ふくはらじょう

福原城

兵庫県佐用郡

別名 : 佐用城
旧国名 : 播磨

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:福原城 (2026/05/23 訪問)

佐用駅から徒歩20分弱で、神社下(34.9961758、134.351466)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年〜1338年)佐用範家によって築かれたと云われています。
その後、赤松三十六衆のうち福原氏がこの城を継いだので、福原城と言われているようです。
1577年(天正5年)播磨国に侵攻した羽柴軍によって落城し、城主福原則尚は城に火を放ち高尾山円福寺で自刃しました。
落城時は城兵と城内の者すべてが斬られるという凄惨な状況だったそうです。
現在の福原城跡にある社は福原霊社と言い、城主福原氏を祀っており、頭脳明晰だった城主にあやかってお参りする人もいるそうです。

主郭の土塁の上に福原霊社があって、ここに説明板もあります。
土塁の背後は切り通し状になっていて堀切のようです。
主郭の北側に廻ると、土塁がわかり易く、また、堀跡かなと思われる窪みが土塁に沿って巡っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上月城を攻城する為、佐用駅からJR姫新線を利用して上月駅に向かいました。

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しんちゃん

福原則尚 (2025/04/07 訪問)

福原城は平山城で丘陵地の高所に本丸があり、周囲にも郭があり二の丸・三の丸も配されていました。本丸が最も広く、現在は田畑になっています。西側から北側にかけて高土塁が残っていて、上には社も祀られていました。
案内のプレートに拠れば、元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越高家を討取った、佐用兵庫介範家の築城と伝わり、後に赤松三十六家衆の一つ福原氏が城を継いだので福原城とされています。
戦国時代末期、西の上月城、南の高倉城、東の利神城と共に赤松一族の城郭群を形成していたが天正5年(1577)11月、羽柴秀吉との攻防により落城しました。
今、建っている福原神社は時の城主・福原藤馬允則尚の首級を祀っているとされ、別名頭(こうべ)様と言うそうです。

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ぴーかる

福原城 (2025/02/22 訪問)

【福原城】
<駐車場他>駐車場はなし。ゴミステーション横<34.995360, 134.352527>に1台入るので少しの間停めました。
<交通手段>車

<感想>日帰り相生牡蠣買い旅2城目。現地説明板によると佐用城(福原城)は1331年淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越高家を討ち取った佐用範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家のうち福原氏がこの城を継いだので福原城ともいわれています。戦国末期に羽柴秀吉軍との攻防により落城しその役割を終えました。
 現地は土塁跡の上に時の城主福原則尚の首級を祀った祠があります。土塁の1部が残されていますが、土塁内側は田んぼ、その上方が道路を挟んで墓地になっていて城郭の構造はよく分かりませんでした。

<満足度>◆◇◇

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佐用兵庫介範家 (2024/01/06 訪問)

 赤松氏の重要拠点のひとつとなっていた城ですが、戦国時代黒田官兵衛、竹中半兵衛らによって攻め落とされたと伝わっています。土塁上に福原霊社が建てられています。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 佐用範家
築城年 建武年間(1334〜1338)
主な城主 佐用氏、福原氏
廃城年 天正5年(1577)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 兵庫県佐用郡佐用町佐用
問い合わせ先 佐用町商工観光課
問い合わせ先電話番号 0790-82-0670