(24人目)島津義弘の続き③です。
義弘が少年期を過ごした「一宇治城」を訪れてきました。
JR鹿児島本線「伊集院駅」から徒歩で30分程登った所にあります。
駅前では義弘の銅像が出迎えてくれました。何とも勇ましいというか、関ケ原の敵中突破をイメージして作った銅像だそうです。「義弘様!かっこいい~!」(写真①②)。
ここ一宇治城は、義弘の父「島津貴久」の居城です(写真③④⑦)。貴久は1537年頃に伊作城より拠点をここ伊集院へ移し薩摩を統一します。そして1550年に鹿児島市の内城へ移るまでの約13年間、ここを居城としました。義久・義弘はその時の少年期をここで過ごしたと言われています(義弘3~15才頃)。城は日置市街を眺める高台にありました。ここで兄の義久は当主としての心構えを、弟の義弘は兄を守る軍師としての教えを、祖父の忠良(日新公)から徹底的に叩き込まれたそうです。得意の「釣り野伏せ」戦法も、ここで忠良から教え込まれたのかもしれません(なるほど🤔そうだったのか~!)。
1549年日本に上陸したザビエルが、日本で最初に謁見したのが島津貴久でした。その会見の地碑がありました(写真⑤⑥)。貴久はザビエルの平和と愛を説くキリストの教えに感銘し、日本で最初に布教を許可した人物で、島津の丸に十字架の家紋はこの時に生まれたようです。
義弘は関ケ原後の晩年に、自分の菩提寺を忠良と少年期に学んだ麓の「妙円寺」(写真⑨)と決めたようです。妙円寺には義弘の位牌があります(墓は別の場所です)。今でも敵中突破を果たし帰還した義弘公をしのび、毎年10月に鹿児島市から伊集院のここ妙円寺までの20kmを歩く「妙円寺詣り」が行われているそうです(今年は10/22)。幕末には西郷隆盛や大久保利通も詣でたとか。麓には他にも、義弘を祀る「徳重神社」(写真⑧)もありました。
この日は天気がよく、一宇治城から日置市街や遠くの桜島までがきれいに見えました(写真⑩:中央に見えるのが桜島、左下が伊集院駅、その左には妙円寺と徳重神社があります)。
まだ少年であった義久と義弘は、この一宇治城から遠くの桜島を眺めながら、いったいどんな将来の夢を語り合っていたのでしょうかね?😊
次は、島津本城(内城)を訪れます。
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