南北朝期に赤松円心の三男則祐によって築かれた城です。 戦国期には織田方の播磨侵攻の際、城主であった宇野政頼・祐清父子は、当初は織田方についたようですが、第二次上月合戦の際に毛利方に寝返り、その後、羽柴秀吉の軍勢によって落城したと伝わっています。
長水山に築かれた城で、山頂部に主郭を置き、東西約200m、南北約500mの尾根沿いに複数の曲輪を配置していたようです。五十波方面より山の中腹まで車で行ける道があり、そこから徒歩約35分で主郭に行くことができました。途中には井戸があり、今でも水を湛えています。山頂近くには後世のものではないかと思っていますが、登り石垣がありました。主郭にも石垣がありましたが、説明板には大部分は後世に積みなおされたものと考えるとありました。三の丸方面まで散策すると堀切や曲輪の跡などがあります。「西播磨の山城」というサイトの縄張りと見ると水源と記載された場所が二の丸から三の丸へ行く途中に2カ所ありました。周辺を散策してみましたが、探し方に気合が入っていなかったこともありわかりませんでした。
以前から主郭に石垣がある城址で気になっていました。登城路は歩きにくい場所もありますが、概ね整備されています。眺望はよいのですが、黄砂のためかもやっていました。数年前までは山頂の家に人が住んでみえたようですが、地元の人の話では現在は無人とのことです。
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