くろのじょう

黒野城

岐阜県岐阜市


旧国名 : 美濃

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チェブ

ほりのなかへ すてたら あかん。 (2024/01/03 訪問)

1594年に、加藤 貞泰さんが築城した「黒野城」。
関ヶ原の戦では徳川方だった貞泰さん。
1610年に伯耆国に転封しました。
「黒野城」は16年で廃城します。

「黒野城」には基本的に駐車場はありません。近くに見学者用の駐車場が土日祝で停められると案内がありました。
因みに橋に1台、車が停まっていました。
堀に架かる橋を渡り、右手に枡形虎口跡。こちらの奥に遊具があって、子供たちが遊んでます。
遊具はシャチホコが乗ったお城風です。写真は子供たちに配慮し写してません。
左手に「黒野城」の石碑と説明板があります。
そして、本丸と本丸を囲む土塁は高さがあります。
皆さんの写真は水堀になっていますが、この時期は空堀になっていました。
『黒野城に咲くタンポポ』の説明板があり、貞泰さんの国替えの足取りと、タンポポの分布が一緒なんだとか。
お城に関わるエピソードが、足下に咲くタンポポ。目線が変わって、なるほどと説明板の前で感心しました。
堀を外から見ようと歩けば、手作りの看板がたくさんありました。
16年しか活躍できなかった「黒野城」は本当に大切にされてました。
『ほりのなかへ すてたら あかん』
たくさんの、子供武将たちが守っている「黒野城」攻めでした。

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ぴーかる

黒野城 (2023/07/15 訪問)

【黒野城】
<駐車場他>城跡入口<35.459896, 136.723383>に2台駐車可能
<交通手段>車

<見所>土塁・堀・城石
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、4城目。黒野城の築城者は加藤光康の子の貞泰で加藤光康が甲府24万石の領主の時に朝鮮の役で陣没したため(石田光成の毒殺とも)に嫡男の貞泰はまだ幼少という理由から1594年に美濃黒野4万石に減封され黒野城を築城します。関ヶ原合戦では加藤貞泰は当初西軍につきますが、すぐ東軍側について戦後は本領安堵になります。1610年に加藤貞泰は伯耆米子藩6万石へ加増移封されて、黒野藩は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となります。
 現在は本丸部分の堀と土塁、本丸内部は公園とグラウンドとして残っています。方形土塁上の北東隅と南東隅に櫓があったらしく、土壇は残されていませんが幅広くスペースが残されています。本丸の堀と土塁は見事であり見応えがあります。また西の虎口跡周辺に城門礎石と石垣跡の石が置かれています。城は江戸時代を通して残されていたのだろうか?本丸跡は堀と土塁が良好に残りなかなか見ごたえがありました。

<満足度>◆◆◇

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キンヤ

街中に遺構が良く残された総構えの平城 (2023/05/27 訪問)

1594年に加藤貞泰により築城され、1610年に伯耆国米子へ移封となるまで、わずか16年のみ使われ廃城となりました。

本丸は方形で中はグランドになり、周囲に高い土塁と堀が巡っています。
但し、南側の土塁は昭和に復元されたようです。
南西側には枡形虎口跡があり、西に土塁が張り出していますが、南側の土塁は失われてます。

個人運営と思われる二ノ丸資料館で見学をお願いすると、館長さんが詳しい説明をして下さり、資料を沢山見せて頂き感謝です。

北側の外堀跡は搦手・東木戸跡から西木戸跡まで東西に長く残っており、数ヶ所で折れがありました。
特に多賀神社裏側の外堀が見応えありました。

「岐阜の山城ベスト50を歩く」の本の縄張り図によると、城下町南西側に土塁跡があるので行ってみると、折れもある土塁がありました。
ただ、後世の堤の可能性もあるかもしれません。

外堀跡まで巡ると総構えで規模の大きさがよく分かり、街中に遺構が良く残された貴重な平城だと思います。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:黒野城 (2023/04/26 訪問)

鷺山城からの転戦です。城の南西の二の丸資料館私設駐車場(35.45904、136.72209)に駐車しました。
黒野城まで徒歩2~3分くらいです。黒野公民館横に黒野城址の石碑と案内板があります。

築城年代は定かではないようですが、1594年(文禄3年)以降に加藤貞泰によって築かれたようです。
加藤景泰(貞泰の祖父)は土岐氏に仕え、美濃国橋詰庄で70貫の地を領していましたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤龍興、豊臣秀吉に仕え、甲斐国24万石を与えられています。
加藤光泰は文禄の役に出陣しましたが、朝鮮の役からの帰国途中に1593年(文禄2年)に病死します。
家督は嫡子貞泰が継ぐこととなりましたが、幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡40,000石に削封されてしまい、黒野城を築いて居城とした。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では東軍に属して戦功を挙げ、家康より黒野城と40,000石は安堵され、加藤家の働きに対して弟平内は美濃国内で3,641石を賜り加増されました。
1610年(慶長15年)加藤貞泰は伯耆米子藩60,000石へ加増移封され、40,000石の領地は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となりました。

黒野城は現在、本丸がそのまま公園として残り、現在も方形の土塁と濠が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=北方城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 加藤貞泰
築城年 文禄3年(1594)
主な城主 加藤貞泰
廃城年 慶長15年(1610)
遺構 曲輪、土塁、横堀(水堀)
指定文化財 市史跡(黒野城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県岐阜市黒野388
問い合わせ先 岐阜市社会教育課
問い合わせ先電話番号 058-265-4141