鞆城の始まりは元亀4年(1573)に織田信長によって京都を追われた足利義昭をかくまうために築かれた鞆要害とされています。足利義昭公は天正4年(1576)頃から当地に滞在しており要害もそのころに築かれたと思います。
現在の縄張りは関ヶ原の合戦の後に、安芸・備後国を領有した福島正則によって大改修されたもので、工事は慶長14年(1609)まで行われてましたが、完成を待たずに破却されています。
本丸跡は鞆の浦歴史民俗資料館になっていて周辺に石垣が残っています。特徴的な回の刻印のある石が複数見受けられ、三の丸の移築石垣にも回の刻印がありました。三の丸の石垣は病院建設時に23m北側の道路に面した場所に移されていますが、向きは180度近く変えられているようです。かつての石垣は海岸線に面し、福島氏改修時には軍船を係留できる海城であったことを示しているようです。
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