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刑部

巨大な浮き城 (2023/05/05 訪問)

金沢城の2倍の広さをもつ難攻不落の城、今は球場や住宅地に変わり面影は薄れてしまったようです残念。

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健吾

高知城 (2023/05/03 訪問)

山内一豊とその妻、板垣退助の銅像あり
山内家の家紋はあの三菱のロゴの元となっていた!?
石樋、鉄炮座間、忍び返しを見られてよかった

ずっと気になっていた御城印をいただきました。
ここから御城印集め、始めます!

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宗春

武節城 (2023/05/02 訪問)

愛知県に帰省するにあたり、地元の友人と城攻めしてきました。その①武節城です。

車を道の駅どんぐりの里いなぶに停めて、道路の上の山をぐるっと歩きました。

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刑部

案内板と石碑 (2023/05/04 訪問)

遺構は見当たりませんでした。

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牛若丸

中世城郭をよく現しています。 (2023/05/03 訪問)

中世の城郭をみごとに復元していました。
丸馬出も珍しく堀や木橋、土塁も見事でした。
群馬に行ったら一度は訪れた方がいい城です。

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刑部

道の駅の裏山にある城址 (2023/05/05 訪問)

一向一揆の舞台の城。
鳥越城址の後に行きました!

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じゅんじん

豪族のお城 (2023/03/21 訪問)

小規模ですが明確に残っています。整備もされておりお勧めできますね。

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牛若丸

ほとんどが市役所になっています。 (2023/05/03 訪問)

一部の遺構が残っているだけで、ほとんどが公園になっていました。
堀や土塁は確認できます。

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じゅんじん

土のお城 (2023/03/21 訪問)

虎口、堀、土塁 素晴らしかった。よいお城です。駐車場もあります。

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牛若丸

応仁の乱の山名氏発祥の地 (2023/05/03 訪問)

ここに行くまでに上野三碑の一つ山之上碑を通らなければなりませんでした。
山之上碑から歩いて15分くらいのところにあります。

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牛若丸

平井城の後詰めとされる城 (2023/05/03 訪問)

山城なので当たり前ですがかなりの急坂でした。
本丸まで片道30分はかかります。道中は道がわからなくなる箇所もありましたが見応えある山城です。
遺構も良く残っています。

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牛若丸

GWに攻城 (2023/05/03 訪問)

GWに攻城しました。
堀や郭などの遺構も良く残っています。駐車場もありました。

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刑部

公園にある台場跡 (2023/05/05 訪問)

台場といえば海の近くと思って来ましたが結構離れてます、昔はもっと近くに海があったんでしょうね?
公園の池には亀がたくさん日向ぽっこ。

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じゅんじん

牛久城の支城 (2023/03/21 訪問)

大きなお城です。土塁が残っていました。

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ヒロケン

江戸城の門2 (2023/04/29 訪問)

江戸城の門 前回の続き、正門から投稿させていただきます。

7、正門(西の丸大手門) 正門に続く正門石橋とその奥にある、正門鉄橋の二つの橋を総称して、二重橋と言われ撮影の定番となっています。
8、坂下門 この門は、宮殿のある西の丸造営後に造られた門です。老中安藤対馬守が水戸浪士の襲撃を受けた「坂下門外の変」の現場でもあります。
9、桔梗門 坂下門から蛤濠を沿って歩くと桔梗門に着きます。桜田門が外桜田門と呼ばれ、桔梗門は内桜田門と呼ばれました。
10、大手門 1607年藤堂高虎公によって建造され、江戸城修復に際し伊達政宗公が現在のような枡形の城門にしています。大手門の警備は極めてかたく、鉄砲30丁、弓10張などが常備され譜代10万石以上の大名が警備していたとされています。
11、平川門 この平川門は御三卿の登城門で大奥に最も近い門で大奥女中の通用門として使用されていたようです。この門は、当時のまま、高麗門・渡櫓門・枡形が残っており、この三つが残っているのは、大手門、桜田門、桔梗門と4箇所のみです。

今回、江戸城を4月8日と4月29日両日に訪ね、やっぱり「江戸城は素晴らしい」(*^▽^*)と感じました。城の規模・城の美しさ等、どれをとっても日本一だと感じました。(天守閣が残っていないのは残念ですが)
ただ、4回訪問した内、2回、5割で皇居外苑の警備にあたっているいる、警察官に注意を受けました。「柵内に入らないで下さい」と、夢中になり過ぎて、ついつい(>_<)、皆様もご注意ください。

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じゅんじん

玄関 (2023/03/21 訪問)

陣屋の玄関が現存です。小学校の入り口に説明板がありました。本丸の神社にも行きました。

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ぴーかる

二塚城 (2023/04/02 訪問)

【二塚城】
<駐車場他>石碑の場所に車を寄せて駐車しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目6城目。この城跡は下調べせず行って、現地に説明板もなにも無く、よく意味の分からない碑があったので、後で調べて個人サイトの方のを引用しました。二塚城は太刀城ともいう。鎌倉時代後期に越中守護の北条時有(名越時有)(以下名越時有)によって築城され本城の放生津城の支城的役割の城だったようです。名越時有は後醍醐天皇が隠岐の島に配流された時に皇子である恒性皇子を二塚に幽閉します。後醍醐天皇が隠岐の島を脱出した際に反乱を恐れて名越時有は恒性皇子を殺害します。墓陵が城跡碑の南にあります。恒性皇子に従った皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通も首をはねられさらされます。現地の「三ヶ首」の碑はこのことかと思います。その後反幕府勢力が越中国に押し寄せてきて、名越時有は二塚城は放棄し放生津城へ撤退するも落城して自刃します。
 現地の「鐘堀」は名越時有が梵鐘を2つ造らせ1つは城の時鐘、1つは寺に寄進したそうですが2つともなくなったそうです。後世に1つが二塚城の堀跡から発見されて南にある浄誓寺の釣り鐘になっているそうです。
 前述の通りちょこ城と思い、ちゃちゃっと写真だけ撮ってしまいましたが、後から調べて血なまぐさい歴史がある城だったとは知らず、皇子の墓陵もお寺さんの鐘も見ずじまいでおしいことをしました。碑を3つもつくるなら、現地に説明板くらい欲しかった。

<満足度>◆◇◇

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じゅんじん

縄張り (2023/03/11 訪問)

比企のお城はいいお城が多いです。
杉山、菅谷、松山、小倉もよかった。ここも山頂周りは巧みな縄張りでした。

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じゅんじん

眺め抜群 (2023/03/11 訪問)

神社まで急坂でした。景色は抜群。立地よきです。神社裏手は遺構が残っておりました。

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じゅんじん

重忠公の家臣 (2023/03/11 訪問)

本田氏のお城です。今でもご子孫が住んでいます。裏手には土塁があるらしいですが控えました。

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