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にのまる

宇都宮城から徒歩で行きました。 (2023/08/16 訪問)

宇都宮城から2kmくらいです。
途中、中央通りといちょう通りの交差するところに大きないちょうの木が見えました。
近づいてみると、この場所は宇都宮城の三の丸と百間堀の境の土塁で、いちょうの木は宇都宮城の清明館で催されていた「うつのみやの戦災展」でいただいた資料にあった「復興のシンボル 大いちょう」でした。宇都宮空襲で被害を受けて黒焦げになってしまったものの翌年には新芽を吹き、青々とした葉を茂らせたのだそうです。隣接するビルの9階よりも大きいです。
推定樹齢400年ということは、宇都宮家終焉の頃に芽吹き、秀忠から家慶までの日光社参や、本多正純の町づくりから改易までも見てきたのでしょう。戊辰戦争では、この木自身が危ない目に遭ったかもしれません。

その先には宇都宮城大手門跡。
戸祭城に向かっているのですが、まだまだ宇都宮城内です。

県庁の西側、昭和小学校の裏の路地に戸祭城の城碑がありました。お住まいの方以外の人や車は通らないような静かな通りです。

石碑が城址を示すだけではありましたが、戸祭城のおかげで宇都宮城の見ていなかった遺構や跡地を通ることができたので、行ってみてよかったです。

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御嶽宿(可児才蔵生誕の地)  (2023/10/14 訪問)

 中山道49番目の宿場町御嶽宿は岐阜県可児郡御嵩町にあります。戦国時代の人で「笹の才蔵」としても知られる可児才蔵は、御嶽宿にある願興寺にて生まれ幼少期を過ごしたと伝わっています。笹の指物を背負って戦い、敵の首を討つことが常に多くてとても腰に抱えることができなかったため、笹の葉をとって首の口にくわえさせたと伝わっています。他にもおもしろい逸話があり、興味ある人物です。朝倉義景の側室が身重の体でこの地へ逃れてきて才蔵が生まれたという説も説明板に書かれていました。
御嶽宿は才蔵ゆかりの願興寺の門前町として発達しました。その願興寺の本堂は国指定の重要文化財ですが、現在解体修理中です。

名鉄広見線御嵩駅で「山城に行こう2023」のポスターを見つけました。11月11日、12日に岐阜県可児市広美地区センターで開催されるようです。可児の山城巡り等のイベントの他に、春風亭昇太師匠、中井均先生、加藤理文先生、栗原響大君(お城博士ちゃん)などの講演会もあるようです。詳しくはHPをご覧ください。

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御嵩城(権現山城) (2023/10/14 訪問)

 岐阜県可児郡御嵩町にある城址で、城びとには未登録です。金峰ふれあいの森として整備されています。登城口へ行くと「金峰神社 霧の本丸」「木もれ陽の出丸」という標識が左右にありわかりやすくなっています。曲輪、土塁、竪堀等が残っています。本丸には金峰神社の本殿がありました。縄張り図を見ると畝状竪堀があり探索しました。確かに畝状竪堀はあると思われますが、浅くなっていたりしてわかりにくかったですね。説明板などは見当たりませんでした。

 岐阜の旅サイトの説明には「伝承によれば、金山城主森長可は権現山城に大軍をもってたびたび攻め込みましたが、権現様のお使いの白い大蛇が霧を出して阻み、攻略できなかったことから、「不落の霧隠城」と呼ばれていました。ところが、小栗信濃守は城の守りを強固にするため、権現山より見晴らしがよく、防御に有利な西方の本陣山に、城を新しく築き移動しました。すると、これまで得られた権現山の大蛇の加護がなくなり、敵に攻められて落城したと伝えられています。」とあります。それで霧の本丸と表示があったのですね。先に投稿した本陣山城の方は公園となっていて遺構はあまりないと思われますが、この権現山は山城の雰囲気をよく残しています。

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御嵩城(本陣山城) (2023/10/14 訪問)

岐阜県可児郡御嵩町にある城址です。城びとには未登録です。小栗信濃守重則が天文年間に築城したと伝わっています。以前は隣の権現山に居城があったようですが、防御力の高いこの地に移したとのことです。御嵩城址公園となっていて遺構はよくわかりません。説明板では空堀がありように書いてありますが、埋めてしまったのかわかりませんでした。眺めはとてもよいです。

 名鉄御嵩駅より徒歩15分くらいで行くことができます。

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織田晃司

流行に敏感なので (2023/10/08 訪問)

大河ドラマ「麒麟がくる」終了後3年経ち光秀の城・周山城に登城(笑)
石垣のある周山城(東の城)と土の城の西の城があります。

周山城がディナーとすれば西の城はデザートとなります。
周山城だけだと約1時間強。西の城を加えると約2時間強が目安です。

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織田晃司

京丹波の八木だメェ~ (2023/10/08 訪問)

キリシタン大名・内藤如安(ジョアン)の山城。
天候が気になりすべてを見ることはできませんでしたが、本丸の石垣、堀切、曲輪等確認できました。

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シャンシャン

立派な石垣が連なる城跡 (2023/10/11 訪問)

駐車場から石段を登っていくと、立派な石垣が現れる。
天守や櫓はないけど、この石垣だけでも充分見に行く価値がある。
頂上からの景色も絶景!
昔の人は人力でよくこんな山の上まで、数多くの大きな石を運んで立派な石垣を作り上げたものだと感心する。

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織田晃司

信長の野望をプレイしたことのある方は (2023/10/07 訪問)

家臣にして重宝した鉄砲の名手・稲富氏の居城。

最後の写真の縦堀はインパクトありますが実は、神輿を社殿に通すために後年に掘られたものです。

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織田晃司

細川藤孝(幽斎)・忠興父子の (2023/10/07 訪問)

築城・入城した宮津城。

近くに宮津城の前に居城とした山城・八幡山城があります。
本丸に僅かに石垣が残っているのと、見張り場から天橋立がほぼ貸し切り状態で眺める事ができます。

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織田晃司

一休さんの将軍様 (2023/10/07 訪問)

足利義満が立ち寄りその景色を絶賛した高浜城。

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織田晃司

間違っても (2023/10/07 訪問)

大飯原発の方へ曲がらないように…面倒くさい事になります。

赤礁崎オートキャンプ場内にあります。

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織田晃司

旧小学校やJRや畑で (2023/10/07 訪問)

改変されてますが本丸や空堀は残ってます。
写真は遺構であろう石垣を撮ってます。(畑の石垣も存在するので注意)

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織田晃司

BKネットワーク(琵琶湖ネットワーク) (2023/10/07 訪問)

織田信長の安土城。明智光秀の坂本城。羽柴秀吉の長浜城。織田信澄の大溝城と琵琶湖の水運の要所をつなぐ湖上ネットワーク。
本丸の石垣が残る。

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織田晃司

国東半島の片隅に (2023/09/17 訪問)

ペトロカスイ歴史公園の裏山にある岐部城。
岐部城のある山の反対側にあるもやし公園が気になる。

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ryu

篠山城 (2023/09/30 訪問)

JR篠山口駅東口でレンタサイクルを借り、八上城(高城山)に登城(登山)した後、河原町妻入商家群の街並みを散策し、篠山城へ。
八上城(高城山)駐車場から河原町経由で約4㎞。

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ryu

八上城 (2023/09/30 訪問)

篠山城探訪前に訪城。
JR篠山口駅東口でレンタサイクルを借り、高城山登山口までの約7kmをチャリで走る。
登山口から山頂(本丸跡)までは比高250mくらい。9月末とはいえ、山中に残る石垣や曲輪も夏草で覆われているし、残暑も厳しく山城歩きには少し早すぎたか。
篠山城大手前の駐車場横に八上城の屋敷門を後年篠山城下の武家屋敷門として移築した門が残っている。

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カズサン

麓の林道より眺める (2023/09/18 訪問)

 大波城を終えて場所も近く陽も有り、7年前に相馬中村城初登城前に国道115号線より霊山城の各峰を眺めて居りましたが、自身の体力脚力では登城も叶わず、せめて麓より名峰を眺め霊山城、北畠顕家を偲ぶかなと、霊山町石田辺りより林道県道31号線を走り林間より見える峰々を眺めつつ、霊山閣登山口まで走行約4km程、同登山口には霊山紫明峰縦走マップ(霊山閣登山口)が掲示されて居ります、三角コーナーに駐車が可能。
 引き返して「りょうぜんこどもの村」入口より名峰霊山を別角度で眺める、行きは国道115号線でしたが福島への帰りは新しく開通した東北中央道無料区間の霊山飯舘ICから霊山ICを利用し道の駅伊達りょうぜんで資料などを探し求める、また道の駅内部に霊山寺復元画「中世寺院城郭霊山城」が掲載されていました、ありがたく撮影。

 歴史的には南北朝時代南朝の大忠臣北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥の国府を多賀城より移し国府を開き霊山寺院城郭化し南朝の陸奥の拠点とした、北畠顕家はじめ陸奥勢は義良親王を奉じて上洛を開始、10年余りで北朝との攻防の末落城、若き北畠顕家が偲ばれます。
 参考資料:グーグルマップ、伊達市観光ガイド道の駅で入手
 

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しんちゃん

城主細野氏は不甲斐ない主家に反抗し織田氏相手に意地を貫くが (2023/10/08 訪問)

安濃城は長野氏の分家である細野氏によって築かれ、長野氏が織田氏と和睦してからも
終始反抗的な態度を取り続け天正8年、織田信包の攻撃によって落城し、城主である
細野藤敦は専修寺に逃れ、後に蒲生氏郷に仕えたと伝わります。城域はかなり広く
丘陵上全体に築かれ、取土によって地形が変化してはいるものの、主郭と見られる阿由田
神社周辺に遺構が多く残っています。主郭は方形で周囲に土塁や堀を巡らし、南と東に
虎口が付いています。主郭の北側から東にかけ多くの郭が残り土塁や堀が南北に縦横して
主郭を守っています。それらの遺構は阿由田神社の東の虎口から続く軽自動車用の参道
ぞいに確認することが可能です。

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しんちゃん

伊勢湾を見渡せる眺望に優れた城。 (2023/10/08 訪問)

伊勢上野城は織田信長の弟、信包が長野氏の一族の分部光嘉に築かせたとされています。後に
津城が完成すると上野城は津城の出城となり光嘉が城代になったとされます。台地の最高所に
本丸が築かれ周囲に土塁が残り、櫓台らしき箇所は展望台が建っています。南東に二の丸が
配され、かつてはその先に幅20mほどの空堀があったようです。二の丸の下段にも郭が存在し
墓地になっている郭は周囲に土塁が残っています。展望台からは伊勢湾が見渡せ、かつては
櫓台から伊勢湾を望むことが出来たのかもしれません。

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朝田 辰兵衛

【再訪】観音寺城散策2/2(いざ城内へ) (2023/09/17 訪問)

繖山山頂から観音正寺への案内標識へと進みます。前回は立入禁止措置が取られており,城内へは入れませんでした…。
ここからは,個人的に新たな領域となります。迎えてくれるのは伝沢田丸。虎口と石垣は要チェックです。
すぐに,伝布施淡路丸⇔観音正寺・大石垣の分岐。やはり,大石垣散策は王道だろうと思い,右へ。その後,観音正寺⇔大石垣の分岐。これも右です。
しばらくして,伝本丸。裏虎口は見逃し注意です。
そして,伝平井丸,伝池田丸,女郎岩,大石垣と散策しましたが,残りの水分量が0.5Lを切りました…。復路のことを考えると,熱中症リスク大。残念ながら,ここで切り上げました。
伝布施淡路丸方向に大土塁があるのですが…宿題の残る攻城となりました。

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