恩賞として領地をもらい築城した。
この3つがあるようです。いずれにせよ戦国時代には滝川一益の城となり、一益は柴田勝家に味方して秀吉に敗れるのでその後織田信雄家臣の佐久間信栄の城となります。小牧長久手の戦いでは返り咲きを試みる秀吉方の滝川一益の調略で城を奪われ、家康・信雄軍が反撃総攻撃を仕掛けて(蟹江合戦)いる途中で小牧長久手合戦は和睦します。城は1586年の天正大地震で壊滅してそのまま廃城となったようです。

 現在城跡碑と城跡碑のある近くに本丸井戸跡、産業文化会館から隣接して民族歴史資料館に蟹江合戦の資料があります。城跡碑は城跡碑公園になっていて駐輪場もあり立派なちょこ城です。
 この城にて今回の旅終了、1日17城巡りは自己最多記録でしたが城跡碑ばかりで、どこがどの城だったか混同してしまう感じでした。小牧長久手の合戦に関係する城跡が多く、小牧長久手の合戦は尾張国北東の犬山城から最後の蟹江・大野城まで尾張国の国境全面にわたって展開されていた事が分かって勉強になりました。走行距離416㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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城好きのメガネ

「蟹江城」 (2020/03/21 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
蟹江城は1429年頃に北条時任が館を築いたのが始まりとされる。戦国時代には今川方の松平広忠によって落城した。その後、伊勢国の長島城主だった服部友貞の支配下に入り、織田信長に対する拠点として活用された。1570年頃には、滝川一益が入り大改修が行われ、伊勢侵攻や長島一向一揆鎮圧の拠点となる。小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、落城したとされる。現在、本丸井戸跡が遺されている。

<アクセス>
JR蟹江駅 徒歩10分

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カズサン

天正地震で壊滅した蟹江城 (2020/03/17 訪問)

 荒子城、前田城を終えて西に5、6km程の蟹江城に初登城。

 情報、ガイドは古城盛衰記さんグーグルマップで城跡場所と駐車可能場所を確認し蟹江町の産業文化会館及び中央公民館にナビを合わせて走行。
 車は産業文化会館北の駐車場を利用、西に水路を渡った大型の駐車場在り。

 駐車後グーグルマップ、スマホマップを頼りに直接蟹江城址公園を探訪、公園に大型の蟹江城名石碑、案内板、西の蟹江川方向に本丸井戸現存、案内板、案内板によると小牧長久手合戦の中で蟹江合戦の説明、天正13年の天正地震で蟹江城壊滅、往時は海岸線も近く蟹江川沿いで地震による液状化現象か津波かに依り甚大な被害だったのでしょう、遺跡は井戸のみ他は市街化の波にのまれています。

 探訪後歴史民俗資料館を訪ねましたが中央公民館と合わせて今回の武漢コロナで3月末まで休館、しかし産業文化会館玄関の受付前に蟹江合戦の資料展示あり合わせて配布資料も置いて有りました、蟹江城址公園案内図も有り先に産業文化会館に寄り案内図をゲットする事をお勧めします、私は案内図を見て井戸の存在を知り二往復しました。
 産業文化会館は屋上階櫓風に成って居り現在の蟹江城なのでしょう。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 北条時任
築城年 永享年間(1429〜1441)
主な城主 北条氏、滝川氏、佐久間氏
廃城年 天正12年(1584)
遺構 井戸
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城
問い合わせ先 蟹江町歴史民俗資料館
問い合わせ先電話番号 0567-95-3812