(伊作城①)の続きです。
薩摩では各曲輪に城の名前を付けるようです。本曲輪は亀丸城と呼ばれていました。その他にも、御仮屋城、蔵ノ城など7つの主な曲輪があったようです(説明写真①②③)。
ここ伊作城は島津の城の中でも最大級クラスの城だったようです。しかし訪れた時は全体的に背丈ほど雑草が伸び、あまり整備されていなかったので、今回はその全容がよくつかめませんでした。亀丸城と御仮屋城以外は雑草で歩ける状態ではなく、曲輪間を渡る橋も崩落していたため行けませんでした(写真④⑤)。
各曲輪の間はとても高い空堀で仕切られていました。その中で、亀丸城と御仮屋城の間の空堀は、ロープを伝って下りる事ができるようで「空堀の底に下りてみませんか」と書いた看板があったので(写真⑦)、ここは勇気を出し😠恐る恐る下りて見る事にしました。大量の蚊や蜘蛛の巣や倒木と戦いながら気をつけて下りました(かゆい~)。傾斜も急でシラス台地はよく滑ります。そして降りた後に下から上を見上げると(うわ~!😲)とても高く垂直の土壁に圧倒されてしまいました。10mくらいはありそうですが、風化されている状態でこの深さなので、昔はもっとこの倍くらい深かったのではないかと思います。写真ではわかりにくいかもしれませんが、まるで深い土壁の谷底へ落ちてポツンと取り残された感じです。この高さでさらに土が滑るので、ここから攻めるどころかロープがなければ上に登って戻る事すらできません。これで各曲輪を完全に遮断していたようです。島津はいったい何という城を作るのでしょうか!(写真⑧⑨⑩) この空堀はさらに下に深く続いているようなので行ってみたかったのですが、さすがに蚊の大群に囲まれ続け、あまりのかゆさに耐えられず、蛇など出ると怖いので断念しました。ここは冬に来た方がよさそうです。
次は、義弘が少年期を過ごした(一宇治城)を目指します。
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