土塁で囲まれた100m四方の、今川氏に仕えた国人領主松下氏の居館。ちょうど頭陀寺第一公園のこのあたりは微高地になっていて、土塁一部の名残りがわかる。少年時代の豊臣秀吉が天文20年(1551)から3年にわたり松下之綱屋敷に奉公していた。また年少の井伊直政を匿ったこともある。永禄6年(1563)今川氏と飯尾氏の争いのなかで焼き討ちにあい炎上したが、江戸期も松下屋敷は松下之綱の子孫が当主となり続いた。
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2023/12/02 21:35
松下屋敷、市場城ともいう、頭陀寺の門前の城館
土塁で囲まれた100m四方の、今川氏に仕えた国人領主松下氏の居館。ちょうど頭陀寺第一公園のこのあたりは微高地になっていて、土塁一部の名残りがわかる。少年時代の豊臣秀吉が天文20年(1551)から3年にわたり松下之綱屋敷に奉公していた。また年少の井伊直政を匿ったこともある。永禄6年(1563)今川氏と飯尾氏の争いのなかで焼き討ちにあい炎上したが、江戸期も松下屋敷は松下之綱の子孫が当主となり続いた。
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2023/06/19 22:59
頭陀寺城② 出世城の出世魚、豊臣秀吉青春立志編 ※許可を得て掲載しています。 (2023/06/18 訪問)
浜松城付近のもう一つの出世城、頭陀寺城「重箱の隅編」です。
頭陀寺城の南東部は、かつて若き日の豊臣秀吉が奉公した松下氏の屋敷です。
公園のあたりには堀、土塁が築かれていたようですが、中心部はその東の
かっぱ寿司頭陀寺店になるようです。
昼食をとりに寄らせていただきましたが、せっかく天下人ゆかりの最初の城跡に
来たのだから、出世魚をいただこうと思います。
出生魚といえばスズキ、ハマチ‥やはりここはハマチで行きましょう。
後日、かっぱ寿司さんにお伺いしたところ、快く掲載をご了承いただきました。
ありがとうございます。
さてこのあたり、若き日の秀吉の怪しげな伝承地が残されています。
①鎌研池‥若き日の秀吉が鎌の切れ味を試すために葦の片葉ばかりを斬っているうちに
池には片葉の葦ばかり生えるようになったと言います。遠州七不思議の一つとして
語り継がれているそうです。
②目刺橋‥若き日の秀吉がメダカを松葉で狙って手裏剣の練習をしていたそうです。
その後池には片眼のメダカが現れるようになったと言います。
若き日の秀吉さん。あなたは忍者か妖術使いですか?
秀吉が松下家を去った時の逸話は諸説ありますが、之綱からもらった金子を
元手に行商をして尾張まで来て、信長に仕えたのかもしれません。
松長之綱はのちに秀吉に取り立てられ1万6000石の所領を与えられます。
そして秀吉が亡くなる5か月前に亡くなります。
豊臣氏の衰退を見ずに亡くなったのは之綱さんにとっては幸いだったのではないでしょうか。
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2023/06/19 21:54
頭陀寺城① 頭陀寺、松下屋敷編 (2023/06/18 訪問)
頭陀寺はかつて天竜川下流にあった広大な「川匂荘」の現地荘官として
四十六所明神とともに荘園の中核を成していたと言います。
頭陀寺から南にかけ多くの塔頭寺院をかかえ、南東には土塁と堀を構えた
今川氏に仕える飯尾氏の寄子(与力のようなものだと思われる)、松下之綱の屋敷(館)もあり
このあたりを総称して頭陀寺城と呼んだそうです。
松下屋敷には木下藤吉郎(豊臣秀吉)が天文20年から3年にかけて
奉公していたと伝わり、周囲には藤吉郎ゆかりの地が残っています。
屋敷跡の石碑が建つ公園はおもに堀、土塁があったところで
うっすらとした高まりがかつての土塁を感じさせます。
土塁の右手がかつての屋敷跡の中心地になるようですが
いまは某有名回転ずしチェーン店が建っているようです。
まだおなかがすいていないので、浜松城へ行ってから寄ってみようかな。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 松下氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 松下氏 |
廃城年 | 永禄7年(1564) |
遺構 | 消滅 |
再建造物 | 石碑(松下嘉平次屋敷)、説明板 |
住所 | 静岡県浜松市南区頭陀寺町 |