常滑城は緒川・刈谷水野家の分家、常滑水野(監物)家の城で、水野監物忠綱によって築かれたとされています。戦国期の産業としての焼き物の需要は高く、織田氏の経済力の源にもなっていたようです。徳川家康の叔父・水野信元のころには知多半島一帯に水野家の勢力が伸び、長篠の合戦のころには信元は24万石の所領を得ていたようです。尾張圏内で徳川に近い、水野氏が力を増したのが脅威になったのかは不明ですが、天正2年(1575)信長は瀬戸焼のブランド力を強化し販路としての街道の整備に力を注ぎます。しかも、翌年の天正3年(1576)信長の命を受けた徳川家康によって信元が大樹寺で殺されてしまいます。常滑水野氏と常滑焼には逆風が吹き続けている感じで、常滑焼は安土桃山時代から江戸時代初期まで一時衰退してしまったようです。
そうした経緯があってか信元の娘婿で常滑城主・水野守次は本能寺の変に際して明智光秀に味方し、常滑城を退去させられています。後に織田信雄の家老・岡部重孝が入りますが、豊臣秀吉に通じたとして重孝は信雄によって殺されてしまいます。その後、徳川家康の家臣・高木広正が信雄より常滑郷に500貫文を与えられますが、家康の関東移封に伴い関東に移り、常滑城は廃城になったようです。
正法寺のある丘陵が城址と見られ、正法寺の南の小公園に城址碑が立っており、近くまでソーラーが迫ってきています。
織田信長にとって焼き物は財力の源であり、家来に与える褒美であり、また趣味の一環としても欠かせない重要な存在であったようです。
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