かがのいじょう

加賀野井城

岐阜県羽島市

別名 : 加賀井城
旧国名 : 美濃

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんしんちゃん

多くの将兵が討死。 (2024/03/30 訪問)

加賀野井城は田んぼの端っこに、ぽつんと標柱と案内板が立っています。下の土盛りは土塁の跡でしょうか?
案内板によると、天正年間(1573~1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文(1万石)を領して城主となったそうです。小牧・長久手の戦いの後、天正13年5月豊臣十万の大軍の攻撃を受けたそうです。織田信雄の援軍2千も一緒に籠城しましたが、防ぎきれず講和を申し入れるも受け入れてもらえなかったので、5日に夜陰に乗じて大手より打って出るも、多くの城兵が討死し城主秀望は関東に逃れ落城したとのことです。
この場合城主が切腹を申し入れれば降伏は受け入れてもらえたかもしれませんが、自分がやれと言われると、なんとも言えませんな。やだやだ。

+ 続きを読む

ぴーかる

加賀野井城 (2023/05/03 訪問)

【加賀野井城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.292498, 136.717188>ポイントが少し道が広い。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅1城目。現地説明板によると加賀野井城は築城年代は定かではないが天正年間(1573~1591年)には加賀野井弥八郎秀望(加賀井重望)が城主となっていました。加賀井氏ははじめ織田信長に仕え、その後は織田信雄の麾下となりそのまま加賀野井郷の知行をあてがわれていました。小牧長久手の戦いにおいて信雄側だったので秀吉軍の攻撃を受けて落城します。この後城は廃城となったようです。加賀井重望の方は城を脱出して関東へ逃れたようですが秀吉に使番として召し出され8千石の知行をあてがわれています。関ヶ原の戦いでは加賀井重望は東軍として西上途中の三河での宴席で水野忠重を殺害し西軍方の大垣城へ逃げ込む。逃げ込んだ大垣城落城の際に子の水野勝成に処刑されます。
 城跡の遺構は消滅し説明板が残されているのみです。木曽川がすぐそばにあり、城は木曽川の中程にあったのではないかとされています。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:加賀野井城 (2023/04/27 訪問)

駒野城からの転戦です。標柱説明板前(35.292816、136.716612)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、 天正年間(1573年〜1591年)頃には加賀野井秀望が織田信雄に仕えて415貫文を領していたそうです。
小牧・長久手の合戦では豊臣秀吉によって攻撃され落城、秀望は城を脱出して逃れたそうです。

田畑の中に標柱と説明板が建てられているのみで遺構は残っていません。
グーグルが狭い道ばかりナビするので、脱輪しないかヒヤヒヤしながら運転しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=竹ヶ鼻城に向かいます。

+ 続きを読む

イオ

対向不能の農道沿い (2023/02/04 訪問)

築城時期等は不詳ながら、織田信雄に仕えた加賀野井氏の城で、小牧・長久手の戦いでは信雄方として羽柴秀吉方の大軍に包囲されて落城。その後は秀吉に仕えるも、関ケ原の戦いで西軍についたため改易され、加賀野井城も廃城となりました。

木曽川の河川改修により遺構は消滅しており、田んぼの中の一角(城びとの位置情報)に加賀野井城跡の標柱と説明板が立てられているだけです。説明板のある一角には車では対向不能の狭い農道が続いているだけなので、近くで駐車場所を探しましたが見当たらず、民家へ続く細道に路駐して、ささっと写真を撮って退散しました(登城時間1分)。
 

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 加賀野井秀望
築城年 天正年間(1573〜1592)
主な城主 加賀井氏
廃城年 不明
遺構 消滅
指定文化財 県史跡(加賀野井城跡)、市史跡(加賀野井城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 岐阜県羽島市下中町加賀野井
問い合わせ先 羽島市役所教育委員会生涯学習課
問い合わせ先電話番号 058-393-4672