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直江兼続 (2023/05/05 訪問)

 上杉景勝の重臣直江兼続の居城です。直江氏は本与板城を拠点としていましたが、信綱の時代に与板城に移したと考えられています。
八坂神社の裏から登城したのですが、道は概ね整備されていて主な場所は歩きやすいと思います。誤算は実城(本丸)が立入禁止となっていたことです。後で長岡市のHPを確認すると
「頂上実城跡地の「城の一本杉」に倒木の危険があるため、令和5年3月13日(月)より、安全を第一に考え実城跡の城山稲荷神社周辺を立ち入り禁止にさせていただいておりますが、管理者の申し出により、安全確保のため城の一本杉を伐採いたしますので、ご理解いただきますようお願いします。伐採作業は5月8日(月)より5月12日(金)までを予定しております。」
と書いてありました。事前に確認していなかったので少しショックでした。
ただ、この城の魅力は実城を越えた後にあります。実城、二の丸、三の丸の間にある堀切、その後も千人溜まで尾根に堀切があります。千人溜前の大堀切は広すぎで私のカメラでは収まりません。三の丸の東側にも曲輪が展開していて先には堀切を見ることができますが、藪と倒木で少し難渋しました。おせん清水も藪になっていてわかりにくい状況でした。季節的なこもあるかもしれませんが、諸先輩の方々の写真と比べると全体的に藪や倒木が多くなっていることがわかります。大河ドラマ「天地人」の放送から時間が経過したこともあるのでしょうね。のろし山へは思っていたより時間がかかりそうでしたので行っていません。
実城に入れなかったのは残念でしたが、全体としては遺構がよく残っていて見ごたえがありました。

本与板城より徒歩にて登城口へ行きました。

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直江景綱 (2023/05/05 訪問)

 上杉謙信の重臣直江景綱の居城です。
登城口から主郭までは道も整備され歩きやすいのですが、他の方も述べられているようにそこからは倒木や藪になっている場所もあり少々難渋します。堀切がよく残っていて見ごたえがあります。南郭の先にも堀切があるのですが、やはりわかりにくくなっていました。何とか辿り着きましたが倒木等にてやはりわかりにくくなっていました。倒木や藪が多いのですが、遺構はそれなりに残っていて見ごたえはあります。
 JR長岡駅前からバスに乗り与板警察署前にて下車。徒歩10分くらいで登城口に行くことができます。

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シャンシャン

新城カードGET! (2023/05/06 訪問)

新発売になった城カードの天守バージョンを目当てに福山城へ。
福山城は既に伏見櫓バージョンが出ていたので、まさか2枚目が出るとは!!
天守閣最上階で、先日ご当地珍百景で1位を取っていた極小福山城もしっかり確認。

その後、駅の逆側の天満屋でやっていた「遊べる水族園」へ。
最後に生まれて初めてカブトガニやタカアシガニに触ることができて、童心に返ってこちらも大満足!

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ヒロケン

江戸城の門1 (2023/04/29 訪問)

今回は、江戸城の門を訪問した順に紹介させていただきます。(今更なんだと思われる先輩方が多いと思いますが、自分の自己満と思いさらっとお流しください)
1、田安門 田安門は、江戸城の北部に位置し、現存する門の中では最古の門です。御三卿の一家、田安家があったことから命名されています。(重要文化財)
2、清水門 浅野長昭公が建立した枡形形式の門で、田安門同様、御三卿の一家、清水家があったことから命名されています。
3、北ハネ橋門 北ハネ橋門は現在、高麗門のみで、平川濠と乾濠を隔てる門で、濠に架けられていた橋は、平常時にははね上げられており、緊急時にのみ使用されていたとされています。現在は、天守台に最も近く北の丸駐車場に駐車された方は、ここから天守台に向かわれています。(開門時間は9:00です)
4、乾門 江戸城の西の丸の裏門を明治宮殿造営に際して、現在の位置に移し、皇居の通用門としたのがこの門です。
5、半蔵門 半蔵門は伊賀忍者で有名な服部半蔵の組屋敷があったところでこの名が付けられました。この半蔵門から、桜田門にかけての桜田濠は、もっとも美しく、彼岸花の名所として有名です。
6、桜田門 桜田門は、高麗門と枡形と渡櫓門を備えた門で、「桜田門外の変」で水戸・薩摩藩浪士が、井伊直弼公を襲撃した場所で有名です。(重要文化財)
今回も、8日と29日の画像を織り交ぜて紹介いたします。残り5門は次回、紹介させていただきます。

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肉球

市田陣屋・長野県高森町 (2023/04/28 訪問)

奥州白河藩阿部氏の出張陣屋です。
標柱によりますと
五十間四方の規模で1846年から1868年まで13800石の
支配のため代官を派遣したようです。
跡地には僅かな石垣が残されていますが
草で覆われていて確認しにくかったです。

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肉球

4度目の散策 (2023/04/28 訪問)

ほとんど市街地化されていますが所々に遺構が点在しています。
市役所の向かいにある駐車場に車を停め散策しました。
こちらは2時間まで無料でした。
桜丸御門・水の手門跡・本丸・移築された二の丸御門は
行くたびに見学してましたが
今回初は柳田家門・家老黒須家門・移築脇坂門・正永寺と柏心寺の総構え遺構でした。
柳田家門は柳田國男が養子に入った旧飯田藩士柳田家の門。
こちらは門だけが残されています。
脇坂門は二の丸跡に建つ美術館付近にあったものを
旧飯田測候所に移築されています。
仲の町付近は武家屋敷が建ち並んでいたようで
家老黒須家の門が残されています。



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二つの黒田城 丘城と山城 (2023/05/05 訪問)

城びと先人が、山城の存在に触れつつも、丘城の方だけの訪問をレポートされています。また、山城への登山道も全く未整備と認識されていましたが、その後、整備された模様です。
丘城には、西側の鳥居列からアプローチするのが最短ですが、南から東麓を北側に回り込む道を採りました(古城盛衰記さんアプローチを倣い)。丘に登り始める前に、山側の獣対策のフェンス沿いに説明板があるのが目に入り、近づいてみると、山城への誘いではありませんか(写真④)。比高200mは良いにしても、移動距離が1108m😞。この日、黒田城は、最後に持ってきて、楽にこなすつもりで既に16時半。だが、知ってしまったので、登ることにしました。50m毎に官兵衛君が道と残り距離を示してくれます。ただし、山の上の方になると風で飛ばされ気味です。
だいぶ登ったところの平削地に説明板があります。平削地は尾根に沿ってけっこう長いです。更に行くと物見台の標柱があります。物見台の先は少し下りますが、最高所の天狗山山頂はまだ先です。
一時間程で往復し、丘城の黒田城も見学して本日の予定を終了しました。付近の山城はどれも、比高もさることながら、移動距離が長く攻略に時間がかかりました。

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宇佐美定満 (2023/05/04 訪問)

 上杉謙信の重臣宇佐美氏の居城です。遺構は残っていないと思われます。県立柏崎総合高等学校敷地が主な跡地で石碑と標柱、案内板がありました。学校敷地内ですが見学はできます。鵜川神社付近から鵜川の堤防へ出ると何カ所か案内標識があり校内にほとんど入ることなく石碑まで行くことができました。

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安田景元 (2023/05/04 訪問)

 越後毛利氏の一族である安田氏の居城です。JR安田駅から徒歩約10分で城址へ行くことができます。現在は公園として整備されていますが、概ね縄張りは確認できます。

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ぴーかる

惣領砦 (2023/04/01 訪問)

【惣領砦】
<駐車場他>惣領砦登山口駐車場10台程度
<交通手段>車

<見所>堀切・尾根曲輪
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅5城目。惣領砦は加賀の在地領主であった狩野氏によるもので、加賀の一向一揆から落ち延びてこの越中国氷見に定住した1488年以降に築城したと思われます。氷見の南部を支配して詰城の鞍骨山城(城びと未登録)・惣領砦(城びと登録城)を築いて拠点としていました。狩野氏は守護代の神保氏に仕えていたようで、その後は佐々成政に仕え秀吉が越中国に攻め込んでいた時に落城しその後廃城となったようです。
 登城口から遊歩道が続いていますので難なく登城できます。最初にある四阿から曲輪になっておりその先から堀切が続きます。三角点のある最高所に少し狭い曲輪と堀切を隔てて西隣に最高所の曲輪よりやや広い曲輪があります。この2つの曲輪が主要部で砦なので明確な主郭は設けなかったかとも考えられます。そこから北西方向に尾根曲輪と堀切が続いています。最北西側の四阿のある場所も敵が来るであろう東側が一望できるので物見曲輪であったろうと思います。そこから飯久保城も見えますので連携していた様子も分かります。

<満足度>◆◆◇

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北条高広 (2023/05/04 訪問)

 大江広元の子、毛利季光を祖先に持つ越後毛利氏の庶流と伝わる北条氏の城です。尾根に曲輪を展開している縄張りで、堀切で防御力を高めています。専称寺より登城しました。比較的なだらかな整備された坂道で主郭まで行くことができます。曲輪、堀切、竪堀、土塁等を見ることができます。主郭の北側にある詰郭との間にある大堀切は幅も深さも見ごたえがありますが、行く道が藪になっていたり倒木があったりして少し苦労しました。普広寺方面へ下りる予定でしたが、馬つなぎ馬場付近にある畝状竪堀を見ていないことに気づき専称寺方面へ引き返しました。確かに畝状竪堀と思われる地形はありましたが、藪になっていて見づらい状態でした。そのまま専称寺へ下山しました。専称寺の山門は北条城の大手門、普広寺の山門は搦手門と伝わっています。専称寺へ下山したため搦手門を見ることを忘れてしまいました。倒木等もあり藪になっている所もあり見学に難渋するところもありましたが、遺構はよく残っていていい城址だと思います。

 上杉謙信の重臣である謀反を起こしたこともある北条高広には以前から興味があり、以前から行ってみたかった城址です。
JR北条駅を降りて徒歩約5分で登城口のひとつである専称寺に行くことができます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:和合城 (2023/04/19 訪問)

戸石城から転戦。登山口標識付近(36.426886、138.195552)から墓地方向に向かうと墓地横に駐車スペースがあります。

築城年代は定かではないようですが、村上氏が葛尾城南東の支城として築いたものと考えられています。和合城は虚空蔵山一帯に築かれた村上氏連珠砦の一つです。
1553年(天文22年)村上義清が越後へ逃れると、武田氏の家臣多田昌澄が入ったと云われています。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で横死すると、上杉氏の属城となり、徳川氏に属していた真田氏の抑えとして上杉氏の家臣島津忠直が守りました。

尾根の分岐点前で予定時間(60分)の半分が経過して、距離的に120分コースとわかったので途中で引き返しました。
登城路には石垣がたくさん見られます。
下山時、石(岩?)に足を取られ、左ひざを痛めてしまいました。
本日は葛尾城の攻城を予定していましたが、ちょっと無理そうです。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=中之条陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:戸石城 (2023/04/19 訪問)

洗馬城から転戦。砥石城駐車場(36.419877、138.291654)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)には葛尾城の村上氏の支城でした。
1550年(天文19年)甲斐の武田信玄が北信の村上氏を攻めるため、村上氏の属城であった砥石城を攻めます。
籠城兵はわずか数百であったが、志賀城の残党が中心となっていため士気が高かったと云われ、数千とも云われる攻め手を打ち負かし、武田の武将横田高松も討死しました。
やがて葛尾城から村上義清の軍勢が後詰めにあらわれると、武田軍は挟み撃ちとなり敗走した。これを「砥石崩れ」と呼んでいます。
武田軍を撃退した砥石城であったが、翌1551年(天文20年)真田幸隆の調略によって落ち、武田勢によって改修されました。
その後、村上氏は没落し、武田氏も滅亡、やがて真田氏の城となりますが、上田城が築かれ役目を終えました。

砥石城は米山城、砥石城、本城、枡形城からなる山城です。
整備された登山道があり登山口はいくつかあるようですが、道案内があり、わかりやすい南の登山口から攻城しました。
そこから北へ向かうと本城、その間に大手口があり、さらに北に枡形城、南西峰に米山城があるようです。
残念ながら、時間の都合で米山城、本城、枡形城は攻城できず下城です。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=和合城に向かいました。

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キンヤ

街中の竹薮に空堀・土塁が残る落合氏の城 (2023/05/04 訪問)

足利将軍家の末裔とされる落合将監勝正によって1469~1487年頃に築城されたと云われます。
勝正の子、安親は織田氏に仕え、1584年 小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉軍に付き、池田恒興らの三河中入り隊の道案内をしましたが徳川家康軍に敗れ、上末城はその後廃城となったとされます。

北側は国道155号線の上末交差点付近の竹藪から、その南側台地の陶昌院まで一帯が城跡とされます。
国道から城址碑と説明板が見え、そこから竹藪に入ると、竹だらけですが空堀が良く残されています。
その上に土塁がありますが、宅地で立入禁止の札が掛けられており上がることはできません。

竹藪の南側の宅地、陶昌院一帯を廻ると、陶昌院の北西側・西側・南側は切岸のような所もあって周囲より高台であることが分かり、南西側に藪の出郭のような所がありました。
陶昌院の境内には、落合氏将監藤原安親碑があり、落合氏、落合安親の墓が残されていました。

明確な遺構としては、北側の空堀・土塁のみでしたが、尾張の平城では街中に遺構が残された貴重な城だと思います。

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ぴちょまる

丸岡城 (2023/05/02 訪問)

福井駅~丸岡城間は、30分間隔でバスが運行しているものの、微妙に経路が異なり所要時間が違うので、電車の時刻と合わせようとしている場合は要注意。
現存天守で建築様式は古式ではあるものの、江戸時代になってから建てられたものといことが最近判明した。
天守前にあった松も伐採されており、若干過去にみた写真と印象が異なるものの、桜の季節には黒塗りの天守を背景に
白い桜が映えるとだろうことが容易に想像でき、次は桜か紅葉の季節に訪れたい。
中に入ると、これ以上はないだろうというくらいの急峻な階段があったり、入母屋破風の中に入って、懸魚を間近に見れたり
石の瓦が見れたりと、見どころは多い天守。
広場の面した通りに城小屋マルコがあり、城に関する書籍が多数置いてあり、珈琲と水ようかんを食べながら過ごすのもオススメ。
小さな山に小さな天守が建っているが、町のいろいろな場所から見ることができ、タブの御神木がある辺りから臨むと良い感じ。

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ぴちょまる

越前大野城 (2023/05/01 訪問)

越美北線で一乗谷から移動中に、晴天からどんどん雲に覆われ、夕立のような雨が。
日が沈む直前に夕陽が差し込み、午後だけではあったものの色々な空を見ることができた。
しかも、亀山に登っている途中で5分ぐらい虹を見ることができた上に、よくよく見ると緑青藍紫が繰り返されている過剰虹。
おまけで、本丸で写真を撮っていると、飛んでいる鳶に烏が襲いかかるという珍しい場面にも遭遇。(ただし写真はSSが遅くて残念な結果に)

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ぴちょまる

一乗谷 (2023/05/01 訪問)

公共交通機関を利用するならば、新しくできた朝倉氏遺跡博物館で、電動アシスト自転車を借りて巡るのが良い。
バスにしろ、越美北線にしろ大野に行く本数は限られているので、徒歩だと移動が間に合わない恐れあり。
復元町並付近の遊歩道から山側に急な階段があり、朝倉屋敷跡や復元町並みが一望できる。

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小城小次郎

真冬でも薮の中かい (2022/12/11 訪問)

城郭風の展望台が隣の山にあるが勝山城はそこではない。石橋山で敗れ安房に逃れた源頼朝を庇護した安西氏がいつの時代からか拠点とし、戦国期には正木氏が水軍拠点としていたお城なのだが遊歩道以外は真冬でも薮の中だった・・。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:洗馬城 (2023/04/19 訪問)

尾引城から転戦。誉田足玉神社付近空スペース(36.456362、138.289117)に駐車し、登山道入口の道標(36.456541、138.290424)に向かいました。

詳細は不明のようですが、1468年(応仁2年)村上氏が海野氏の千葉城(せんば)を攻めていることが「諏訪御符礼之古書」に記されており、この「千葉城」が洗馬城ではないかと考えられているようです。

山頂の主郭から南へ伸びた尾根に曲輪を配しています。
主郭は南北に長く西側に土塁があります。
主郭の北西下は自然の谷を利用した大堀切になっており、さらに北西に伸びた尾根も浅い堀切があります。
主郭から南へ伸びた尾根にも曲輪が連なり、途中に堀切、そこから東側山腹には深く長い竪堀が伸びています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=戸石城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:尾引城 (2023/04/19 訪問)

松尾古城から転戦ですが、途中、信綱寺楼門横空スペース(36.447839、138.309332)に駐車し、真田信綱公夫妻・真田昌輝公墓所(36.448792、138.309876)のお墓詣りをし、その後、尾引城に向かい、登城口付近(36.446254、138.302868)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、横尾采女正が築いたとも伝えられています。
横尾氏は1400年(応永7年)大塔合戦に禰津越後守遠光の配下として参加しています。
戦国時代には村上義清に従っており、1548年(天文17年)の上田原合戦で武田軍と戦い横尾采女正は戦死し、残された幼君は家臣に連れられ上野へ逃れたそうです。
その後は真田氏の属城となったと云われています。

主郭に秋葉神社があり、公園として整備されています。
真田信綱公夫妻・真田昌輝公のお墓の写真も併せて投稿します。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=洗馬城に向かいました。

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