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むらちょ

謙信公は間違いなく此処にいます。 (2023/06/17 訪問)

謙信公に見られている気分になりました。
伊達政宗の生誕地としても、もっと宣伝してほしい。
是非、近くのデカい博物館にも行って下さい。展示物は中々の物が多いのに、神社に比べたら人が少なすぎます。人混みにウンザリしたらホっとできます。

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むらちょ

最高な復元度合い! (2023/06/16 訪問)

現状の復元度合いも凄いですが、復元予定になっている所、発掘調査中の所もまだまだあるので今後も期待できます。

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トク

交通機関で能島城へアクセスする方法

村上水軍の能島城(続100名城)には、車で行くのであれば簡単に行けますが、交通機関で行く方(私のような飲旅族🍺など)には、瀬戸内海のまん中にあるこの島へはどうやって行ったらいいの? と悩む方がいると思います。そこで、私が以前に行った方法を御紹介します。

今治城に行く時に「しまなみ海道」を走る高速バス(しまなみライナー:1時間毎)で福山駅前から今治行に乗り、途中下車すれば能島城まで行けますよという話をちょっとしました。その続きです。

能島城へ行くには、途中の「大島」で下車して下さい。降りたバス停に島内タクシ-の電話番号が書いてあるので呼んで、「村上水軍博物館(海賊ミュージアム)」へ行かれて下さい(約15分)。島内バスもありますが、一日数本(3~4本)しかないので時間的に余裕がないと難しいです。スタンプはここ博物館内です。館内見学は約30分くらいです。村上武吉の石像があり、かつての村上水軍の強さの秘密や、秀吉と対立した歴史などが展示説明されていました。

博物館のすぐ前から潮流体験の船が約1時間毎に出ています。これはぜひ必見です! これに乗らずして何しに来たの?という感じです。ガイドさんの案内を聞きながら村上水軍の気持ちになってスリル満点の潮流体験をして下さい! そして能島城の真近まで行って1周してくれます。所要40分です。上陸はできません。どうしても上陸したい方は、土日祝など環境保護のため期間を限定して上陸ツアーもあるようです。

帰りはまた元の大島バス停まで戻って高速バスに乗ってもいいですが、私は博物館前からたまたま友浦行のバスが来たので、「友浦港」へ行きました(約15分)。実はここから今治行の高速船が出ています。わずか20分で今治港へ着きます(1日7便)。港を降りると、今治城が見えます(徒歩10分です)。港から今治駅行のバスもあります(歩くと20分)。

潮流体験や高速船やバスの時間などに合わせて、スケジュールを組まれたらいいかと思います。

でも博物館前には海鮮バーベキューの店などもあったので、今度はゆっくり訪問し、海を見ながらおいしい物を味わってみたいな~(これは一人言です😩)。


【注】高速バス「しまなみライナー」
以前は福山駅前に券売機や窓口がありましたが今はありません。よってスマホで事前購入できるアプリがあるのでそれを利用されるか、降車時に現金を直接運賃箱に入れて下さい。車内では1万円5千円の両替はできません。全国共通の交通系ICカードも使えません。丁度のお金を準備し乗って下さいね!😊 予約不要・先着順乗車です。時刻・運賃の詳細はホームページで確認されたし! 今治港・今治駅からも福山駅行(大島下車可)に乗車できます。

南四国の究極の鉄道旅もしてきましたので、次(20人目)の後にまた御紹介します。

P.S 赤い城さん、四国での新たな人生がんばって下さい。私も現在四国の城を開拓中です。四国の後はぜひ九州へも、西日本には楽しい城がいっぱいありますよ-!
 

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しんちゃん

この城で島津軍と幕府軍が戦ったら?おそらくどっちも大惨事。 (2023/01/06 訪問)

建昌城は標高100m比高90mの広い扁平地にまるで平城のような縄張りで
築かれています。車で簡単に行くことが出来、山城と平山城と平城のすべての
特徴を備えています。東西は300m以上あり(周囲2km以上)本丸の左に二の丸、前の丸、
胡麻ケ城と続きます。本丸の西には櫓の丸、西の丸と続き、南には南の丸、常見の丸、
東の丸が存在します。非常にたくさんの郭があって、それぞれが十分に広いのですが
その間を堀切が仕切っていて本丸、二の丸の周辺には土塁が残っています。
南北を仕切る堀切は非常に大きく、まるでトラクターの通路かと錯覚してしまうほどです。
関ヶ原の合戦後、空き城だった建昌城を徳川軍の襲来に備えて島津氏が防備を強化したらしいですが
この巨城に無敵の島津軍が籠って戦ったら、さすがの幕府軍もさぞかし手を焼いたことでしょう。

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しんちゃん

島津義弘最後の居館と詰めの城。鉄砲を最初に使用した伝説が残る。 (2023/01/06 訪問)

加治木城は天文18年(1549)日本で初めて種子島銃が実戦で使われたと伝わります。(諸説あり)
城主肝付氏は島津氏に降伏し重臣となります。
その後、豊臣秀吉の蔵入り地となり、慶長12年(1607)島津義弘がこの地に入ります。
加治木城を詰めの城として、義弘は麓の居館に居住し、元和5年(1619)生涯を終えます。
だいぶ藪がひどいのですが、入れそうなところは拝見させていただこうと思います。
本丸は家屋があるので簡単に確認し撤収、二の丸は畑地になっていたと思います。
お馬場は急な斜面を登れば現状を一望できます(藪ですが)。
北側の通路を進みながらかつての馬場(犬馬場?)と高城を確認します。
これでだいたい城跡は確認できました。島津義弘の居館跡は加治木高等学校や
柁小学校になっており、近くに郷土館もあります。


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しんちゃん

南北朝島津氏飛躍の城。天気が良ければ桜島を一望できる。 (2023/01/06 訪問)

南北朝時代、島津氏は出水に拠点を構えていましたが、5代貞久は北朝に属し
南朝方の鹿児島郡司矢上氏の東福寺城を攻め落としました。
東福寺城に拠点を移した島津氏は、やがて清水城、内城、鹿児島城と拠点を移していきます。
東福寺城は今は公園になっており簡単に登れるようになっています。
最初の郭がかつて浜崎城と呼ばれていたあたりのようで、その周辺に東郷平八郎の像と
墓があります。天気が良ければ桜島が一望できるのですが、あいにくの曇空です。
2014年に来たときは桜島が良く見えたのですが、2023年は阿蘇山を訪問して
非常に晴天にめぐまれたので、どちらかが良ければどちらかが悪いということでしょうか。
東福寺城の石碑のある郭からさらに上まで行けるようです。
最上部に突き当たるのですが、かつてはその上の丘陵地も城域に含まれていたようですが、
ここまでで、かつての城域の8割は確認できただろうと思ったので
あえて無理はせず、ここで引き返しました。
海側は絶壁だとのことで、情報が不足していると危険だと判断しました。





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しんちゃん

島津義弘のかつての居館跡。石垣はいつの時代のものなのか。 (2023/01/06 訪問)

平松城は現在、重富小学校になっています。天文23年(1554)蒲生方の岩剣城
を落城させたあと、島津義弘が城番となり麓に平時の居館として築かれました。
江戸時代の天文2年(1737)藩主島津継豊は弟、忠期に越前島津家を再興させ
重富郷の領主居館として機能しました。
小学校の周囲は石垣で囲まれ往時をしのばせます。北側から東に移動し
そこから南側に緩い坂を上って石垣が続いていくのですが、周囲にも石垣があり
どこまでかつての遺構なのかはわかりません。

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ぴーかる

長島城 (2023/05/03 訪問)

【長島城】
<駐車場他>やすらぎパーク駐車場30台程度
<交通手段>車

<見所>移築門
<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅9城目。現地説明板によると、長島城は文明年間(1469~1487年)に伊勢国安濃郡の長野一族と伝えられる伊藤重晴によって築城されたとされます。1570年頃に長島北部の杉江にある願証寺が浄土真宗の一大拠点となると伊藤氏は滅ぼされ長島一向一揆の拠点となります。1574年に織田信長の攻撃で落城します。江戸時代に入ると菅沼氏・松平氏が長島藩主となりましたが、4代将軍徳川家綱の生母宝樹院の弟増山正利の子である増山正弥が藩主となると明治維新まで続きました。
 上記駐車場に駐車して先の投稿の願證寺に行きました。次に蓮正寺にある移築大手門の一部の高麗門を見て、長島川(堀川か?)・長島橋を通り城跡の小中学校にある説明板、先達の方々に教えてもらった大手橋に残る石垣を見て終了しました。

<満足度>◆◇◇

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ゆいと

少しきつい山城登り (2023/06/25 訪問)

篠の丸城の山の名前はもみじ山です。山登りは少しきついのでつえを持っていくことをおすすめします。本丸跡には説明板があって篠の丸城の歴史が読み取れます。  

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しんちゃん

鹿児島城に移る前の島津氏の本城らしいけど‥。 (2023/01/06 訪問)

内城は天文19年(1550)島津貴久によって築かれ、平安時代より使われている
東福寺城を詰めの城としました。
慶長7年(1602)城主、忠恒の命により島津氏の本城は鹿児島城に移り、跡地には大龍寺が
建てられ、明治時代の廃仏毀釈によって、跡地に大龍小学校が立てられました。
遺構は残ってはいないのですが、手水鉢と庭石がわずかに現存していると言います。

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朝田 辰兵衛

葛尾城散策 2/2(山頂部石垣→磯部口登城口)を。 (2023/05/04 訪問)

GW遠征の一番の楽しみは,葛尾城散策でした。雨男ゆえに,雨を心配しておりましたが,猛暑に見舞われました…<苦笑>。
往路は,坂城神社登城口から,徒歩約55分で山頂部到着。東屋にノートがあったので記帳。そして,北側尾根に向かって散策開始。大小6~7本(たぶん)の堀切を経て,石垣にたどり着きました。見どころは,この石垣だと思います。
東屋に戻り小休憩。復路は,西側尾根を伝い,徒歩約55分で磯部口登城口へと。坂城神社ルートに比べると「ワイルド」です。途中に岩崎城があるハズだったのですが,とくにパネルも碑もなく,確定に至りませんでした。ただ,この堀跡と土塁は間違いないだろうというポイントは撮影しました。それなりに楽しめた西側尾根ですが,夏場や雨天時はお勧めできません。

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朝田 辰兵衛

葛尾城散策 1/2(坂城神社登城口→山頂部)を。 (2023/05/04 訪問)

GW遠征の一番の楽しみは,葛尾城散策でした。雨男ゆえに,雨を心配しておりましたが,猛暑に見舞われました…<苦笑>。
往路は,坂城神社登城口から,徒歩約55分で山頂部到着。東屋にノートがあったので記帳。そして,北側尾根に向かって散策開始。大小6~7本(たぶん)の堀切を経て,石垣にたどり着きました。見どころは,この石垣だと思います。
東屋に戻り小休憩。復路は,西側尾根を伝い,徒歩約55分で磯部口登城口へと。坂城神社ルートに比べると「ワイルド」です。途中に岩崎城があるハズだったのですが,とくにパネルも碑もなく,確定に至りませんでした。ただ,この堀跡と土塁は間違いないだろうというポイントは撮影しました。それなりに楽しめた西側尾根ですが,夏場や雨天時はお勧めできません。

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カズサン

虫川城と虫川の大杉 (2023/06/18 訪問)

 直峰城から北に直線で約3km程の所に虫川城は在ります、林道から国道403号線に戻り県道43号線を北上、史跡マークの虫川の大杉を目指します。
 以前三宅裕司の旅番組で虫川の大杉が登場し道すがら案内看板に虫川の大杉と虫川城跡の文字が映って居ましたので記憶に有りました。

 駐車場:虫川の大杉の有る白山神社駐車場利用。(37°09'18"N 138°26'47"E h=50m) トイレ無し。

 先ずは虫川の大杉の見学と白山神社参拝、幹の太さの驚愕、樹齢1000年以上、目通し10.6m、樹高30m、枝周り・東に14m 西に13m 南に8m、北に12mの巨木です。樹木保存の基金箱にささやかな寄付はしました。

 虫川城跡はそこから北へ集落を通って150~200m程で虫川霊園に当たり、そこな根小屋跡、馬場跡で鳥瞰図付虫川城解説板がある、霊園参拝者の砂利舗装駐車場も有る。
 比高は40~50m程、墓地の東に登城口、回り込んで二の丸への堀底道を通り二の丸へ、全体に熊笹が茂ってる、切岸丸太階段を登り腰郭跡、城門跡、井戸跡の看板の有る曲輪へ道以外は藪状態、回り込んで本丸下の曲輪と土塁、本丸丸太階段を登り本丸へ、矢倉跡の高まりが二基、一つには東屋が建っている、本丸より東、北は保倉川へ落ち込む絶壁で防備万全。

 案内板によると、三国街道を守る直峰城の支城的役割をしたのではないかと、詳細は不明。

 情報とガイドはグーグルマップ、越後の城虫川城ネット情報による。

 比高も低く、階段段差も低く膝の痛みも少し収まり登る事が出来ました。
 

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カズサン

上越市未踏の城廻Ⅱ 謙信公関東遠征の中継城郭 (2023/06/18 訪問)

 3年位前から登城したいと願って居た城でやっと訪ねる事が出来ましたが両ひざ痛で登城途中断念。
 直峰城はノウミネジョウと呼称されています。

 駐車場:専用の駐車場、トイレ完備、(37°08'19"N 138°27'03"E h=240m 比高90~100m) 国道403号線に案内看板が有り、林道を約900mで到着、アスファルト舗装です。トイレにパンフレットが有りました。
 案内ガイド:古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。

 前日は午後過ぎに箕冠城登城と春日山城再登城で以前から左ひざの痛みが増していましたが、各重臣の屋敷跡をゆっくり見ながら登城しようと搦手登城路を選択、その前に二階建てトイレの前面に掲げてある、直峰城跡俯瞰図付き解説板、散策のご案内図、武将・風間信濃守信昭の解説板を確認撮影し、スタート、当日草刈の人材派遣の軽トラックが6台駐車しており既に山城中より草刈り機の音が鳴り響いている。
 案内看板は搦手側、大手側とも徒歩約15分と記されている、丸太階段を登り、上杉藤五郎房友殿屋敷跡、隣の池が水を湛えてる、更に進み、池田隼人正賢殿屋敷跡、家老宅馬若狭守殿屋敷跡、丸太階段を更に登り、三の丸へ続く直登り丸太階段辺りで今度は右ひざが痛み出し、登城路は朝から草刈がされておりコンデションは良く、熊も6人の草刈り機の音で逃げて居る事でしょうし、絶好の登城日なのですが、両ひざの痛みではままならず、引き返すことにしました、誠に残念です。
 高低差のある階段ではひざに痛みが来るかも? 大手道の観音堂までは足を延ばしました。

 時空を超えて謙信公と場所をおなじゅうした事でも良しとしました、中々来れないところですので誠に残念でした。
 皆さんの投稿写真で行った気分にしたり雰囲気を楽しみます。

 

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Fカット

駐車場とパンフレット (2023/06/18 訪問)

駐車場、トイレもあり、道に迷うことなく案内板があります。駐車場のところのポストにパンフレットが入っています。
駐車場までの道は離合できるところが少ないので注意が必要です。

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モト

資料館になっている模擬天守がありました。 (2023/06/23 訪問)

別名天ケ城というみたいです。
地図には天ケ城となっておりました。
資料館が建っていて、カッコ良い城の形をしてます。
ほんと見た目かなりカッコの良い模擬天守でした。
資料館は土日祭日オープンです。

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トク

㊾【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と津城) (2023/02/11 訪問)

(19人目)藤堂高虎の続きです。
高虎の最後の居城となった「津城」を訪れてきました。
名鉄「津新町」駅から歩いて15分程です。

ここにも藤堂高虎の像がありました。ここは今治城と違って、鎧兜(よろいかぶと)姿の勇ましい高虎でした(写真①②)。城の横には高虎を祀る高山神社があります。スタンプ場所の社務所には高虎の肖像画があり、願札がほほ笑ましかったです(写真⑥-⑩)。

高虎が今治城を築城開始してからわずか6年後の事、もう少しで天守が完成という時に伊予から伊勢へ国替となったのが、私には何故かとても不自然に思い気になっていました(普通なら断るはず)。この時大坂では不穏な動きがあり、表向きは豊臣と万が一戦になった時、要衝地の伊勢や背後の名古屋城を守るため、また大坂方の(豊臣諸将にも信頼されている)調略上手の高虎なら周辺諸将を徳川方に寝返らせる事ができるのではないか? などといった理由もあったようです。しかし私は本当の理由は、伊予隣国の加藤嘉明との不仲が表にあらわれ、一発触発状態になったため、それを避けるためにあわてて国替えしたのではないかと思っています。記録にはないのであくまで私の勝手な推測ですが、高虎の方から嘉明との争いを避けるために自ら国替えを申し出たのではないかと思いました(その時たまたま伊勢の領主を募集していた)。

嘉明とは、朝鮮出兵での論功行賞でのいざこざが始まりで、伊予でも国境を巡り常に争いが絶えず、家臣たちの間で騒動(拝志騒動)まで起きてしまい、もはや一発触発状態だったようです。よってその影響もあり、高虎は悩んだあげく自ら身を引いたのではないかと思います。何故か私には高虎という男がそういう人物だったような気がしてなりません🤔。

そして、その20年後の1627年、会津40万石の蒲生忠郷に嫡子が無く、代わりに徳川秀忠から高虎に加増転封を打診されました。しかし高虎はそれを断り、代わりに何と!・・・加藤嘉明を推挙したとの事です。 嘉明は自分を推挙したのが高虎だと知り、松山から会津への途中に高虎を訪ね、推挙のお礼に今までの事を全て詫びたそうです。何か美しい話だな~と思いました。そして津藩は、そのまま幕末まで藤堂家が治める事となりました。

また関ケ原の4日後の事、捕らえられた石田三成は大津城の門に縛られていました。福島正則らが罵声を浴びせる中、高虎はわざわざ馬から下り「貴殿の隊は大変強かった。貴殿から見た私の隊はいかがであったか?」と尋ねたそうです。すると三成は鉄砲隊に優秀な指揮官がいなかったため命中率が低かった事を指摘したようです。この言葉に高虎は大変感謝したとか・・・

高刑の意思を引き継いで大谷吉継の墓を建てて菩提を弔い、そして石田三成には見事に戦った武将として最後まで敬意を払い、また加藤嘉明との揉め事も最後は広い心で丸く収めたこの藤堂高虎に対し、私は「好プレー賞」をあげたいと思います!!!😊

次は、(20人目)へ続きます。
 

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赤い城

新天地 (2023/06/20 訪問)

8月からの新天地、高松へ家を探しに行ってきました。
1日目で決まったので2日目は早起きして高松城を散歩出来ました。
早朝だったので外周を歩くだけ、と思ってたらこの時季は5:30開門。中も散歩できました。
まずは外周です。
西門から石垣と水堀を見ながら海側を進みます。
月見櫓は改修中でした。
レグザムホール、県立ミュージアムを経て大手へ。
艮櫓を見上げながら南側を進み一周。
西門に戻り二の丸へと入って行きました。
入園祝は200円、1年間有効の定期入園券もあります。
二の丸からまずは復元された天守台へ。
鞘橋を通り桝形の虎口を経て天守台に登りました。
見晴らしも良く気持ち良いです。
天守の再建計画もあるようですが今後どうなるのか。
二の丸に戻り、鉄門から水門を経て披雲閣。
さらに再建された桜御門を通り大手にかかる旭橋から出ました。
これからはこの城下で過ごすことになりますが期待半分、不安半分。
まぁなんとかなるでしょう。
とりあえず引越準備しなきゃ。

あさん、メッセージありがとうございます。
確かに関東を離れることは少し前から考えていて未訪や再訪したい城を駆け足で廻ってきました。
四国ではじっくりと廻りたいです。

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しんちゃん

加藤氏による総石垣の城。支城とはいえ本城のスケール感。 (2023/01/04 訪問)

八代城は熊本城と麦島城で一国二城制を取っていた肥後の国に
麦島城の廃城後に築かれました。
最大の目的は島津勢力の牽制だと思われます。
外様大名を抑えるために外様大名を利用するという発想もいささか
安直だとも思われますが‥。事実、外様大名が結託することで徳川将軍家は
滅んでいます。江戸で暮らす将軍や大老たちにとっては
遠い九州のことなどそれほど頭になかったのかもしれません。
八代城は周囲を見事な石垣で覆われ、今でも本丸の周囲は堀で覆われています。
現在は左寄りの中心地に八代宮が建ち、南から橋を渡ってすぐにたどり着きます。
北西部に小天守台と大天守台があるのでそちらに向かいます。
天守台も見事な石垣で加藤氏が築いた天守がどれほど立派であったか想像できます。
北と東にも橋がかかっており、石垣の周囲に沿って6つの櫓跡が並びます。
加藤氏にとっては支城の位置づけに当たるのですが、まったく隙も手抜きも無い造りに
あらためて加藤氏の城だなあ‥と実感がわいてきます。
全体的には熊本城をスケールダウンさせた感じですが、そもそも熊本城が凄すぎるんですよ。


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しんちゃん

出水麓の武家屋敷群。べんがる壁の税所邸。 (2023/01/04 訪問)

出水城は現在立ち入り禁止になっているのですが
出水小学校が出水麓の仮屋跡として、仮屋門が現存しています。
江戸時代、各国は支城を持つことを禁じられていましたが
薩摩藩は各地に代官所(麓)を置くことを口実に詰めの城をいつでも使えるようにして
いざという時に備えていたと言います。
いわば薩摩藩自体が独立した軍事国家の体制をとっていたと言ってよいでしょう。
薩摩の入り口にあたる出水はとくに若い武士たちの教育に熱心であり
勇敢で実直な薩摩隼人としての資質をよく備えていたと言います。
出水麓にはいくつか武家屋敷が残っていて、特に税所宅には面白い指向が施されています。
屋敷の壁が赤いのは薩摩藩が密貿易で富を得て、その富で海外から輸入した高級な顔料を
壁に使用しているからだそうです。べんがる壁‥というらしいですよ。
ほかにも床下に通じる隠し通路があったり、屋根裏に秘密の部屋があったり
まるで忍者屋敷のようです。

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