みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

H7年山上に天守台・本丸石垣復元整備される (2009/05/15 訪問)

 日光・会津・松島名所名湯3泊4日定年退職旅行の2日目白河小峰城を終えて3城目二本松城へ13年前の平成21年5月中旬登城。レンタカーは二の丸城塁高石垣前の専用駐車場利用。

 私は過去に探訪済みなので平成7年に発掘調査の上復元整備された山上の本丸・天守台を主に観察探訪、二の丸下の千人溜り二本松少年隊群像を拝み、二の丸高石垣を仰ぎ見て、箕輪門(昭和57年復元)から入り、ぶらぶらゆっくり山上を目指す、山上の本丸・天守台の復元修復整備後は初めての探訪観察、天守曲輪の様な本丸・天守台、北角に天守台を設け西側に西櫓台続き多聞櫓台、東側に東櫓台続き多聞櫓台、南中程に枡形虎口の構えに成って居る。見晴らしも素晴らしく360度見渡せる、資料によると天守閣は建って無かった様子です。
 天守台から下城、搦手側石垣、山々の新緑、藤の花が綺麗でした。

 歴史的には室町期畠山氏が9代約150年治め戦国期伊達政宗の治める所と成り、小田原征伐後の奥州仕置き後蒲生氏郷が会津に入り二本松城は会津の支城へ、蒲生氏後上杉氏の会津支配、関ヶ原後再び蒲生氏支配、寛永4年(1627年)松山より加藤嘉明が会津に入る、二本松城は会津若松城の支城扱い、加藤氏の時代には石垣改修が成されたのでは?寛永20年(1643年)白河より丹羽氏が10万石余で入封し今日の石垣の姿に大改修し丹羽氏10代継承し明治を迎える。
 しかし戊辰戦争では本体が会津方面に出向いてる所を婦女子少年で守も陥落、二本松少年隊の悲話が伝えられて居る。


 二本松城を終わって、会津若松城、天守閣に登る、会津若松城のシアター鑑賞、幻の神指城の復元映像も上映、白虎隊の飯盛山見学参拝、会津さざえ堂を昇り降りを見学して今夜の宿泊先東山温泉へ、老舗旅館向瀧は無理として湯川渓流沿いの和式ホテル、温泉と地酒にビール、窓から見える渓流、渓流の音、新緑、所々に藤の紫が点在し五感に癒される温泉ホテルでした。

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

石垣色々 (2022/05/06 訪問)

本来土塁中心で石垣は一部、実際天守や櫓さえ建てられなかったということですが、石垣に特徴ありました。
基本的には野面積みですが、本丸と二の丸を結ぶ鉄門跡は鏡石が存在をみせます。
そこから東側の石垣は割石など隙間を埋める小さな石があまりなく、積石も比較的同じサイズのものが目立ちます。色も2色構成に見えます。
小規模な割に場所によって与えるイメージが変わります。

現存建築物は移築千歳御門(埋門)のみですが、元々は本丸と少し離れた千歳御殿の入口にあったと考えられているようで、本来今の場所ではなかったそうです。

富山市内は路面電車、バス、レンタサイクルといずれも充実している印象を受けました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

びーこ

改修中の石垣の石を超観察! (2022/05/01 訪問)

数回目の登城だが、いつも違った姿を見せてくれる弘前城。でも今回は桜なし、天気曇りということで特に期待もせずに登城を開始。前回は石垣の改修を始める前ということで、膨らんだ石垣を間近で見ることができたが、今回は全面シートで覆われていて、足場も組んであり、殆ど何も見えない状態。天守閣内のビデオは調整中で見れず、岩木山を見渡す展望台はコロナで封鎖。全く、踏んだり蹴ったりである。

遅咲きの八重桜を見ながらダラダラ歩いていると、石垣改修の経緯を纏めた展示をしている小さなプレハブを発見。工事の方々の休憩室かと思った。中に入ってみると、狭いながらも興味深いパネルや模型が展示してある!一番の情報は、剥した石垣の石は、四の丸に保管してあるということ。さっそく四の丸(今はグランドになっている)に向かうと、桜まつり期間中は来園者の飲食スペースになっていた。飲食に夢中の人々を横目に、サイズや形ごとにキレイに並んでいる石垣の石を超観察!しかし、この量の石を積み直すとは、パズル好きの私でも考えただけで気が遠くなる・・2024年度までに完成するというから、あと2年か・・2年で出来るのか?2年後、必ず確認しに行くぞ!と固く誓ったのだった。

さて今回のグルメは、弘前城近くのりんご公園でリンゴ尽くしのランチ♪
リンゴ入りトンカツ、リンゴ入りイカメンチ、リンゴ入り炊き込みご飯、アップルパイ、リンゴソフトと、リンゴ大満喫!
期待してなかった弘前だったが、結果的に城もグルメも大満足であった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

【城と標柱】

史・・・

掘り出したい。

+ 続きを読む

小城小次郎

早く見に行くべし (2022/01/08 訪問)

城内の井戸に金属製の釣瓶が吊られていたので「かなつるべ」城と名付けられたのだとか(ほんとか)。発掘成果に基づき柵列や木橋が整備されたがもしかしたら老朽化でそのうちなくなるかも、という噂も聞いた。早く見に行くべし。

+ 続きを読む

刑部

姉川城と横竹城 (2022/05/01 訪問)

姉川城と横竹城は車で5分くらいの近さにあります、非常によく似た城郭で私が見た感じでは横竹城の方が規模が大きく公園になっています。

+ 続きを読む

ryu

チャリでいく小田部城 (2022/02/27 訪問)

自宅からチャリで10分ほどの小田部城を訪ねる。

小田部氏の里城。北側と西側に堀を巡らせた構造で宝満宮を含む 100m × 140m の範囲が「小田部氏宅」推定地。築城の場所は、福岡講倫館高校の敷地であるというが、城館遺構の存在は見られない。
大友氏時代に安楽平城主となった小田部氏の本貫地で、小田部氏の館城とも考えられている。『福岡県の城郭』では宝満神社から北の西応寺付近を小田部城跡と推測している。

+ 続きを読む

赤い城

小さな公園と東名 (2022/04/30 訪問)

喜多見城からの転戦、徒歩で20分くらい。
わざわざ行くことも無いでしょうが野川と仙川に挟まれた高台に位置しています。
東名高速が走っていて遺構はありません。
小さな公園と大六天橋がある程度。
この日はGWの三連休中日で東名も比較的流れていました。
この連休、結局近場廻りとなりました。

+ 続きを読む

ryu

高祖山登山と高祖城探訪 (2022/02/11 訪問)

市民のハイキングコースである鐘撞山から高祖山を縦走し、高祖城を探訪する。

建長元年(1249年)、原田氏の原田種継、原田種頼父子の築城。 怡土城の遺構を利用し、高祖山頂上に上ノ城(本城)と下ノ城がある。
一時少弐氏に奪われたが、最終的には大内氏の援助により原田氏が奪還した。 天正15年(1588年)豊臣秀吉の九州征伐により、城主原田信種は所領没収され廃城となる。

登り出しは小雨模様だったが、天気は回復傾向と読んで登る。鐘撞山で曇り空の展望を楽しみ、高祖山までの快適な尾根道を歩き、高祖山山頂直下の下の城址に着く。
ここのベンチでゆっくり昼食後、高祖山山頂までの高祖城の遺構を縄張り図を見ながら探索する。高祖山山頂(主郭)から急斜面を下り、姪浜堀と言われる堀切跡を探し、山頂周辺の曲輪跡を探索する。
帰路は鉢伏山観音へ下るコースを取って野外活動センターに出る。
下山した頃にはすっかり青空になっていた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

古処山~屏山縦走と屏山城探訪 (2021/12/05 訪問)

古処山城がある古処山から尾根伝いに隣にある屏山山頂(標高 928m)に位置する山城で、古処山城探訪前に古処山~屏山間を縦走し訪城した。

屛山山頂から嘉麻市方面の眺望を楽しみ、持ってきた縄張り図を見ながら屛山城の遺構を確認す
山頂東側の竪堀はやや不明瞭。西側の堀切2本はいずれも浅い。

屏山城は地誌類にはほとんど紹介されず、近年発見され、山名からこの名称が当てられているが、屏山は近世までは「宇土浦山」と呼ばれ、『福岡県地理全誌』の「宇土浦山」には「絶頂ヲ平家城ト云。」とあるためそれが本来の城の名称の可能性も考えられる。当然、城主等は不明である。(「福岡県の中近世城館跡」より)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

古処山~屏山縦走と古処山城探訪 (2021/12/05 訪問)

山では紅葉も終わって落葉し、山城巡りに最適の季節が到来、戦国時代の国人領主秋月氏の本城である古処山城と屛山山頂にある屛山城を訪ねて古処山~屛山を縦走してきた。

古処山城は、戦国時代秋月に本拠を構え、天正年間には筑前の中・南部の一帯を支配した国人領主秋月氏の本城である。

五合目登山口に車を停めて出発する。渓流沿いの登山道は近年の水害の影響なのかところどころ荒れている。
水舟を過ぎて、古処山頂に直登するコースを分けてまずは古処山の山腹を巻き、屛山を目指す。
屏山山頂で屛山城の遺構を確認後、尾根伝いに縦走路を戻り、つげの原生林をかき分け古処山頂に着く。山頂直下のベンチで昼食をとり、その後、山頂から西側に延びる尾根周辺の曲輪や堀切を縄張り図を参考にしながら見て回る。
さらに山頂から南に延びる尾根上にある経ヶ峰を往復し、南側の郭群を見て回る。

初冬の落ち葉を踏み分けながらの充実した山城探訪となった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

御飯ノ山城散策 (2021/10/07 訪問)

職場近くにある御飯ノ山城を訪ねてみる。
香椎台の戸建て住宅街で造成されほぼ遺構は残っていない。案内板と山城の模型が公園内に残る。

『筑前国続風土記』では大友氏家臣の一万田弾正が籠ったとあり、立花山城の出城ともある。『筑前国続風土記拾遺』には香椎宮が城主を置いたところではないかともしている。『筑前国続風土記拾遺』には城ノ腰と呼ばれ東西二つの峰で構成されるとある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

英彦山登山と松尾城 (2021/10/02 訪問)

英彦山登山の帰路、黒田六端城のひとつである小石原にある松尾城を訪問する。

松尾城は戦国時代、秋月氏の家臣と考えられる宝珠山山城守の居城と伝えられ、黒田家入国後は、黒田六端城の一つとして仲間統胤が城主となったが、一国一城令で廃城となる。

標高は510mくらいだが駐車場からの比高は50mほどである。
城址までの山道は整備されていたが、主郭内部は丈の高いススキで覆われて入るのを躊躇われ、遺構もよくわからなかった。主郭南側の石垣、虎口の石垣を見て下る。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

伊都菜彩と波多江氏館 (2021/06/30 訪問)

糸島産の食材の直売所「伊都菜彩」に買い出しに行った際に訪問。現地は民地のため周囲を歩く。

『筑前国続風土記』「波多江」の項には「波多江村の内に、丹波屋敷と云所有。是波多江丹波が居たりし宅の址也。
四方大堀をかまへ、高築地あり」とする。『筑前国続風土記拾遺』では波多江丹波守種敦の宅跡とし、二方に堀の跡があるとしている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

風天山登山と綾部城探訪 (2021/06/24 訪問)

鎮西山城探訪後、宮山城(綾部城)を訪城する。

宮山城(綾部城)は、藤原通良によって築かれたと云われ、
鎌倉時代に通良の子通俊が綾部荘を賜わり綾部氏を名乗って居城としたらしい。その後、天正年間(1573年〜1592年)頃には龍造寺氏の家臣綾部鎮幸が城主となっていたらしい。

綾部八幡宮近くにある風天山公園駐車場に車を停めて、まずは綾部八幡宮にお詣り、神社の横から遊歩道を登る。登山道は夏草が生い茂って覆い隠されて歩きづらく、遺構も草に覆われてよく確認できなかった。やはりこの季節は山城巡りにはあまり適さない。

下りてきて参道の喜久屋というお店で名物の「あやべさんぼたもち」を買って帰る。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ryu

鎮西山登山と鎮西山城探訪 (2021/06/24 訪問)

午前中に吉野ヶ里遺跡をじっくりと見学、近くの蕎麦屋で昼食後、午後の暑い日差しの中、平安末期に鎮西八郎源為朝が城を築いたと伝わる鎮西山に登ってみる。
山中は散策路が錯綜して分かりにくいがよく整備されており、山頂からの佐賀平野の眺めも素晴らしかったが、山城の遺構はよく分からなかった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シェル

スタンプのみ登城 (2022/05/06 訪問)

時間があまりなかったためスタンプのみ押印
JR小机駅そば 城郷小机地区センターの入口を入ってすぐの場所に、スタンプが設置されてました。
スタンプの横には小机城周辺ガイドマップも置いてありました。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

民家の車庫前,気を使います。 (2022/05/08 訪問)

近隣の方かと思いますが,写真を撮っている私を不審に思っている様子でした。何気に距離をおいてツケられてる空気を察しましたが,智観寺に入って行ったら(安心したのか)去って行きました。ここは冷や冷やです。あまり,ウロウロもできません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

内濠と石垣 (2009/05/15 訪問)

 木造復元三重御櫓からの続きです。

 先に木造復元三重御櫓中心に東西南北の姿を投稿致しましたが、本丸を囲んでる内濠、余り探訪されない北側の裏の姿も今回、家内も同行して呉れ本丸一巡致しました、北側の内濠も広く、樹木、桜の葉っぱに覆われていますが周囲の石垣がちらちらと観る事が出来ます。
 
 探訪したのが13年前の平成21年5月中旬で東日本大震災発生の2年前の写真投稿に成ります。それから震災大被害を被り石垣の修復も平成29年末には完了し昔の姿に戻って居り、本丸清水門の木造復元が計画されて居り令和5~6年度には姿を現しそう、期待して待って居ます。


 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

木造復元三重御櫓 (2009/05/15 訪問)

 日光・会津・松島名所名湯3泊4日定年退職旅行、家内の要望と私の城廻りを兼ね合わせ、前泊の鬼怒川温泉を出発し今回の2城目白河小峰城へ13年前の平成21年5月中旬登城。
 車はレンタカー、二の丸南の専用駐車場に駐める。

 過去に私は復元三重御櫓、城跡は探訪済みですが家内は初めて、二の丸、清水門跡、本丸、復元前御門、木造復元三重御櫓、登閣、本丸御殿跡、西の一段高い曲輪2重櫓跡、竹の丸、本丸水堀を回り込んで本丸北裏、バラ園、尾廻門、北側の内濠、北から西に廻り内濠とい石垣、三重御櫓も眺める、西から南に廻り、二の丸へ一巡する。

 木造復元三重御櫓は平成3年、前御門は平成6年に竣工公開されてる。
 現在残ってる石垣城跡は寛永4年(1627年)棚倉から丹羽長秀の嫡子長重が10万石余で入封し石垣造りに大改修し今日の姿を観る事が出来ます、しかし寛永20年(1643年)丹羽氏は二本松に国替え、二本松城の石垣造りの城郭に大改修、結構いじめられていますね? 小峰城も二本松城も石垣造り城跡を今日見る事が出来るのは丹羽氏のお陰です。

 三重御櫓中心に写真投稿致します。

 続きで内濠と石垣編を投稿します。

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ516