春の長崎天草を巡る旅、(11城目)は「富岡城」です。
富岡に宿泊した翌朝、まず富岡港から富岡城を見上げました。いい感じのアングルです(写真⑨)。そしてここからあの上に見える本丸まで登ります(徒歩で30分:車でも登れます)。
富岡城の築城者は唐津藩主「寺沢広高」です。豊臣政権下で小西行長の領地であった天草は、関ケ原後には唐津藩の領地となり、1621年には家老の「三宅藤兵衛」が城代として入ります。
実はこの三宅藤兵衛という男、明智光秀の孫にあたる人物です。燃え落ちる坂本城から明智秀満の家臣「三宅六郎太夫」から助け出され、京都で匿われた後、成長してからは密かに叔母ガラシャの庇護を受けます。しかしガラシャは関ケ原の直前、石田三成の兵に屋敷を囲まれたため自害。その後の籐兵衛は、唐津藩士の「天野源右衛門(安田国継)」に誘われ、寺沢広高に仕官します。そしてそこで才能を開花し、唐津藩筆頭家老にまで登り詰め、富岡城の城代となりました。実はこの安田国継という男は、明智秀満の元家臣で槍の名手。本能寺の変ではあの織田信長に傷を負わせた男だとされています!
しかしその後の藤兵衛は、広高の子で唐津藩を継いだ「寺沢堅高」の悪き命令に逆らえず、飢饉で米も取れぬ天草の農民に過度の重税を課し、払えぬ者にはキリシタン弾圧を名目に、泣く泣く拷問を行います。1637年これに反発した農民たちが蜂起し天草一揆が勃発! 藤兵衛は天草四郎率いる一揆勢と本渡で戦い、前回写真⑥の広瀬という場所で何と討ち死にしてしまいました。現在のその場所には、籐兵衛の墓が建てられています(写真⑦⑧)。そして籐兵衛死後も、3人の息子らが何とか富岡城を守り抜き、ここで細川忠利の軍勢が迫って来たため、天草四郎は大矢野へ戻れず挟み撃ちとなり、そこで海を渡り原城へ逃げ、島原の一揆勢と合流したようです。
熊本藩主の細川忠利は、この時自ら大軍を率いて藤兵衛を助けようと出陣しました。しかし時すでに遅く、籐兵衛は討ち死にした後でした。忠利の母は明智光秀の娘ガラシャ(玉)です。籐兵衛はガラシャの姉である岸と明智秀満(左馬之助)との間の子です。つまりこの二人は従弟同士、明智光秀の孫同士という事になります。二人はガラシャの下で幼い頃から兄弟のような親交があり、富岡と熊本の間でも何度か手紙のやりとりがなされていたようです。藤兵衛は、幼い頃から体の弱かった6才年下の忠利の事を心配し、熊本城の堀には蓮根畑があった事を思い出し、滋養強壮として辛子蓮根を考案し送ったとか。今では熊本名物になっています。
乱の後の富岡城には「山崎家治」が入り、富岡藩を立藩し荒廃した富岡城を幕府の援助で修築し、見事な石垣を築きました(写真②)。しかし3年後に家治は丸亀城へ転封となり、そこであの有名な高石垣を築きます。さすが名人家治の石垣です。
家治の後は天領となり、「鈴木重成」が代官として入ります。ここで重成は寺沢広高が定めた4万2千石か過分であり、これが天草の乱を引き起こすきっかけとなった事を幕府へ訴えます。しかし幕府からは却下されたため、領民のため切腹をもって再度訴えました。その死に免じ2万1千石へ半減されたそうです。また兄の正三は、領民がキリスト教から仏教へ改宗できるよう尽力しました。つまりこの二人の努力により、今の天草はあるのです。
現在の富岡城には、高麗門と櫓が復元されています(写真①)。山崎家治が築いた石垣も美しく残っています(写真②)。三宅藤兵衛時代の石垣は戦乱と一国一城令で破却されましたが、一部に家治の石垣とともに見る事ができます(写真⑤)。乱の時の焼け跡も残っていました(写真⑥)。
本丸から見た有明海と東シナ海の景色はとても美しく、私はしばらくこの景色に見とれてしまいました(写真③④)。藤兵衛もどんな気持ちで、ここからこの海を眺め、迫り来る一揆軍を迎え撃とうとしていたのでしょうか?
原城総攻撃では、細川軍は先陣を切って本丸へ突入し、そして天草四郎の首を討ち取ったとされています。つまり忠利は、藤兵衛の仇を何としてでも取りたかった、そして取る事ができたのでした。ちなみに藤兵衛の3人の息子は、そのまま細川軍に合流し、原城総攻撃でも活躍しました。その功績で、寺沢家改易後は細川家に無事仕官でき、代々幕末まで家老などの要職を務めたそうです。
つまり明智光秀の血は、この熊本の「細川家・三宅家」の中で代々受け継がれ、流れ続けていったのです。私はこの事に感動してしまいました。富岡城は訪れるには不便な場所ですが、明智光秀ファンなら是非1度は訪れ、三宅藤兵衛という明智光秀の血を引く男がここにいた事を知ってほしいと思います。
午後の便で、富岡港から長崎行の高速船「KIZUNA」(写真⑩)に乗り、長崎市(茂木港)へ渡りました。次は長崎市内を観光しようと思います。
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