うしくぼじょう

牛久保城

愛知県豊川市

別名 : 牛窪城
旧国名 : 三河

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一色城 今川義元公胴塚
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しんちゃん

一色城と今川義元公胴塚 (2024/09/22 訪問)

一色城は愛知県豊川市牛久保町に築かれていたとされ、牛久保城とは200mほども離れていません。永享11年(1439)三河守護職一色氏の同族・一色刑部少輔時家によって築かれたとされています。時家は後に家臣・波多野全慶に討たれますが、全慶は時家の重臣・牧野古白(成時)に討たれ、一色城には瀬木城を次男・成勝に譲った古白が入ります。
古白は永正2年(1505)に今橋城を築いて移りますが、翌年今川氏との戦いで討死、永享2年(1529)一色城主の牧野成勝が牛久保城を築いて移ると、ほどなくして一色城は廃城になったようです。
境内には桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られた今川義元の胴塚と、一色刑部少輔時家の墓があります。義元公の胴塚には、今川家の家臣が首を失った主の躰を急いで隠し、近くにあった手水鉢を目印に置いていったという伝承が残っています。当時の物かは不明ですが、義元公の胴塚の基部は確かに手水鉢の形状をしています。また城址とされる大聖寺には土塁が残っています。
この日は一色城と合わせて、牛久保城も訪問しています。

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城好きのメガネ

「牛久保城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
牛久保城は、牧野成勝が築城したとされる。今川氏の支配下に入っていたが、後に徳川家康に服属する。1590年、牧野康成が徳川家康の関東移封に従って、上野国勢多郡大胡に移る。牛久保城は吉田城(続日本100名城)に入った池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久が城主となる。関ヶ原の戦いの後は、天領となり1700年頃に廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR牛久保駅 徒歩10分

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しんちゃん

三河譜代 牧野氏による今橋城の支城 (2023/06/10 訪問)

このたび牛久保城は10年ぶりの訪問になります。
現地案内板によると 享禄2年(1529年)一色城主 牧野成勝が今橋城主 牧野信成の
命を受けて築城したとあります。
今橋城というと、今の吉田城のことですね。
町中の高台に造成されていて完全に市街地化していますが、一部土塁が残されているようです。
かつては北側に二重の堀がめぐらされていて、周囲に家臣屋敷 寺などもあったようですので
それなりの防御力を備えていたと思われます。
古い画像データが喪失してしまいましたが、近くの長命寺には山本勘介の遺髪塚(墓所)
一色城跡には あの今川義元の胴塚もあります。
是非 合わせて訪問していただきたいですね。

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チェブ

番外編「山本 勘助生誕の地」の巻。 (2022/05/06 訪問)

愛知県豊川市の「牛久保城」、 多くの方が、山本 勘助さんの生誕地、もしくは墓、がセットで投稿してあります。
私も、皆さんに習い生誕地にお邪魔しました。

12~13年前に、川中島合戦の古戦場を巡った時に長野県の千曲川沿いにお墓がありました。
愛知県で、勘助さんの名前に出会うとは( ゚∀゚)
皆さんの投稿のおかげです。皆さん、いつも ありがとうございます。
山本 勘助さんは、「牛久保城」の牧野氏の家臣だった時期があるそうです。

早い時間にお邪魔しました。地元の方に路駐の許可をとり(車はすれ違いできない道幅です。)石碑とヨレヨレの説明板を写し、失礼しました。
この時、枝等で車のサイドは傷だらけです。(それくらいの道幅です。)

武田家で活躍した山本 勘助さん、愛知県で誕生したとは。でも、この前、静岡県富士宮市でも誕生地があって、お邪魔できなかった事を悔やんだばかりです。
ミステリアスな勘助さんの人生を、書籍やメディア等で想像するの楽しくなってきます。

「ここに車止めてもいいですか?」の声がけに「いいら~。」と、気さくに御返事してくれた地元の方々。
ありがとうございました。『ら~。』と語尾が軽やかで、素敵な地方言葉でした。。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 牧野成勝
築城年 享禄2年(1529)
主な改修者 池田輝政
主な城主 牧野氏、荒尾平左衛門(池田氏家臣)
廃城年 元禄13年(1700)
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県豊川市牛久保町城跡大手
問い合わせ先 豊川市市民部文化振興課
問い合わせ先電話番号 0533-85-3775