べっぷじょう

別府城

埼玉県熊谷市


旧国名 : 武蔵

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しんちゃん

別府氏の居館跡 (2024/05/05 訪問)

別府城は平安時代末期から室町時代における、別府氏の居館跡のことのようです。東西約100m、南北約90mの方形で周囲に土塁が残されています。城址に建てられている東別府神社は別府氏の氏神として、春日大社を勧請し、天正18年(1590)に落城するまで城の鎮守であったと伝わっています。どうやら別府氏は藤原氏の流れを引く一族のようです。とはいえ藤原秀郷の末裔であるかどうかは、不明です。

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イタさん

堀・土塁が良好に残る (2023/06/07 訪問)

説明板の概要は、平安時代から室町時代におおける別府氏の居館跡であり、東西約100メートル、南北約90メートルの規模。跡地には建立年代不詳だが東別府神社がある。別府氏(藤原氏)の氏神、春日神社を勧請、明治42年に榛名神社を合祀し現在名になる。成田助隆の次男・行隆が別府氏を名乗り、その長男・義行が東部に居住し東別府氏となり、次男・行助が西部に館を構え西別府氏を名乗ると伝わる。

西別府館跡が西1㎞にあるため、城と言うより館の呼称が相応しい。神社鳥居がある南の堀跡はないが、東・北・西は良好に残り、土塁はほぼ残る。虎口が南・東・西と三ヶ所あり、改変されているだろうが南は左右の土塁がずれ、短い土塁が直角に残り特異な形状をし、枡形を思わせる。西は堀を渡り土塁下を南に10メートル行き虎口になる。東は平虎口だが、西虎口を含め当時の遺構か分からない。

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新ろくべえ

別府城に行ってきました→城レベル3 (2023/03/30 訪問)

別府城は、平安時代末期に、成田氏当主の成田太夫助高の次男・次郎行隆が
別府を支配し、別府氏を名乗り、この場所に別府城を築いたのが始まりの城である。
その後は、行隆の長男・義行が別府城(香林寺が屋敷?)に、
次男・行助が、別府城の西に館(西別府館)を作り、別府氏の領土を二分し、
それぞれ、東別府氏、西別府氏と名乗った。
東別府氏は代々成田氏の家臣となり生き残ったが、一二代長清の代の1590年、
豊臣秀吉の小田原征伐の時に、北条側に付き、領地をとられ、廃城となった。
現在は、中心に東別府神社があり、その周りには、幅5m、深さ2.3mの掘と、
高さ2mの土塁が残っている


【城情報】
・形式       ❙平城
・築城年      ❙平安時代末期
・廃城年      ❙1590年
・築城者      ❙成田(別府)助高
・最後の城主    ❙東別府長清
・廃城理由     ❙小田原征伐の時に北条氏についたため
・主な城主     ❙成田助高、東別府長清など
・遺構       ❙ 土塁、空堀、曲輪
・主な建築物    ❙なし
・説明看板、石碑  ❙説明看板が1、石碑が2
・駐車場、トイレ  ❙駐車場らしきもの?有り
・天守       ❙なし
・保存状態(自身判断)❙堀と土塁がのこり、曲輪の形が分かる
・城レベル     ❙3(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙・入り口までのみちは狭く、探しにくい
          ❙・東別府神社は1590年まで城の鎮守神だった
          ❙・別府の名前の由来は平安時代末期に別官符によって開墾されたからや、
          |国府の支庁の別府が置かれたからという説がある

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todo94

元日攻城の締め (2023/01/01 訪問)

元日最後の攻城は別府城。東別府神社に城址碑と説明板があり、ぐるりと土塁と空堀が巡っていました。城址碑の表記は「史蹟 東別府館址」となっています。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 別府氏
築城年 平安時代
主な城主 別府氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(別府城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 埼玉県熊谷市東別府777他(東別府神社)
問い合わせ先 埼玉県教育局市町村支援部生涯学習文化財課
問い合わせ先電話番号 048-830-6988