とみくじょう

富来城

大分県国東市


旧国名 : 豊後

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HKISD

富来城跡散策 (2026/01/11 訪問)

今は危険地域になって中迄はいれませんが外から見る程度でした。

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カズサン

雨の富来城初登城 (2025/10/31 訪問)

 雨の中、安岐城を終えて国道213号線を北上約15km程(直線)、大分空港を右手に見ながら豊後水道沿いを進んでいく、県道652号線と交わる交差点で左折西入、北角にはローソンと富来郵便局が在る、西進行約500m程で北入り舗装させた狭い道を約200m程集落の交差点を東入60m程、こんもりした森が富来城跡です。
 駐車場:富来城北側の夢咲き公園駐車場を利用(富来城跡から東へ50m程に入口が在る)
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 富来城跡は現在城山子供公園に成って居る、しかし入口に進入禁止の防止線が貼ってある、禁止理由には、公園には昔造った地下壕が入り組んでいて何時陥没してもおかしくない状態、と記されていた。入口より公園内を撮り、周囲の看板、標柱、崩れた説明板、周囲の崖、堀か?を確認と写真を傘を差しながら撮り終了。
 夢咲き桜公園は静岡県伊豆の河津町と縁続きの様で河津桜が千本平成23年植えられている、14年経過していますので早春には見事な桜公園と成る事でしょう。

 先にトクさんが富来城と宮本武蔵を投稿されていましたが、崩れてた説明板に宮本武蔵の足の負傷が記されて居り、黒田官兵衛九州の関ケ原で富来城攻防戦に参戦して居たのですね。
 ここ公園は南が崖で舟入川が豊後水道から入って居り、海の城の要素も有った様です、国東半島中心山稜より東に落ち込んでくる山稜舌状台地先端を壕と濠、舟入川で切り込んだ曲輪群で守って居たのでしょう。黒田軍の苦戦が思われます。
  

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トク

【宮本武蔵】(10)富来城(九州の関ケ原(後編)) (2025/07/11 訪問)

宮本武蔵の続き(10)です。

たけぞう(武蔵)が九州の関ケ原で戦った痕跡を探しに、富来城を訪れました。

父の無二斎とともに黒田官兵衛がいる中津へ行き、この頃18才のたけぞう(武蔵)は、東軍の黒田兵として出陣します。1600年9月13日に別府の石垣原(いしがきばる)にて、黒田官兵衛は細川家老(杵築城主)松井康之とともに、西軍の大友義統(宗麟の子)の軍勢を破り勝利します(写真⑧⑨⑩)。そしてその翌日から、西軍の残党が残る富来城を10日間にわたり攻撃します。そこには、たけぞう(武蔵)がいたという記述が残っていました(写真⑤⑥)。

富来城は1261年頃に富来氏によって国東半島(くにさきはんとう)の東端に築かれた城です(写真①②③)。今では本丸の一部がわずかに残るだけですが、当時は河口に向かって二ノ丸・三ノ丸とあり、川を天然の堀とし、水運を利用したかなり大きな城だったようです(写真④)。

代々富来氏は大友氏に仕えていましたが、1593年に豊臣秀吉が大友義統を改易すると富来氏も離散し、垣見家純が秀吉から2万石を与えられて富来城に入ります。そして家純が岐阜の関ケ原へ行っている留守中に、官兵衛は富来城を包囲し攻めました。わずか500名で守るこの城を、9000名の黒田軍が10日かかっても落とせなかったので、かなり当時は強固な城だったと思われます。しかし、主君の家純が大垣城で討死したと知らせが入ると、家臣たちは開城し降伏したそうです。

この時の戦いで、塀を乗り越えようとしたたけぞう(武蔵)は、敵から竹槍で刺され足を負傷したと伝わっています。お城にあった説明板に、ここで負傷した事が書かれていました。どうやらたけぞうが負傷した直後に降伏し開城されたようです。でもこの記述以外に、具体的な証拠は何も見つかりませんでした(すいません)(写真④⑤⑥)。

おそらく相当ショックだったのではないでしょうか? 兵法者にもかかわらず剣を抜く前にけがをした自分が情けなかったのではないでしょうか? 「自分はまだ弱い、もっと強くなりたい!」と悟ったたけぞう(武蔵)は、傷が治ると故郷美作の宮本村へ戻ります。しかしそこでは宇喜多の残党で刀を捨てない者、かつ池田氏へも従わない者への刀狩りが行われており、武蔵は間違って村人に通報され、山中に隠れます。そこで隙を見て、平田家の家財一切を姉(無二の実子)に処分するよう託し、もう宮本村には戻れないと悟り、諸国流浪の剣術を極める旅へ出る事にしました。この頃からたけぞう改め、「宮本武蔵」と名乗るようになったようです。各地で道場破りを行い、「60余回決闘して一度も敗れなかった」と自ら語った事が小倉碑文には書かれています。特に京都で足利将軍家剣術指南役を務めた名門、「吉岡一門と対決した」とも書かれており、これは有名ですよね。

次はその、吉岡一門との決闘場所(京都一乗寺)を訪れます。
 

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ぴーかる

富来城 (2023/09/10 訪問)

【富来城】
<駐車場他>城跡地前の道路脇に2台程度駐車できる。
<交通手段>車

<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅2日目13城目。現地説明板によると富来城は1261年に富来氏によって築城されます。富来氏の始まりは鎌倉時代に豊後守護となった大友氏に従って下向した永井実貞が在地名を称したとされます。富来氏はその後も大友氏の重臣として仕えますが耳川の合戦で当主が戦死、秀吉の朝鮮の役で多くの一族が戦死し、大友氏の改易と共に没落します。1594年豊臣秀吉の家臣垣見家純が2万石で入封します。垣見家純は関ケ原合戦の際は西軍側として大垣城に入りそこで謀殺されてしまいます。富来城はその時黒田官兵衛軍に包囲されていましたが主君の死を知り開城します。城は一国一城令により廃城となったようです。
 城跡地は公園化されており残る遺構は僅かです。公園の小丘と南側曲輪壁に僅かに石垣が残りますが蔦が伸びて石垣を埋めておりかなり見にくい状態でした。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 富来忠文
築城年 弘長元年(1261)
主な城主 富来氏、垣見氏、黒田氏
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、土塁
指定文化財 市史跡(富来城跡)
再建造物
住所 大分県国東市国東町富来浦
問い合わせ先 国東市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0978-72-2677