常国寺から車で25分弱で、鞆の浦歴史民俗資料館駐車場(34.384181、133.381506)に着きました。
鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地でした。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていましたが、市街部に城は存在しなかったそうです。
1336年(建武3年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地でした。
鞆城の前身となるのが1553年(天文22年)頃に、毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害だそうです。
鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されているようです。
その後、1576年(天正4年)室町将軍足利義昭が毛利氏を頼って京を落ち、移り住んだのが鞆であり、その居所として築かれたのが鞆城と云われています。
関ヶ原合戦(1600年(慶長5年))後に毛利氏が防長二カ国に減封となると、安芸国広島に入部した福島正則が支城として改修して三層の天守をあげ、大崎玄蕃を城主としました。
1615年(元和9年)一国一城令により築きかけた天守は三原城へ移し,福島正則の後をうけて入封した水野勝成は長子勝俊の居館をここに置きました。
勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所し明治維新まで鞆の管理がなされたそうです。
その後、廃城となっていましたが水野勝成が福山に入部すると、長子水野勝俊の居所が三の丸に置かれました。勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所したようです。
現在は鞆城山公園や鞆の浦歴史民俗資料館の敷地となっています。(攻城したのが月曜日だった為、休館日でした)
民俗資料館に続く車道のところに案内板があり、隅石垣には様々な印が付けられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福山城(岡本家長屋門)に徒歩で向かいました。
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