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朝田 辰兵衛

中野陣屋,高梨氏館まで来たなら…~鴨ヶ嶽城~ (2023/05/03 訪問)

中野陣屋,高梨氏館まで来たなら,ためらわず鴨ヶ嶽城までどうぞ。主郭に到着するとパネルがあり,さらに背後の堀切を超えると鎌ヶ嶽城まで行けます。鎌ヶ嶽城は整備の手が回っていない様子でした。主郭は石積みで方形に囲っていた模様。ところどころ痕跡が伺えます。せめて碑かパネルぐらい欲しかったです。

赤い城さんへ。
てっきり出雲と伺って「出雲市」と勘違いしておりました。また,大阪府内を散策されていましたので,さすがに四国の高松とは予想だにしませんでした。てっきり関西エリアかと…。
大変に失礼いたしました。
とても優秀な人材ということで,一本釣りで引き抜かれたのかな…という印象を受けました。
新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。
さて,四国は回るのが大変なイメージがつきまとっています。
高松からはとくに,宇和島城や河後森城は遠い気がします。
それでも,赤い城さんはクールにコンプリートしそうな予感…。

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10Q-Nobu

強引に来て良かった。 (2023/06/19 訪問)

別府旅行の帰り道、近くまで来たので、予定にない杵築城を訪れてみました。
オススメスポットは城下町らしいのですが、最寄り駅から結構距離があり、帰りの時間が迫っていたので天守だけでも見て行こうと向ったら、海に面した段丘に建つ天守が映えて何枚も写真撮ってしまいました。
城下町含め改めてゆったり見て回りたい城でした。

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todo94

天草の城① (2023/05/03 訪問)

ゴールデンウィーク後半の連休前夜は広島のネットカフェでの前泊。同じことを考えている人は多く、最後の1ブースに何とか潜り込んだ次第です。始発のさくらで熊本に向かい、レンタカーを借り受け天草へ。宇土半島から渋滞に巻き込まれてしまい、久玉城は断念しました。世界遺産の構成資産である崎津集落を散策した後、河内浦城へ。訪れる人は少なそうですが、しっかりと公園として整備されている城でした。麓には資料展示館があり、崇圓寺は館跡とのことです。富岡城が圧倒的な存在感を放つ天草の城ですが、河内浦城もおすすめです。

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トク

㊽【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎陣跡(藤堂高刑と湯浅五助)) (2022/12/01 訪問)

(19人目)「藤堂高虎」の続きです。
関ケ原の藤堂高虎陣跡と大谷吉継の墓を訪れてきました。

藤堂高虎は、脇坂・朽木・小川・赤座の4諸将を調略し、大谷吉継を追い込みました。しかし、ここで美しい話があったのでそれを御紹介します。

大谷吉継は「もはやこれまで」と最後に自刃します。その時、家臣の「湯浅五助」に介錯させ、「我の病み崩れたこの醜い顔を敵にさらしてはならぬ!」と命じて死にました。五助は山中をさまよい、ある場所に吉継の首を埋めます。その時、その場所を通りがかったのが高虎の甥「藤堂高刑(たかのり)」です。高刑は「それは吉継の首であろう」と問い正します。五助は吉継の言葉を伝え、「私の首と引き換えにここに埋めた事を秘してほしい」と頼みます。高刑は約束し五助の首を取りました。

高刑は五助の首を高虎に差し出し報告します。その詳細を高虎から聞いた家康は、高刑を呼び出し「吉継の首が埋められた場所を知っているであろう」と問い正しました。しかし、高刑は約束を守り頑として言いません。最後に家康は、言えば大手柄になるにもかかわらず、言わない高刑を褒め称え、自分の槍と太刀を与えたという秘話がありました。

しかしその15年後、高刑は大坂の陣で長宗我部盛親と戦い討死してしまいます(何と皮肉なものです)。今ある大谷吉継の墓は、その翌年の1616年に藤堂高虎によって首が埋められていた場所に建てられたものです。そしてその傍らには湯浅五助の墓もありました。これで五助は永遠にこの地で吉継に仕える事ができたのでした。高刑もあの世で安堵した事でしょう。

私は高虎の陣跡から吉継の陣跡へ行き、そして吉継の墓まで行く途中でだんだんと日が暮れてしまい、薄暗い不気味な山道を迷いながらも(だいぶ遠回りして)、歩いて何とかたどり着き(しかもその間、またまったく誰にも会わず)、そして着いた所にこの説明が書かれていたのを読んで、しばらく吉継と五助の墓の前で呆然とし、あまりにも美しい話だったのでちょと感動して座り込んで泣けてしまいました(歩き疲れと重なりしばらく動けなくなってしまいました(泣笑い😭))。

次は、高虎最後の居城「津城」へ続きます。
 

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しんちゃん

頭陀寺城② 出世城の出世魚、豊臣秀吉青春立志編 ※許可を得て掲載しています。 (2023/06/18 訪問)

浜松城付近のもう一つの出世城、頭陀寺城「重箱の隅編」です。
頭陀寺城の南東部は、かつて若き日の豊臣秀吉が奉公した松下氏の屋敷です。
公園のあたりには堀、土塁が築かれていたようですが、中心部はその東の
かっぱ寿司頭陀寺店になるようです。
昼食をとりに寄らせていただきましたが、せっかく天下人ゆかりの最初の城跡に
来たのだから、出世魚をいただこうと思います。
出生魚といえばスズキ、ハマチ‥やはりここはハマチで行きましょう。
後日、かっぱ寿司さんにお伺いしたところ、快く掲載をご了承いただきました。
ありがとうございます。
さてこのあたり、若き日の秀吉の怪しげな伝承地が残されています。
①鎌研池‥若き日の秀吉が鎌の切れ味を試すために葦の片葉ばかりを斬っているうちに
 池には片葉の葦ばかり生えるようになったと言います。遠州七不思議の一つとして
 語り継がれているそうです。
②目刺橋‥若き日の秀吉がメダカを松葉で狙って手裏剣の練習をしていたそうです。
 その後池には片眼のメダカが現れるようになったと言います。

 若き日の秀吉さん。あなたは忍者か妖術使いですか?
 秀吉が松下家を去った時の逸話は諸説ありますが、之綱からもらった金子を
 元手に行商をして尾張まで来て、信長に仕えたのかもしれません。
 松長之綱はのちに秀吉に取り立てられ1万6000石の所領を与えられます。
 そして秀吉が亡くなる5か月前に亡くなります。
 豊臣氏の衰退を見ずに亡くなったのは之綱さんにとっては幸いだったのではないでしょうか。
 
 

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しんちゃん

頭陀寺城① 頭陀寺、松下屋敷編 (2023/06/18 訪問)

頭陀寺はかつて天竜川下流にあった広大な「川匂荘」の現地荘官として
四十六所明神とともに荘園の中核を成していたと言います。
頭陀寺から南にかけ多くの塔頭寺院をかかえ、南東には土塁と堀を構えた
今川氏に仕える飯尾氏の寄子(与力のようなものだと思われる)、松下之綱の屋敷(館)もあり
このあたりを総称して頭陀寺城と呼んだそうです。
松下屋敷には木下藤吉郎(豊臣秀吉)が天文20年から3年にかけて
奉公していたと伝わり、周囲には藤吉郎ゆかりの地が残っています。
屋敷跡の石碑が建つ公園はおもに堀、土塁があったところで
うっすらとした高まりがかつての土塁を感じさせます。
土塁の右手がかつての屋敷跡の中心地になるようですが
いまは某有名回転ずしチェーン店が建っているようです。
まだおなかがすいていないので、浜松城へ行ってから寄ってみようかな。

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しんちゃん

浜松城② 浜松の元の城、引間城 椿姫(お田鶴)編 (2023/06/18 訪問)

引間城は徳川家康が浜松に侵攻してきた際に、浜松城を築くまで滞在した
浜松城の元の城で、浜松城が完成した後も城の一部として機能しました。
元は今川方、飯尾氏の城で、4代飯尾連龍(つらたつ)が家康との内通を疑われ
駿府で殺害されました。その後 妻のお田鶴の方が城主となり
家康と戦い討ち死にします。
このあたりはドラマでご覧になられた方が多いとは思いますが
他にも二人、有名な女城主がいますね。
井伊谷城の井伊直虎と岩村城の おつやの方(信長の伯母)ですが
城主として壮絶な討ち死にを遂げたのはお田鶴の方だけです。
正直、大河での最期は少しあっけなかった。個人的にはもっと大暴れしてほしかったですね。
お田鶴の方はそこから少し西へ行った椿姫観音に祀られています。 
  所在地‥静岡県 浜松市 中区元浜町 133
引馬城は今は元城町東照宮となり境内には若き日の徳川家康と木下藤吉郎(豊臣秀吉)の
銅像が立っています。家康31歳 藤吉郎16歳のころですが
このふたり下手をすると親子かそれ以上に歳の差を感じます。
東照宮の周囲を歩いてみると、なんと土塁らしきものが周囲を囲っています。
まさかこんな都市部の真ん中で土塁など残っているとも思えないのですが‥。
東照宮から浜松城の方へ少し下ると浜松に入城したときの家康の館のあとがあります。
まさに浜松城の重箱の隅的なスポットですが、なかなか味わい深いところです。
浜松城の元本丸跡に建つ大河ドラマ館にはお田鶴の方の展示も行われていますよ。

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しんちゃん

浜松城① 浜松城現代編 ※許可を得て掲載しています。 (2023/06/18 訪問)

浜松城はおなじみ徳川家康によって元亀元年(1570)に引馬城より改修をうけて
現在の形の基礎が出来ました。
1590年ごろに堀尾吉晴によって今の石垣の城に改修されました。
明治以降は三の丸、二の丸の宅地化が進行し
昭和33(1958)鉄筋コンクリートの天守が完成します。
当時の公費で1400万円のうち900万円が寄付で賄われています。
予算が足りなかったのか現在の天守はかつての2/3程度の大きさしかなく
二の丸から天守にリフトを通す時の工事で本丸は大きく削り取られています。
現在はリフトは無いのですが、ちょうどかつての本丸のあたりに
大河ドラマ館が公開されていて、かなりの賑わいを見せています。
浜松城の写真は許可をいただいて、掲載しております。
天守内部は基本写真撮影自由とのことです。


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ぴーかる

駒野城 (2023/05/03 訪問)

【駒野城】
<駐車場他>駐車場はなし。大橋農園たまご直売所に購入がてら駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅5城目。駒野城は正暦年間(990~995年)に瀬戸道明寺が初めて城を構えたされます。鎌倉時代には土岐氏の城となっていたが戦国時代斎藤道三の家臣高木氏に攻略され高木氏の居城となっていたとされます。その後高木氏は織田信長⇒織田信雄に仕えますが信雄改易後は美濃を退去します。関ヶ原合戦の時には西軍の池田伊予守秀氏が籠城していましたが徳永寿昌が攻めて開城させます。城はその後廃城となったようです。
 城跡は城山小学校となっており無断で入ることは出来ないので遠慮して外から見ただけにしました。

<満足度>◆◇◇

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10Q-Nobu

何か他のつかい方 (2023/06/18 訪問)

大分県庁のそばで広い面積を占める立派な城ですが、中に入るとほぼ駐車場になってました。 
高い天守台があるだけに、お城好きには少し残念。

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10Q-Nobu

今も街を護る城 (2023/06/18 訪問)

臼杵駅を降りるとすぐに大きな高台が見えてきて圧倒される。
かつては海によって隔たれた島を城にするロマンの塊のような臼杵城ですが、津波の際は近隣住民の避難場所になっており、登りやすいスロープが設置されている箇所もありました。
今は別の用途でも住民に必要とされ、残っていくのは良いですね。

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10Q-Nobu

やはり城 (2023/06/17 訪問)

新たな発掘調査で話題の吉野ヶ里へ行ってきました。新規展示は次週からなんですが。
環濠集落という分類で、城より遺跡、というイメージで行きましたが、中を見てみると中世城郭に通じる防御の造りが感じられ、城の分類に入れているのは間違いないんだと思いました。
また、北墳丘墓の発掘現場をそのまま展示する施設は一見の価値があるものでした。

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しんちゃん

幕府に言われて何とか作った台場だけど、これじゃ弾が届かない。 (2023/06/18 訪問)

米津台場は安政2年(1855)幕命により、浜松藩が武士や現地の農民を動員して
築かせた台場です。
米津浜に東・中・西の三基が築かれ、現在は中の高さ6mほどの高まりが残されています。
いまでは林が連なり、かつての雰囲気を醸し出していますが
中以外の土塁は削り取られています。
かつては高さ二十数メートルあったといいますが真偽のほどは定かではありません。
ただ当時の幕府には日本の広い沿岸部に完全な状態で砲台を設置するだけの
財力も工業力も無かったと思います。
現在の海岸線からはいささか離れていますが、当時も海岸線からは
けっこう距離があったようです。
現在の海岸線には津波対策で高さ15メートルの日本最大級の防潮堤が連なっていて
こちらの方がかつての台場のイメージに近いです。

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しんちゃん

シラス台地に築かれた独特の構造の城。兵は各城を死守するべし。 (2023/01/05 訪問)

知覧城は平安時代末期の郡司、知覧忠信によって築かれたと伝わります。
室町時代、足利尊氏の指示で島津氏三男、佐多忠光が城主となります。
城は11代当主の時代に謎の出火で焼け落ち、城としての機能を失っていたようです。
佐多氏は江戸時代に入ってからも、そのまま知覧を治め16代の時に島津性の使用を認められます。
知覧麓には国指定名所の武家屋敷庭園が多数あります。
佐多氏の私領であるはずですが代官所である知覧麓仮屋があります。
そのあたりの経緯も知りたいですね。
知覧城はシラス台地が雨による浸食で削られ各郭が完全に独立した構造になっています。
城域に入ってすぐに大堀切が通路の役割をしていて
本丸の西に蔵の城、本丸の南に今城、その西に弓場城と城の各郭がほぼ
完全に独立しています。本丸から蔵之城へ行くことはできるのですが
各郭同志の連携はほぼ不可能です。
城を構成する郭に城の名がついているのは薩摩の国の特徴ですが
援軍を期待せず、ここを死守しろという意味合いにも取れます。
死ぬまでここを守れということでしょうか。
薩摩藩各地に存在した麓の城は本城を守るために時間を稼ぐのが、
お役目だったのかもしれないですね。
さて、ここまできたら知覧特攻記念館に行かない手はありません。
私は登城前に訪問しました。
時間があったら国指定名勝の知覧麓もぜひ訪れてください。



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bono

大河効果か観光客が多かったように感じました

案内板や少し残る遺構も観ながら散策しました。甲斐の国が見渡せるいい場所です。

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赤い城

建物できてからお初 (2023/06/11 訪問)

常陸の城は沢山行きましたが水戸城は久しぶりです。
しかも大手門や隅櫓が復元されてからは未訪。
小幡城のあと訪問しました。
弘道館の駐車場に車を置き、まずは大手門へ。
立派な門でした。
奥の二の丸にある水戸二中には土塁が残ります。
安心してください、入ってませんよ。
また、小学校と女子高の間の道を進むと復元された隅櫓にたどり着きます。
この日は日曜なので気楽でしたが平日はハードル高いかも?
二の丸と本丸の間の堀はお馴染みの水郡線。
この日も列車は通りませんでした。
本丸の水戸一高は進学校だそうです。
薬医門のほか土塁も見ることができます。
徳川の城ですが佐竹のテイストもよく残っていました。
三の丸の空堀や土塁も整備されています。
時間があれば街中遺構ハントもしたい広域にわたる城です。
水戸市も観光資源として力を入れてそうなので今後にも期待です。
でもやり過ぎないでね。

朝田さん、コメントありがとうございます。
高松への移住初転勤ではなくって転職なんです。
役職定年を機に思い切りました。
地元も出雲市ではなく奥出雲町、さすがに仕事はありません(城で言うと三沢城)。
縁の無い地ではありますが瀬戸内の城のレポートをしていきたいです。
心残りは伊豆大島ですが登城の機会を伺っています!


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ぎりょう

調査の結果は性格不明の館跡 (2023/06/11 訪問)

紫波町からの帰路、奥州市衣川の接待館跡に立ち寄りました。ここは平成22年2月に国指定史跡「柳之御所・平泉遺跡群」としてに追加指定されています。この館には過去に二度来ているのですが、遺構の再確認をと思い立ち寄りました。この地はかつては仙台藩領であり、藩の官選地誌『風土記御用書出』には安永6(1777)年、膽澤郡下膽澤下衣川村の古館の項に「セツタヤ(接待)館 東西三拾壹間 東西六拾四間 秀衡朝臣御母公居館之由申傳候當時畑ニ罷成居候事」と記載されています。平泉藤原氏三代秀衡の母の館であったと伝わり、安永6年当時は畑地となっていたようです。
奥州市教育委員会のパンフを参考にすれば、館は中尊寺の北の衣川の対岸に位置し、東西120m、南北65mの楕円形、河に向ってコの字型に堀で区画された平場で構成され、さらにその中ほどには東西40m、南北20mの溝で囲まれた曲輪がある。堀跡、溝跡からは12世紀後半のかわらけが大量に出土しており、儀礼や宴会が行われた場所であることが判っています。また発掘調査の結果区画外の東側には12世紀の四面庇の掘立柱建物跡が1棟確認されていますが、区画内部には建物跡や井戸跡は無いことから、「館の可能性は低い」とのこと。しかし残された遺構を見れば、館の南側は衣川で、北、東、西側は柳之御所に匹敵する規模の堀、土塁で防御しており館の要件は充分満たしていると感じます。
近隣には平泉藤原氏以前の安倍氏に関連する史跡もあることから、安倍氏の政庁跡、また源義経が自害した藤原基成の屋敷「衣川館」の可能性も指摘されているようです。
この日は館跡に立ち、南の中尊寺の山を見ながら、平泉前史に想像をめぐらせることが出来ました。奥州平泉の遺跡群を訪問される機会があればぜひ立ち寄っていただきたいと考えます。
東北自動車道 平泉前沢ICより5分、平泉スマートICからは25分。

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朝田 辰兵衛

中野陣屋から徒歩圏内。 (2023/05/03 訪問)

高梨氏館は公園として地元住民に親しまれているようでした。うれしい反面,撮影タイミングには苦慮しました…<苦笑>。

おぉっ,赤い城さん,転勤ですか?
お互いの年代からすると,単身赴任?
先日のにのまるさんの「松江城クイズ」で,ご出身が出雲市と伺いましたので,ほぼ中間地点という中途半端な感があります。
どっちへ行くにも遠いという…。
新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。
今後は「石垣」にも進化をとげるのでは…と推察します。

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むらひろ

茅ヶ崎城 (2023/06/18 訪問)

住宅街の中に突如現れる大きな公園で、良好に遺構が残っており保存されている印象

個人的には解説版がとても見やすく、整備もされているのでとても楽しく散策できた

時期的にも気が生い茂っていて城から周りの眺めを確認できなかったのは少し残念

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ぴーかる

津屋城 (2023/05/03 訪問)

【津屋城】
<駐車場他>本慶寺駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅4城目。津屋城の築城年代は定かではないが、現地説明板によると関ヶ原の戦いの時の城主は高木八郎左衛門正家の居城であったが、縁者の高須城主高木盛兼と共に西軍に従ったため東軍の攻撃を受けて落城しました。1603年に美濃高須藩領主の徳永寿昌の許しを得て移された本慶寺となりました。
 本堂のある辺りが二の曲輪だったようです。山門の長屋門は当時の城門を転用したものと伝えられています。南側から西側にかけて空堀がありますが見落としました。

<満足度>◆◇◇

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