宮本武蔵の続き(10)です。
たけぞう(武蔵)が九州の関ケ原で戦った痕跡を探しに、富来城を訪れました。
父の無二斎とともに黒田官兵衛がいる中津へ行き、この頃18才のたけぞう(武蔵)は、東軍の黒田兵として出陣します。1600年9月13日に別府の石垣原(いしがきばる)にて、黒田官兵衛は細川家老(杵築城主)松井康之とともに、西軍の大友義統(宗麟の子)の軍勢を破り勝利します(写真⑧⑨⑩)。そしてその翌日から、西軍の残党が残る富来城を10日間にわたり攻撃します。そこには、たけぞう(武蔵)がいたという記述が残っていました(写真⑤⑥)。
富来城は1261年頃に富来氏によって国東半島(くにさきはんとう)の東端に築かれた城です(写真①②③)。今では本丸の一部がわずかに残るだけですが、当時は河口に向かって二ノ丸・三ノ丸とあり、川を天然の堀とし、水運を利用したかなり大きな城だったようです(写真④)。
代々富来氏は大友氏に仕えていましたが、1593年に豊臣秀吉が大友義統を改易すると富来氏も離散し、垣見家純が秀吉から2万石を与えられて富来城に入ります。そして家純が岐阜の関ケ原へ行っている留守中に、官兵衛は富来城を包囲し攻めました。わずか500名で守るこの城を、9000名の黒田軍が10日かかっても落とせなかったので、かなり当時は強固な城だったと思われます。しかし、主君の家純が大垣城で討死したと知らせが入ると、家臣たちは開城し降伏したそうです。
この時の戦いで、塀を乗り越えようとしたたけぞう(武蔵)は、敵から竹槍で刺され足を負傷したと伝わっています。お城にあった説明板に、ここで負傷した事が書かれていました。どうやらたけぞうが負傷した直後に降伏し開城されたようです。でもこの記述以外に、具体的な証拠は何も見つかりませんでした(すいません)(写真④⑤⑥)。
おそらく相当ショックだったのではないでしょうか? 兵法者にもかかわらず剣を抜く前にけがをした自分が情けなかったのではないでしょうか? 「自分はまだ弱い、もっと強くなりたい!」と悟ったたけぞう(武蔵)は、傷が治ると故郷美作の宮本村へ戻ります。しかしそこでは宇喜多の残党で刀を捨てない者、かつ池田氏へも従わない者への刀狩りが行われており、武蔵は間違って村人に通報され、山中に隠れます。そこで隙を見て、平田家の家財一切を姉(無二の実子)に処分するよう託し、もう宮本村には戻れないと悟り、諸国流浪の剣術を極める旅へ出る事にしました。この頃からたけぞう改め、「宮本武蔵」と名乗るようになったようです。各地で道場破りを行い、「60余回決闘して一度も敗れなかった」と自ら語った事が小倉碑文には書かれています。特に京都で足利将軍家剣術指南役を務めた名門、「吉岡一門と対決した」とも書かれており、これは有名ですよね。
次はその、吉岡一門との決闘場所(京都一乗寺)を訪れます。
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