さあ、高須〇〇ニックの時間です。もちろんピクの方です、栗じゃないですよ!
高須城の最初の築城者は新田義貞を藤島城に攻め、討ち取った越中の氏家中務丞重国とされています。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で城主・高木盛兼は西軍に味方し、福島正則の命を受けた松ノ木城主・徳永法印寿昌らに攻められ、寿昌の勧めで降伏します。
戦後は徳永寿昌が美濃・尾張国に合わせて5万600石を領し、初代高須藩主になりますが、二代昌重の代に大阪城改築の不手際と嫡子との諍いを咎められ改易となります。(中略‥)
元禄13年、尾張藩主光友の次男、松平義行が信濃三郡から当地に封じられ、高須藩3万石の藩主となり、尾張徳川家や有力藩主の嗣子が絶えた時際に跡継ぎを供給する役割を負うことになりました。
戊辰戦争で新政府軍と戦った陸奥国会津藩9代藩主・松平容保と尾張徳川家14代/17代当主・徳川慶勝は兄弟であり、ともに高須藩から養子に出ています。
高須城は案内板が二つあり、一つは「もんどばし」の東の水濠の中、もう一つは北の城跡公園に設置されています。水濠より北側、城跡公園周辺が三の丸跡とされ、瑞応院・海津明誠高校のあるあたりが二の丸、県道8号をまたいで流通センターのあるあたりが本丸跡のようです。
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