南東北百名城巡り+名古屋城 会津若松城、白川小峰城、二本松城、仙台城、多賀城、山形城の六城を巡るため、名古屋発のツアーに申し込み、名古屋城も見物しました。
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2023/06/21 12:06
2023/06/21 11:56
2023/06/21 11:49
2023/06/21 11:20
岩崎城歴史講座のお知らせ
第2回歴史講座 小牧・長久手の戦いのきっかけの地「犬山」
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が戦った唯一の戦いで、真の天下分け目の一戦であるとして
発信を続けています。その名前から、小牧・長久手で戦が行われたと思われがちですが、
実はきっかけが犬山にあることはあまり知られていません。
そこで、今回の講座では小牧・長久手の戦いの緒戦の舞台である犬山での動きと、
令和3年に実施した犬山城大手門枡形跡発掘調査で発見された、
戦国期と江戸時代の堀の比較から、小牧・長久手の戦いを考えます。
ぜひお気軽にご参加ください!
※講座は一回ごとに募集いたしますので、お好きな講座にのみご参加いただけます。
募集期間等はその都度こちらでご案内します。
募集期間:7月8日(土)9:00~
開催日時:7月23日(日)13:30~15:00
場所 :岩崎城歴史記念館2F 多目的ホール
対象:どなたでも(日進市内在住・在勤・在学の方を優先)
講師 :中野 拳弥(犬山市歴史まちづくり課)
定員 :30名(先着順)
参加費:無料
申込方法:期日までに当館へお電話にて申し込みください。
お問い合わせ 岩崎城歴史記念館
〒470-0131 日進市岩崎町市場67番地
Tel 0561-73-8825
HP http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/
開館時間 9:00~17:00 休館日/月曜日(祝日の場合は開館)、12月28日から1月4日
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2023/06/21 07:27
高麗山城 神奈川県大磯町 (2023/06/18 訪問)
大磯駅から徒歩で20分。
高来神社から登城しました。
急な男坂と緩やかな女坂を選択できます。
この日は1城目だったので男坂をチョイス。
雨の後で滑りやすかったけどなんとか登れます。
長い石段があり、それを登ると主郭につきます。
主郭は広めで小さな祠があり、土塁が囲んでいます。
祠も裏手から西に尾根が伸びていて堀切が3条切られています。
一番西側のものが最も深く、木橋がかかります。
真ん中のものはほぼ埋まっていて土橋状に。
内側のものにも橋が掛かっています。
八俵山へのハイキングコースでもあり、歩きやすく人も多かったです。
引き返し東天照の尾根に。
こちらの曲輪の東側にも浅くなった堀切がありました。
神奈川県内では貴重な明確に遺構が残る城です。
城びと未登録ですが行ってみてはいかがでしょうか。
帰りは滑り落ちるのが嫌だったので女坂をチョイスしました。
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2023/06/21 07:04
2023/06/21 01:40
富岡城② 天草・島原の乱の転換点になった風光明媚な堅城。 (2023/01/02 訪問)
富岡城は関ヶ原の合戦の後、唐津藩主・寺沢広高によって築かれました。
天草は唐津藩の飛び地領地だったのですね。
寛永14年(1637)天草・島原の乱が勃発、富岡城は一揆軍に包囲されますが
寺沢氏と城兵の奮闘により、一揆軍は城の奪取を諦め撤退します。
その後、天草四郎率いる一揆軍は原城にたてこもり幕府の大軍と戦います。
もし富岡城が一揆軍の手に落ちていたら、歴史の流れが少し変わったかもしれませんね。
城の裏手(西側)に駐車場があり、そこから登ってくるのですが
二の丸の石垣の下の部分が変色しています。そこが古い石垣のようで
一揆軍が着けた傷が残っているそうです。
城郭の形態を取っていますが本丸は狭く、城の中に代官所があるような感じです。
二の丸は広く眺望がすばらしく、勝海舟と頼山陽の銅像が立っています。
三の丸は駐車場になっているそうですが、ここは今回、使用していないので実訪問です。
三の丸の手前の車道には袋池百間石垣が広がります。そのあたりにある大きな池が
袋池ということでしょうね。
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2023/06/21 01:12
富岡城① 「重箱の隅」鈴木代官 アダム荒川編 (2023/01/03 訪問)
富岡城は寛永14年(1637)の天草・島原の乱の時に一揆軍の攻撃を受けました。
城は包囲されましたが、寺沢氏をはじめ城兵の必死の守りで一揆軍は撤退します。
その後、城主は変わり富岡城は幕府の援助で改修を受け、大手門や袋池百閒石垣が
築かれました。
その後、鈴木代官の天領時代を迎えます。
鈴木代官は領地が現状以上に高い石高に設定されていることを知ります。
当然、石高が高く設定されていると領民は重い年貢に苦しまなくてはいけません。
代官の訴えはなかなか聞き入れられないまま代官は亡くなります。
その後、石高が4万2千石から2万1千石に減らされたことから
代官の死因は自害であったとも言われています。
自らの死を持って幕府に訴えたのであれば、なんとも壮絶な話ではありますが
それで救われた領民たちは感謝し、神社を創建して祀ったとのことです。
二の丸には勝海舟と頼山陽の像があって、これがまた海をみつめていて
非常に恰好が良いです。(グーグルマップにも出ています)
頼山陽は江戸時代後期の歴史家・思想家・文学者で尊王攘夷の思想にも
大きな影響を与えた人とのこと。天草の景色に感動して「泊天草洋」という
漢詩を作った縁でここに銅像が設置されているようです。
勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航した縁があるようです。
富岡城から少し下ったところにアダム荒川殉教之地の碑とパネルがあります。
日本で最初の殉教者でローマ法王から「福者」に列せられました。
平成20年11月24日、日本初の列福式が長崎市で行われたそうです。
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2023/06/20 23:55
こうべさん (2023/01/08 訪問)
赤松一族の福原氏(毛利家家臣の福原氏とは別の家)が拠った城で秀吉に攻められ激戦の末に落城したとか。主郭には「霊社」(神社ではなく)が建てられ城主の首を「こうべさん」と称して祀っているのだそうだ。なまなましい・・
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2023/06/20 23:14
市街地のなかでびっくりでした。 (2023/04/22 訪問)
月山富田城・新宮党館跡からイエローバスで米子城入口へ。(48分・200円)
バスを降りると石垣の聳える城山がどんっ!
雑誌やWEB上で見る写真からはこれほど町なかにあると想像できていなかったので、けっこう衝撃的でした。
登城は枡形登城口から。
スタート地点に枡形が残存していると気分も盛り上がります。
鏡石に矢穴にと、石垣チェックから始められるのも楽しい。
表中御門跡石段を上がり、枡形を見下ろして「どどどどーっと攻めてくる敵を閉じ込め上からバンバン撃つ様子を想像」という城めぐり人の習性を発動。
一網打尽に撃退したところで先へ進みます。
(工事中のため湊山公園方面へは抜けられませんが、ここから本丸方面と内膳丸へは登れます。)
二の丸にある長屋門は明治初期まで11代続いた城代荒尾氏の家臣小原家の門で、米子市に寄贈され、この場所に移築されたのだそうです。(現地解説板より。)移築前の写真も展示してありました。
白漆喰に下見板張りの立派な門です。山陰歴史館として第二の人生を過ごしたあと、現在は登城者を静かに見守っている……かのような佇まいなのですが、ぐるっと周囲をひとまわりするとまるで一軒の家のよう。格の大きさを感じます。
米子市内に現存する唯一の武家建築だそうです。江戸時代のお武家さんの暮らしを肌で感じられる貴重な建造物がこれからも大切に保存されますように。
御殿御用井戸跡脇がその先への登城路でした。草に覆われた井戸跡は落とし穴みたいなので近づきすぎに要注意です。
数百メートルの小径を登ると本丸石垣が目に飛び込んできました。
航空写真で見て憧れていたあの石垣の場所に立っているのだと思うと感慨深かったです。独特な段組みは、素人には、考えた人すごいなぁと思うばかりでした。近づくと写真③のように見えたのは現地に行ってこその気づきでした。
番所跡からは二の丸のテニスコート、三の丸広場も見下ろせました。三の丸は令和3年に国史跡に追加指定されたそうです。
長大な石垣に沿って四重櫓跡、鉄御門跡へ。
下り階段が続いていたので少し下りてみました。石仏めぐりルートで登るとここに出るようです。ここから登れば竪堀がよく見えたのかもしれません。文久3年の絵図で見るとこちらが大手のようなので、次回はこちらから登ってみたいです。( ..)φメモメモ
折り重なる石垣を見上げたときのかっこよさはそれだけでも見飽きることはありませんが、ここに石落とし付きの櫓が建ち狭間だらけの土塀が続き……と考えると、石は投げつけられるわ矢は飛んでくるわで、かっこいいとか言っている場合ではないわというリアルが浮かんできます。
本丸に到着するとみごとな絶景が待っていました。
平和な時代の城から望む海は最高です!
天守台、四重櫓台、水手御門跡、遠見櫓跡をまわりました。
礎石がとてもよいです。
石積みの年代ががらっと変わるのがおもしろいです。(同時にメンテの大変さを思います。)
風がとても強くて石垣から落っこちそうでヒリヒリしました。
四重櫓跡の忘れ石に手をついて下を覗き込みました。……この石はそのためにあるのか!!天端にちょこんとある石、どこかで見た記憶が。和歌山城だったかな。
学校帰りの高校生らしき人たちもいて、放課後の寄り道が城址だなんて、羨ましすぎでした。
下界に戻りつつ内膳丸へ向かいます。
内膳丸には二重櫓数基の武器庫が設けられていたとのことです。
天守台もよく見えました。五重天守を空想再建してみると、本当にかっこいい眺めでしかないです。
そしていちばん見たかった登り石垣。
工事中の遊歩道の向こう側でしたが、木々が伐採され、その姿をはっきりと見ることができました。内膳丸から遠見櫓へ登っていっている景観はぐっと迫ってくるものがありました。もっと近くで見られる日が来るのかな。
滞在時間は1時間30分くらいでした。
鳥取行きの電車は1時間に1本です。
スタンプを押しに行かなくてはいけなかったので、余裕をもって少し早めに切り上げました。
そして徒歩で向かった米子駅。
米子空港が鬼太郎空港というのは聞いたことがあったのですが、JR米子駅は「ねずみ男駅」。
0番ホームが楽しすぎでした(´艸`*)
また、駅舎も新築中で、来月末(7/29)に南北自由通路や駅ビルとともにオープンするそうです。
<おわり>
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2023/06/20 23:10
丘陵一帯に広大な城域を持つ、菊池氏のかつての本城 (2023/01/02 訪問)
隈府城は菊池城とも呼ばれる城で、菊池十八城の中心的な城でした。
正平年間に菊池武政により築かれたとされてます。
後に菊池三家臣の赤星氏と隈部氏が争い、龍造寺氏と結んだ隈部氏が勝ち、城の主となります。
隈部氏は島津氏とも争い、所領を安堵されるのですが佐々成政に反抗したため、国衆一揆が落ち着いた後
城は破却されました。(wikiより)
城址は丘に築かれた菊池神社全域とその右手に広がる丘陵地だと思われます。
なかなか広大な城域を持つ城で島津氏の攻撃を耐え凌ぐことができたのも解る気がします。
正月の二日なので菊池神社は初詣の客でいっぱいでした。
とても参拝も撮影も無理そうなので、神社にお参りするのは次の機会にします。
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2023/06/20 22:36
コンパクトだけど、防御は完璧。枡形虎口に庭園まで備えた館跡。 (2023/01/02 訪問)
隈部館は標高340mほどの平坦地に築かれています。
城主は隈部氏で隈部親永が天正8年(1580)に隈府城に移るまで隈部氏の
居城でした。コンパクトな造りで、それほど大きくは無いのですが
南側の馬場はしっかりと土塁で固め主要部との間に堀切を設けています。
さらに入口には石垣で固めた枡形虎口があり今でもほぼ完ぺきに
その姿をとどめています。これだけでもテンションはあがりますが
主要部内部には建物跡礎石群と庭園跡があり、今でも庭の石を見ることができます。
さらに小高い箇所が神社になっておりますが、これはかつての
物見の場所だったのでしょうか?
神社の背後にもはっきりと形のわかる堀切があり、
背後の守りも完璧なようです。
さらに二つも詰めの城を持っていたようなので
大軍に攻められたら、そこに籠城するつもりだったのでしょう。
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2023/06/20 22:05
見事な磨崖仏が守護する和仁氏の城 (2023/01/02 訪問)
田中城は肥後の国衆、和仁氏の城です。
佐々成政と地元の豪族がもめた時(いわゆる国衆一揆)、和仁氏もそれに
加わりました。小早川隆景、安国寺恵瓊らに加え鍋島直茂、立花宗茂などそうそうたる
大名の軍勢が田中城を包囲します。
40日の籠城の末、内部の裏切りで田中城は落城しました。(現地案内板)
城の総面積は約8万m2(平方メートル)で主郭は約1700m2です。
今回は北部から直接攻めたのですが、なかなかネイティブな遺構が残り、
縦長の郭、段々の郭、大堀切が待ち受けます。
主郭に突入すると雰囲気はごろっと変わり、まるでよく整備された公園のようです。
ですが主郭を出ると、すぐにネイティブな遺構が現れます。
南側の降り口ははっきりしており、登城は南側がおすすめのようです。
城の西側の道を歩いて、城の岩肌をながめながら戻るのですが、
高さ3mくらいのところに磨崖仏を発見しました。
どうやら田中城の守護仏のようです。敢え無い最期をとげた田中城ですが
国の史跡として恥じない見事な遺構であったと思います。
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2023/06/20 21:37
公園 (2023/05/14 訪問)
団地の中の大きな公園でした。遺構は見当たりませんでした。
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2023/06/20 21:20
菊池氏の元城。十八支城。看板がちょっと読みにくい。 (2023/01/02 訪問)
菊の池城は別名を菊池古城といい太宰府の府官だった藤原則隆が
館を構えたところで、南北朝の時代に菊池氏が守山城の本拠を移し
菊の池城はその十八支城の一つになりました。(現地案内板)
広い畑地の中に明らかに他とは違う高まりがあり
城の形状は非常にわかりやすいです。
方形の広い敷地を持つ城で、かつてはいろいろな防御設備を備えていたと
考えられます。
肝心の城跡は枯草がぼうぼうでいささか歩きづらい‥。
説明の書かれた立札が立っているのですが字が消えかかっています。
貴重な情報源が‥。
もう一つの看板に申し訳程度に紹介が張り付けてあるのですが
こちらの看板も書き直してくれると有り難いです。
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2023/06/20 21:18
上越市未踏の城廻Ⅰ (2023/06/17 訪問)
3年位前から越後直峰城探訪を願って居ましたが季節タイミング又天気の模様が中々合わずうずうずしてましたが、先週の初めに週間天気予想で3日程晴れる17、18、19日を狙ってホテルを2泊予約し、念願の直峰城と周辺の未踏城郭登城を企画。
車を飛ばし新東名、中部縦貫道、中央道、長野道、上信越道経由箕冠城へ。
情報ガイドは、古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップにて林道入口、駐車場にナビを合わせる。
駐車場:箕冠城登城口前にアスファルト舗装駐車場完備、10台以上可能(37°01'27"N 138°18'18"E h=190m) 要所要所に案内板が出ています、林道は約900m程で駐車場へ、道は林道脇に夏草が茂ってますが問題なくアスファルト舗装です。
登城口からクヌギ林の道を登り比高は約40~50m、木漏れ日と小鳥の囀り風が心地よい、程なく鎧井戸へ道を降りて見学、周辺に土塁跡、戻り曲輪下には笹ゆりの群生、開花は終わったのかなと、よく見ると小さな蕾があり開花前、咲けば素晴らしい光景でしょう。
程なくして二の丸下に箕冠清水と称される池が水と睡蓮が咲いてる、登り二の丸上に横堀が長く伸び、土橋から上段の帯曲輪へ馬出を経由し堀、竪堀を渡り本丸へ、眺望は絶景、少し霞んでいましたが上越市市街地日本海が見えます。
余湖図コレクションさんの縄張俯瞰図では箕冠清水の南側に土塁横堀東西に長く伸びて居るようですが草も茂っており、踏み込みませんでした。トイレは二の丸城名碑の横奥に在ります。
整備はされており上越市でも関心をもって保全されている、夏場は草が茂り踏込み躊躇しますが登城路は問題ありません。
歴史は、上杉謙信の武将、大熊備前守朝秀の居城、川中島合戦当時は前進基地の飯山城との関係から重要な城であったが謙信が川中島合戦から引いた後は、あまり必要なくなり廃城と成った。(案内板抜粋)
箕冠城はこじんまりと山頂に曲輪、馬出、横堀、土塁、空堀、竪堀、水の手の箕冠清水、鎧井戸など戦国時代の遺構がよくまとまってる。比高も低く私の体力脚力で十分楽しめました。
当日2名の方が訪ねられていました。
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2023/06/20 20:56
空にそびえる白銀の城ってこれは!? ららぽーと編 (2022/12/31 訪問)
元寇防塁をひとしきり回るついでに、ららぽーとの実物大のν(ニュー)ガンダム
を見てきました。
通常のガンダムが18m位の大きさに対してνガンダムは22~23m位の大きさがあるんですね。
すぐ近くにビルがあるので対比で余計にでかく見えます。
ここのGUNDAM SIDEーFでは限定のガンプラを販売しております。
北へ数kmのキャナルシティにも行ってきました。
ラーメンスタジアム すごい行列ですが
本場の豚骨ラーメンうまかったです。
このあと虹の松原の元寇防塁に向かいました。
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2023/06/20 20:34
竜ヶ井城 茨城県桜川市 (2023/06/11 訪問)
モトクロス場が登城口になっています。
手作りの案内板が設置してあり、それに沿って登って行きます。
この城の見所は常陸名物の堀底道です。
郭の下を長めの堀底道が走っています。
主郭からさらに進む百貫石のあたりにも堀底道があるようですが時間の都合で向かわず下山。
今度は神社方面に下って行きました。
下りて行くとここにも堀底道が。
竪堀のようになっていました。
結構深いです。
真壁城とか行かれた際にはお立ち寄り下さい。
朝田さん、コメントありがとうございます。
優秀でもないですし引き抜かれた訳でもなさそうかと。
とりあえず讃岐で家探してきました。
折角なので四国コンプしたいですね。
その前に伊豆大島、機会を伺っています。
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2023/06/20 20:15
高須城 (2023/05/03 訪問)
【高須城】
<駐車場他>駐車場はないが、城跡公園の横の道は広いです。
<交通手段>車
<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅6城目。高須城は南北朝時代の1338年に美濃国石津郡の地頭となった氏家重国が館を築造したのが始まりとされます。1592年には豊臣秀吉に仕えた高木盛兼が1万石を与えられて領主となりました。関ヶ原の戦いでは高木盛兼は西軍に付き東軍の徳永寿昌に攻められて城を退却します。関ヶ原後は功により徳永寿昌が入封し約5万石で高須藩を立藩します。第2代藩主徳永昌重の時に改易になり一旦廃藩となったりしますが、江戸時代中期以降は名古屋藩の支藩として幕末を迎えます。水害が多い地域だったようです。現在遺構は残っていないようで城跡公園に寄りました。
<満足度>◆◇◇
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2023/06/20 19:06
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