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七尾城 (2023/05/06 訪問)

日本百名城
日本五大山城

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石動山城 (2023/05/06 訪問)

上杉謙信築城

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小丸山城 (2023/05/06 訪問)

前田利家築城

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和田山城 (2023/05/05 訪問)

国史跡

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二曲城 (2023/05/05 訪問)

国史跡

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鳥越城 (2023/05/05 訪問)

続日本百名城

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金沢城 (2023/05/05 訪問)

日本百名城

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カズサン

【信濃・山本陣屋】長野県飯田市 旗本近藤氏陣屋 (2023/05/02 訪問)

 住所:長野県飯田市山本3049(地番は北隣の西林寺を借りました)
 駐車場:七久里神社境内を利用、長野県飯田市山本3037

 城びと投稿で肉球さんが4月30日に「山本陣屋」を投稿され初認識しました、調べると長野県飯田市の飯田山本ICの近くで、今回の伊那路城散歩の経路に当たり訪ねる事にしました。

 史跡マークの跡地には案内板、標柱も無く、ネットでヒットした「甲信越のお城・信濃山本陣屋」の内容をお借りして歴史を記載します。
 山本陣屋は元和4年(1618年)に近藤重直により築城、重直の父政成は堀秀政の四男に生まれ、秀政の重臣近藤重勝の養子となり、慶長9年に越後蔵王堂で1万石を領した。
 慶長15年(1610年)に本家堀忠俊が改易と成ったとき、信濃高井郡内に1万石を与えられたが、元和4年政成は死去し、嫡男重直が幼少のため減封されて5千石の旗本に成った、11代継承して明治を迎える。
 隣接の七久里神社の由緒板には近藤家の関りも記されています。

 浜松からは国道151号線を北上して三遠南信道の天竜峡ICより中央道の飯田山本IC手前から国道153号線に入り中央道下を潜り中央道沿いの市道を北へ高い樹木が茂った七久里神社が見える、東入りし神社へ境内に車が駐っており利用する。
 神社境内の東石垣下に西林寺がある、東下りると、肉球さん投稿写真で目にした石垣が目に入る、ビューポイントの北東角の石垣写真を撮影、石垣は北面と東面が残ってる、北面は神社、寺から東に抜ける道沿い、南面は果樹園と民家が有りよく見る事が出来ない、屋敷跡は畑、一部催事の臨時駐車場?に成ってる、チェーンが張ってあり入れない。
 立派な石垣が北面、東面と残っており往時の姿を彷彿させる。中央道は東に約100程の近さ。
 
 参考は甲信越の城・信濃山本陣屋、グーグルマップが大変役に立ちました。

 また、城びと投稿の肉球さん新情報ありがとうございます、情報に触発されて訪ねる事が出来ました。この後に阿島陣屋も訪ねました。
 

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刑部

住宅地の中の城址 (2023/05/05 訪問)

発掘調査後、埋め戻された城址。住宅地だから仕方ないのですかね。

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bono

石垣めぐりをしてきました (2023/05/03 訪問)

以前も来たことがあるのですが、その時も確か敷地の広さに圧倒されて、十分見て回れなかった覚えがあります。今回は単独約1時間半ほどありましたので、ゆっくりと散策したものの、まだ不十分でした(笑)

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:葛尾城 (2023/04/19 訪問)

村上氏居館(城びと未登録 長野県坂城町)から転戦。坂城神社北駐車場(36.47053、138.18124)に駐車し、葛尾城登山口(36.469905、138.181049)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代末期頃に村上氏によって築かれたと云われています。
村上氏は清和源氏頼信流で、1094年(嘉保元年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれています。
戦国時代の村上義清の頃には北信濃一帯に勢力を拡げ、1548年(天文17年)の上田原合戦、1550年(天文19年)の戸石城合戦と甲斐の武田信玄を二度敗っています。
しかし、1551年(天文20年)戸石城が武田信玄に与していた真田幸隆によって落城させられると、1553年(天文22年)には一族の屋代氏などが武田氏方に寝返るなど圧迫され、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、葛尾城は自落しました。
その後、義清は越後の援軍を得て葛尾城を攻め落とし、塩田城に入って再帰を計ったが武田氏に敗れ再び越後へ落ちていきました。

和合城攻城時に痛めた左ひざ痛の為、攻城は断念しました。
登城口付近の写真を撮って撤退しました。早めにホテルに入り左ひざのケアをします。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:村上氏居館(城びと未登録 長野県坂城町) (2023/04/19 訪問)

坂木陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)から転戦。満泉寺駐車場(36.467386、138.182037)に駐車し、村上氏居館跡の石碑&標柱付近(36.466903、138.180943)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、村上氏によって築かれたと云われています。
村上氏は清和源氏頼信流で、1094年(嘉保元年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれています。
村上氏が村上郷から坂木郷に移った時代は明確ではないようですが、南北朝時代末期頃とみられ、そのときに居館と詰め城である葛尾城が築かれたと推測されています。

村上氏居館は現在の満泉寺一帯に築かれていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=葛尾城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:坂木陣屋(城びと未登録 長野県坂城町) (2023/04/19 訪問)

中之条陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)から転戦。村上義清公墓所(36.460484、138.185719)を確認後し、坂城駅前(36.462525、138.181347)に向かいました。

1618年(元和4年)幕府直轄領の5,000石の代官所として坂木村に陣屋が置かれたのが始まりのようです。
1682年(天和2年)武蔵国岩槻藩主板倉重種は50,000石で坂木に転封となりました。
重種は徳川家綱に抜擢され老中を務めましたが、家綱没後に失脚、また自身の家督相続に関する問題もあって10,000石を減封され、50,000石で坂木に転封となりました。
翌1683年(天和3年)重種は領地50,000石の返上を幕府に願い出ましたが、重種の嫡男重寛に30,000石、重良の嫡男重宣に20,000石をそれぞれ分知することで決着しました。重良は上総国高滝に陣屋を構えています。
1703年(元禄16年)板倉重寛もまた陸奥国福島に転封となり、再び坂木は天領となりました。
1754年(宝暦4年)中野陣屋に統合され坂木陣屋は出張陣屋となりましたが、1759年(宝暦9年)には廃され、後に焼失しました。その後、中之条陣屋が築かれています。

坂城駅北東側正面に案内板があります。
絵図よれば石垣が残っているようですが、よくわかりません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=村上氏居館(城びと未登録 長野県坂城町)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:中之条陣屋(城びと未登録 長野県坂城町) (2023/04/19 訪問)

和合城から転戦。文化の館駐車場(36.446709、138.190358)に駐車し、中之條陣屋石碑(36.446864、138.189575)に向かいました。

1707年(宝永4年)江戸幕府によって築かれた天領の代官所です。
1759年(宝暦9年)に坂木陣屋が廃され出張陣屋となっていましたが、1767年(明和4年)に火災で焼失したため、その後、中之条に陣屋が築かれました。以降明治まで天領の代官所として続いたそうです。

中之条陣屋は「文化の館」の西側に築かれていたそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=坂木陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)に向かいました。

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にのまる

【かるた】明石城の読み札

・三重櫓 二基を一目で 明石城

・明石焼き あとまわしにして 明石城

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にのまる

【かるた】篠山城の読み札

・高虎流 次々投入  篠山城

・角馬出 人々憩う 篠山城

・刻印が チャームポイント 篠山城

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にのまる

【かるた】竹田城の読み札

・天と地の 境目の城 竹田城

・天空へ 羽ばたけそうだな 竹田城

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河井継之助 (2023/05/05 訪問)

 長岡駅前に石碑、アオーレ長岡前に石碑と案内板がありました。遺構はないようです。
戊辰戦争で激戦地であった城ですが、残っていないのは残念です。それまでの江戸時代は平穏に過ごしていたかというと、火事(三蔵火事)があって城郭すべてが全焼したり、水害により城内まで浸水したことが5回もあったり、地震(三条地震)で被害が出たりと大変だったようです。
 私は長岡藩といえば、司馬遼太郎の「峠」という小説で知った河井継之助が印象的で新政府軍を相手にガトリング砲を放って奮闘する姿を思いうかべます。

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堀 直寄 (2023/05/05 訪問)

 金峯神社、安禅寺付近が城址です。土塁と堀の一部が残っています。
与板城の最寄りのバス停「上与板」からバスに乗り「チャレンジャー北長岡店」で下車しました。バス停から徒歩10分くらいです。
金峯神社にはこの時期、風鈴が設置され涼しい音色が迎えてくれます。

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与板陣屋 (2023/05/05 訪問)

 寛永十一年(1634年)に長岡藩初代藩主牧野忠成の次男康成で、1万石で入封しましたのが与板藩の始まりとされています。牧野氏は元禄二年に小諸に移封されました。その後、天領を経て、井伊氏の庶流である井伊直矩が二万石で入封し、井伊氏が明治まで治めました。文化元年(1804年)井伊直朗のときに城主格となり3年の歳月をかけて与板城(與板城)を完成させたとのことです。戊辰戦争で焼失したとのことです。冠木門が復元されています。また徒歩圏内の本願寺新潟別院には移築された大手門があります。近くには与板歴史民俗資料館と直江兼続像ありました。
本与板城から与板城へ行く途中にありました。同じ与板城の名があり与板城の周辺観光で投稿させていただきました。

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