とみくじょう

富来城

大分県国東市


旧国名 : 豊後

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ぴーかる

富来城 (2023/09/10 訪問)

【富来城】
<駐車場他>城跡地前の道路脇に2台程度駐車できる。
<交通手段>車

<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅2日目13城目。現地説明板によると富来城は1261年に富来氏によって築城されます。富来氏の始まりは鎌倉時代に豊後守護となった大友氏に従って下向した永井実貞が在地名を称したとされます。富来氏はその後も大友氏の重臣として仕えますが耳川の合戦で当主が戦死、秀吉の朝鮮の役で多くの一族が戦死し、大友氏の改易と共に没落します。1594年豊臣秀吉の家臣垣見家純が2万石で入封します。垣見家純は関ケ原合戦の際は西軍側として大垣城に入りそこで謀殺されてしまいます。富来城はその時黒田官兵衛軍に包囲されていましたが主君の死を知り開城します。城は一国一城令により廃城となったようです。
 城跡地は公園化されており残る遺構は僅かです。公園の小丘と南側曲輪壁に僅かに石垣が残りますが蔦が伸びて石垣を埋めておりかなり見にくい状態でした。

<満足度>◆◇◇

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織田晃司

黒田官兵衛が攻城にてこずり (2023/09/17 訪問)

宮本武蔵が足を負傷した富来城ですが、
現在残る本丸跡だけ見ると小さくて、その話ホンマかいなと思うが、実際はもっと大きな城らしい。

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あんどれ

石垣 (2021/12/05 訪問)

唯一の遺構っぼいです。これだけでも残ってて良かった。

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todo94

帰りがけに (2013/07/29 訪問)

遺構は殆どないが関ヶ原の折、黒田官兵衛が手こずった城だという。富来城廃城の際、大手門は暘谷城の裏門として移築されたそうだ。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 富来忠文
築城年 弘長元年(1261)
主な城主 富来氏、垣見氏、黒田氏
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、土塁
指定文化財 市史跡(富来城跡)
再建造物
住所 大分県国東市国東町富来浦
問い合わせ先 国東市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0978-72-2677