しんしろじょう

新城城

愛知県新城市

別名 : 新城陣屋
旧国名 : 三河

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豊川から城址方向を見る
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しんちゃん

豊川 (2025/09/15 訪問)

新城城は豊川の北側にある切り立った崖上に奥平信昌によって天正4年(1576)に築かれました。長篠城に代わって新たに築かれたが既に石田の崖上に「新城(しんじょう)」があったので、新城城となったとも言われています。
新城小学校の南に堀と土塁の一部が残っており、石碑が土塁の上に立っているが、ここからではニッポン城めぐりのリア攻めは出来ない。土塁を下って校庭にすこし近づくとリア攻めは出来たが、平日にはやらない方が良いだろう。石碑も校庭に近いし、訪問は休日にした方が良いと思う。再訪になるので豊川方向から城址を見上げてみた。地元の人が川遊びをやっている・・。この近くは桜淵公園のようだ。
新城が天領になった後、慶安元年(1648)に菅沼定実が陣屋を構えて明治に至っている。定実は桜淵公園に桜を植え始めた人物らしい。
地元への功績は大きいのではないだろうか。

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しんちゃん

於ふうさんが可哀そうじゃん (2024/03/16 訪問)

新城城は長篠の合戦の後、長篠城主・奥平信昌によって構えられたのが始まりとされています。彼の最初の妻・於ふうは齢13で武田の人質に送られ16で新城市のコオリ坂で山県昌景により磔にされてしまいました。信昌はこの城に移り徳川家康の長女・亀姫を正室に迎えラブラブ生活を‥ いい気なもんだぜ信昌さん。於ふうさんが可哀そうじゃねえかって、これが世知辛い戦国の世ってもんですか。
城址はほぼ新城小学校の敷地内となっており立ち入りはできません。ただ南東部から土塁のある城址南部に入れる箇所があり残存する遺構を確認できました。実はこの城に来るのは3回目なので裏手から入れるのは知っているわけです。
南東部には土塁と城址碑が残存し、かつての堀跡を確認することができます。南西部には堀が二重に存在し、土塁を一部確認することができました。城址の南部は豊川の造りだした天然の切岸になっています。ただ、さらなる天然の要衝である長篠城からここに移った理由は不明です。うらめしや~が恐かったわけではないと思いますが。

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じゅんじん

小学校 (2023/10/07 訪問)

学校の廊下がかっこいい。城郭風です。

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じゅんじん

新城城 (2018/10/06 訪問)

小学校になっています。陣屋跡でもあります。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 奥平信昌
築城年 天正3年(1575)
主な城主 奥平氏、水野氏、菅沼氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(新城城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県新城市字東入船
問い合わせ先 新城市教育委員会設楽原歴史資料館
問い合わせ先電話番号 0536-22-0673