多賀谷城は別名。下妻城とも呼ばれ、多賀谷城址公園が本丸の
所在地とされています。東の市役所や消防署のあたりが二の丸、本丸の
南方が南館、さらに南方の信号のある交差点周辺が三の丸あたりで
小野子観音堂周辺は周囲より明らかに高地にあり、かつて島地の郭だった
名残を感じさせます。
多賀谷氏は武蔵国埼玉郡多賀谷郷の多賀谷左衛門尉家政を祖とします。
城郭大系によれば、彦四郎氏家の時代、結城合戦(永享12~13年(1440~41))
に結城方として参戦。結城城が落城した後は再建に努力したとあります。
享徳3年(1454)古河公方足利成氏の命にて関東管領上杉憲忠を討ち
その功績として下妻の地に33郷を与えられ多賀谷城を築いたとあります。
天正18年(1590)豊臣秀吉に下妻6万石を安堵されます。
慶長5年(1600)、重経の時代に、徳川家康の上杉成敗にあたり、
小野小山に屯営する家康を夜襲する計画を立てますが、バレてしまって関ヶ原合戦後
所領を没収されてしまい、居城は破却の上、追放され井伊家の食客として
彦根で死去したとあります。
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