【牛久保城】
<駐車場他>駐車場はなし。JR牛久保駅前に停車、ダッシュで撮影しました。
<交通手段>車
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中9城目。牛久保城の詳細は添付写真の現地説板をご覧下さい。車停める所がなかったので、駅前に停車してダッシュで撮影したので、周辺散策はパスしました。現地説明板のある辺りから南側は坂で下っているので、かつては台地上の端に築城されていた感じを受けました。
<満足度>◆◇◇
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2026/08/06 19:54
2025/10/23 23:11
荒尾成房 (2025/10/15 訪問)
牛久保城は享禄2年に牧野成勝によって本宮山麓の河岸段丘に築かれたとされています。現在はなだらかな丘地になって要害の雰囲気は全くありませんが、往時は複数の入り組んだ台地を利用した堅城であったようです。現在はJR飯田線牛久保駅や宅地となり開発によって遺構はほぼ残っていません。忠魂碑の置かれた土盛りがかつての土塁の一部とされています。
豊臣秀吉が天下を統一した後に吉田城に入った池田輝政の家臣・荒尾成房の居城となり牛久保城は吉田城の支城になりました。
成房は池田恒興に仕え若森城の城主となり、恒興の死後は輝政に仕え、牛久保城代、龍野城代(1万石)を歴任しました。成房の嫡男の成利は鳥取藩家老・米子城代を務めています。じわじわステップアップしてますね。
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2024/09/22 16:46
一色城と今川義元公胴塚 (2024/09/22 訪問)
一色城は愛知県豊川市牛久保町に築かれていたとされ、牛久保城とは200mほども離れていません。永享11年(1439)三河守護職一色氏の同族・一色刑部少輔時家によって築かれたとされています。時家は後に家臣・波多野全慶に討たれますが、全慶は時家の重臣・牧野古白(成時)に討たれ、一色城には瀬木城を次男・成勝に譲った古白が入ります。
古白は永正2年(1505)に今橋城を築いて移りますが、翌年今川氏との戦いで討死、永享2年(1529)一色城主の牧野成勝が牛久保城を築いて移ると、ほどなくして一色城は廃城になったようです。
境内には桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られた今川義元の胴塚と、一色刑部少輔時家の墓があります。義元公の胴塚には、今川家の家臣が首を失った主の躰を急いで隠し、近くにあった手水鉢を目印に置いていったという伝承が残っています。当時の物かは不明ですが、義元公の胴塚の基部は確かに手水鉢の形状をしています。また城址とされる大聖寺には土塁が残っています。
この日は一色城と合わせて、牛久保城も訪問しています。
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2023/07/24 14:37
「牛久保城」 (2023/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
牛久保城は、牧野成勝が築城したとされる。今川氏の支配下に入っていたが、後に徳川家康に服属する。1590年、牧野康成が徳川家康の関東移封に従って、上野国勢多郡大胡に移る。牛久保城は吉田城(続日本100名城)に入った池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久が城主となる。関ヶ原の戦いの後は、天領となり1700年頃に廃城となった。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR牛久保駅 徒歩10分
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| 分類・構造 | 平城 |
|---|---|
| 築城主 | 牧野成勝 |
| 築城年 | 享禄2年(1529) |
| 主な改修者 | 池田輝政 |
| 主な城主 | 牧野氏、荒尾平左衛門(池田氏家臣) |
| 廃城年 | 元禄13年(1700) |
| 遺構 | 消滅 |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 愛知県豊川市牛久保町城跡大手 |
| 問い合わせ先 | 豊川市市民部文化振興課 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0533-85-3775 |