福原城は平山城で丘陵地の高所に本丸があり、周囲にも郭があり二の丸・三の丸も配されていました。本丸が最も広く、現在は田畑になっています。西側から北側にかけて高土塁が残っていて、上には社も祀られていました。
案内のプレートに拠れば、元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越高家を討取った、佐用兵庫介範家の築城と伝わり、後に赤松三十六家衆の一つ福原氏が城を継いだので福原城とされています。
戦国時代末期、西の上月城、南の高倉城、東の利神城と共に赤松一族の城郭群を形成していたが天正5年(1577)11月、羽柴秀吉との攻防により落城しました。
今、建っている福原神社は時の城主・福原藤馬允則尚の首級を祀っているとされ、別名頭(こうべ)様と言うそうです。
+ 続きを読む