竹中重利という武将を、2回シリーズで追っていきたいと思います。
まず、大分県豊後高田市にある「高田城」を訪れました。最初の築城者は、1196年鎌倉から大友氏とともに下向した高田氏で、桂川河口の東岸に築かれた城です。高田氏は、以後大友宗麟の代までの400年間、大友家の家臣を務めます。大友家が改易された1593年、秀吉の直臣の「竹中重利」が1万3千石でこの地に入り、重利は高田城を石垣で築かれた近世城郭に改築し、城下町もこの時に整備されていったようです。現在の高台の公民館のあるあたりが本丸だった場所のようで高田城の碑がありました。
宇佐駅からバスで15分、豊後高田で降りると、何とビックリ😱! そこは昔の昭和に戻ったような、私が小学生の頃に見たような、とてもなつかしい風景が広がっていました。商店街が町おこしでレトロな雰囲気を作り出していて、昭和30~40年代の街を再現しているとの事です。確かに商店街を歩くと、あ~懐かしい! などと思い出にふけりながら商店街を10分ほど歩いて通り抜けました。そして桂川を渡った場所が高田城です。
竹中重利は、あの軍師竹中半兵衛の子の関ケ原で黒田長政の説得に応じて東軍へ寝返った竹中重門の従兄弟にあたります。黒田官兵衛にとって竹中半兵衛は、息子長政の命を救ってくれた大恩人です。織田信長の命で松寿丸(長政の幼名)を殺せと命じられたのですが、殺さず秘かに匿って助けてくれた恩があるのです。半兵衛亡き後も「恩ある竹中家を絶対滅ぼすわけには行かない!」と、西軍につき田辺城攻めに加わっていた重利を説得して東軍に寝返らせ、豊後高田城の家臣を九州の関ケ原で自らの軍(東軍)に引き入れます。西軍として岐阜城を守っている最中にこれを聞いた重門も、長政の説得に応じて東軍に寝返り、長政の軍に同行して関ケ原に入りました。元々関ケ原は竹中家の領地でした。戦の後は、重門は家康から領地を安堵され、東塚・西塚を建てて多くの死者を分け隔てなく弔い、荒れ果てた農地の復旧に尽力したそうです。
また重利も家康から許され、1601年豊後高田城から大分府内城へ3万5千石で加増転封となり、初代府内藩主となりました。
次はその府内城へ続き、重利の痕跡をもう少し探そうと思います。
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