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イオ

城ケ平城(岐阜県大垣市上石津町宮城ケ平) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

城ケ平城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、平成31年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

登城口は羽ヶ原側と馬瀬側の2箇所ありますが、羽ヶ原側のほうが主郭に近いようなので、晴明神社付近の駐車スペースに車を駐めて羽ヶ原側からの登城です。入口にはマムシ、ヤマビル、スズメバチ注意の掲示があり、この日は時おり小雨のパラつく蒸し暑い日でもあったので、顔以外は肌を露出しない完全防備(だと思っていたんですが…)で登城開始。

登城口から整備された登城道を3分ほど進むとのぼり旗と説明板が建てられています。右手の丘陵地が城ケ平城のようです。上石津郷土資料館でもらったリーフレット(縄張図)を片手に麓に向かうと、いきなり南北にのびる横堀に行き当たります。横堀を越えて登城道を上って行くと中腹の南側に竪堀があり、その奥は横堀が南東隅から南辺まで続いていました。まだ主郭にも着かないうちから横堀、竪堀、横堀の連続で嬉しくなってしまいますね。
さらに上って行くと、主郭の東側には浅くなった虎口(枡形虎口?)があり、その南脇には櫓台と思しき土壇がありました。方形をした主郭には井戸跡が3か所ほど見られ、虎口の北部から北辺、西辺にかけて土塁がめぐっています。主郭の北西下は堀切により西側尾根を遮断しています。また北辺の中腹には腰曲輪や帯曲輪が設けられ、切岸の案内表示が建てられていました。

リーフレットの城ケ平城の紹介文では「多羅城との関係性は不明」と慎重な書きぶりですが、現地では桔梗紋に「明智光秀生誕の地 多羅城」と記されたのぼり旗が堂々と翻っていました(笑) ともあれ、光秀生誕地云々をさて置いたとしても、30分ほどで手軽に充実した遺構を見て回れますし、登城道も城内もよく整備されていて、地元の熱意が感じられる良いお城でした。
 

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小城小次郎

割り切った? (2022/05/28 訪問)

豊前に領地を得た黒田親子が入ったのがこのお城。織豊系城郭への積極的な改修が見られないのは中津城築城が決まっていたからなのか、登城路だけ入念に加工すればあとは高さで勝負!と割り切っていたからなのか。

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AJ

狸を迎え撃て (2022/09/15 訪問)

山城としてこれだけの魅力を備えていながら、元祖100名城からは漏れている。そう考えると、隠れた名城は数限りなくあって、私たちが訪れるべき場所は100や200では到底足りないのでは、という気さえしてきます。ひょっとして「続々」があったりするのでしょうか?ちょっとゾクゾク(いや、ワクワク?)しますね。

No. 111 向羽黒山城(福島県会津美里町)。「徳川vs上杉」幻の一戦を夢想させてくれる場所。

もとは戦国時代に会津地方を治めた蘆名氏による築城。同氏断絶後は歴代領主(伊達、蒲生、上杉)が改修を繰り返したようです。上杉に関しては、よく神指城(会津若松市。輪郭式の平城)が家康の会津征伐に備えるためのものだったと聞きますが、双方を見比べてみると、どうも向羽黒の方が防衛拠点としてふさわしく、名実ともに徳川勢を迎え撃つ「詰の城」と位置付けられていたような気がします。

遺構は見事の一言に尽きます。阿賀川を天然の水堀として東は断崖。至る所に竪堀や空堀、虎口、土塁や石塁が設けられた、まさに要害と呼ぶにふさわしい造りです。標高400m超の岩崎山山頂から北の山腹にかけて広がる城域は東西1.4km、南北1.5km。

二曲輪付近まで車で上がれますが、遊歩道を利用した方がそのスケールを体感できます。ニ曲輪から一曲輪まではかなり険しい登り。ふと視線を上げるとそこには数百年前の竪堀群や巨大な堀切があり、防御力の高さは一目瞭然。

さて、その後の上杉家についてはご存知の通り。家康は会津への途上、小山(栃木県)でUターンし、上杉景勝・直江兼続主従に呼応して挙兵した石田三成を関ヶ原に破ります。肩透かしを食らった形の景勝はその後降伏。会津120万石から米沢30万石に減知転封されます。なんとも言えない上滑り感。そんな歴史の微妙な部分も感じさせてくれる名城であります。

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カルビン

比企館(金剛寺) 〒350-0165 埼玉県比企郡川島町中山1198 (2022/10/02 訪問)

内脂、内脂、内脂サ〇~ト~♪


今回は鎌倉殿の13人で佐藤二郎さんが比企能員役をされた比企氏の拠点の1つ・比企館に行ってきました。

コチラは電車だけだと訪問厳しいものの、川越駅からバスで近くまで行けるので、訪問は比較的楽でした。
(朝早かったので降りたバス停・上中山では自分一人でしたしw)

比企館となる金剛寺には鎌倉殿の13人にちなんだ看板や幟があり、コチラ比企館には比企氏の墓所もあります。
墓所の周囲を囲う堀が館の遺構の可能性あり、何も無いお城に比べれば全然行く甲斐はあるかと。

ただ、金剛寺は住宅街に位置するので、訪問される際にはマナーを守って頂きたいと思います。
(そうでないと今後立ち入り禁止になる史跡がもっと増えてしまうかもしれないので)

鎌倉殿の13人のお笑い担当の方が退場相次いでしまったので、笑いの要素が無いのが結構残念で御座います。。。


ここから東武東上線の北側に向かいたい方は上中山バス停から500mくらい歩いた南戸守バス停まで行くと、若葉駅に行くバスがそれなりの本数ある(上中山から東松山に行くバスあるが、本数がかなり少ない)のでご参考まで。
(この後東松山に出て源範頼館に行った次第です)

ちなみに若葉駅行きのバス、乗車から終点下車まで乗客自分以外いませんでした・・・廃線にならない事を祈る(ー人ー;)

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朝田 辰兵衛

千葉市美術館の開館時間までチョイ寄り。 (2022/09/25 訪問)

千葉市美術館で「進化系 UKIYO-Eの美展」を鑑賞する前にチョイ寄りしました。入館無料の千葉市立郷土博物館(模擬天守のこと)には,岡本信人さんのサインが展示されていましたが,撮影OKなのか確認できず,結局スルーしました。
館内には,公園内の説明パネルがあり,城址碑のある神明社と郷土博物館や土塁のあるエリアとの間は,堀切跡だそうです。「だろうな…」と感じていた方は多いと思います。

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城とマスク

福島県のお城巡り (2022/10/10 訪問)

櫓などのはありませんが一部石垣が残っているお城でした、道の駅でソースカツ丼を食べた後に行ったので良い運動になりました。マスクは沖縄城巡りで使用したタイプを被りました。

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POYO58

世界最強の城高取城PART1 これが残っていたら… (2022/08/30 訪問)

長野旅行を終えた後、家でずっと過ごしていました。その後お城にまたお城に行きたくなったので、僕の誕生日の日にずっと行きたかった高取城に車で行きました。
高取城は南北朝時代に築かれたとされ、奈良から吉野へと通じる交通の要衝として越智氏が拠点としていました。その頃の高取城は中世城郭でした。その後、織田信長の城割令(不要な城を破却する命令)を出し、筒井順慶が築いた大和郡山城以外全て取り壊しました。これを機に順慶は郡山城をなんとしてでも敵から守るため、詰城として高取城を改修しました。しかし、順慶は伊賀へと移ってしまったため、本多利久が大改修し、今の高取城ができました。江戸時代でも高取城だけは特別に、申し出がなくても修理できるようにしました。結構大きな城だったのでしょう。しかし、明治時代になると、廃藩置県により、高取城の建物は次々と壊されていきました。明治天皇もこんな城があったら、この城の藩主たちに対抗できないと思ったのでしょうね。

高取城の見どころは三つ。
1.山城で唯一水堀が残っている。
2.猿石がある(重要文化財)
3.総石垣の城になっている。
まあ僕はこのうち2つ見ていません😭
僕は三の丸ら辺の道路に少しスペースがあったので、そこに車を駐めました。大手門まで行こうと思われるものはあまり無く、大手門までも遠くて、蜂だらけで死にそうでした。雨上がりだったので辺に霧がかかっていて、幻想的でした。そのまま歩いていくとやっと大手門跡に、門自体は全て残ってないのですが、当時、高取城にはなんと33個の門があったそうです!大手門の石垣はなかなか立派で、霧と被った幻想的な写真が撮れました。そして歩いていくと石垣が沢山あって、興奮状態ですが、蜂はマジで危険。蜂に警戒しながら石垣を探訪。さらに歩いていくと新櫓台を発見。なかなかすごかったです。これが残っていたらどんなに強かったか。そして、いよいよ本丸の前につきました。
高取城はここまででも攻めるのが大変でしたが、ここからが本番? 続く

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イオ

交代寄合美濃衆 (2022/09/17 訪問)

関ケ原の戦いの後、旧領に復した高木貞利が築いた陣屋で、牧田川の段丘上に位置し、東下に東高木家、北東下に北高木家の陣屋と隣接しています。西高木家は東家、北家とともに交代寄合美濃衆として、明治まで木曽三川の治水行政にあたる水行奉行を務めました。

陣屋跡に建つ上石津郷土資料館の駐車場に車を駐めて登城開始。資料館の奥には下屋敷の長屋門が移築され、説明板が建てられています。東下に下りていくと東辺斜面には高石垣が施され、石垣の下には井戸跡も見られました。高石垣から東に続く見事な石垣は埋門跡で、時季的に草が茂っていたものの状態良く遺っており、一番の見どころです。北側に回り込むと、北辺斜面上部にも石垣が遺っているのが見えました。また、西側には西高木家の墓所が設けられ、歴代領主と一族の墓石群が祀られています。

東下の東高木家陣屋跡にはなまこ壁が施された白壁造りの土蔵が現存しています。土蔵の北側、北高木家陣屋との間の切通道(伊勢街道)には石垣が遺っていますが、北高木家陣屋跡は住宅地や農地になっていて、遺構らしきものは見当たりませんでした。

なお、上石津郷土資料館には上石津地域の考古遺物や民俗資料、動植物の剥製や標本などが展示されているほか、高木三家に関する史料はもとより、明智光秀生誕地と伝わる多羅城の候補地とされる城ケ平城や樫原城についての解説(縄張図付きリーフレットあり)、島津の退き口についての史料など、入館料100円とはとても思えないほどの充実ぶりでした。
 

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おぃしーぃ

荒川沿いの平城 (2022/10/11 訪問)

水堀がとても綺麗なお城です。復元されているのは半分弱で園路の都合で本来無いところに橋があったり、矢倉でなく東屋だったり、少しう~ん、と思うところもあるけれど、この辺りの低湿地にあった平城のイメージが良く理解できると思います。
残念に感じたのが、発掘なのかもしれないけれど、1槨北側土塁が何の表示もなく削られていたこと。誰も行かないかもしれないでしょうが、何で壊すかな。
因みに古民家移築ゾーンは見物です。

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カズサン

八代城散策Ⅶ、九間櫓跡から埋御門・搦手口・北の丸から本丸の眺め (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城散策Ⅵ、月見櫓台から南東面城塁・大手桝形・三階櫓跡まで」の続きで、三階櫓台から続きに北九間櫓台跡、降りると埋御門跡、搦手口、廊下橋を渡り北の丸側に出る、本丸北面を内濠越しに北面城塁、北東角の三階櫓台を眺め、二の丸北御門辺りの俯瞰をする、二の丸北御門は一部駐車場にも成って居る。
 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。二の丸北御門辺りから内濠越しに本丸東面、北面、搦手口、北の丸護岸を夏空と共に眺めると壮大さと夏のギラギラが伝わってくる。
 

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カズサン

八代城散策Ⅵ、月見櫓台跡から南東面城塁・大手枡形・三階櫓跡まで (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城散策Ⅴ、小天守台と大天守台・穴蔵内部」の続きで、小天守台の南先から降りて八代宮横を通り夏に咲く紫色の野ぼたんを眺めて日陰で小休止、暑い夏の日中です、南西角に有る月見櫓台に登り周辺俯瞰、月見櫓は本丸南西角の要で二階櫓だったそうです、南面石垣の中程を八代宮の参道、参道橋として開口されてる、櫓台以外の本丸側の内側は土塁仕様と成って居り上部には石落とし付きの漆喰土塀が建てられていた様子、参拝橋を渡り南側に、内濠越しに横櫓・三十間櫓・宝形櫓・磨櫓台を眺めて大手虎口・頬当御門枡形を抜ける、当時は枡形内にメタセコイアの大木が林立し鬱蒼としていました、現在はグーグルマップの航空写真で見ると枡形内は伐採されて整備されて居り見通し、枡形石垣が良く観察できる様になって居ます、本丸内を通って北東角に有る三階櫓跡に至る、三階櫓が北東角、二の丸北御門を睨んで居たのでしょう、周辺を俯瞰する。
 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。
 投稿写真に再度の掲載が有りますがご容赦ください。
 
 

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たっかー

初登城 (2022/09/30 訪問)

すぐ隣の商店の親切なご主人がお城の説明していただきました。

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鎌倉たっちさん

白河小峰城石垣 (2022/10/09 訪問)

石垣復旧し本丸下の帯曲輪へ入れるようになった。本丸北側の石垣が見られる。写真は小峰城で最も古いとされる三重櫓北側の石垣。

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ぴーかる

魚住城 (2021/09/11 訪問)

【魚住城】
<駐車場他>駐車場はなし。近隣に停める場所はないのでタイムズ西江井ヶ島駅前に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅6城目。魚住城は14世紀中頃に赤松氏の一族である魚住長範が築きました。三木合戦の際には魚住氏は別所方につきましたが三木城落城後に廃絶となったようです。発掘調査によって堀の一部が発見されたようですが現在は埋め戻されているようです。現地は住宅地の角隅公園にかすれて読みづらい説明板があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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tsuchinari

鉄板張りで生まれ変わった天守 (2022/10/09 訪問)

昭和の高度経済成長期に、全国各地で次々に作られた外観復元の天守達。
そのほとんどが現在老朽化などで、建て替えるかどうかの選択を迫られている。
その一つ広島県の福山城は天守を往時の姿に近づける再建を行うことで、一つの答えを示した。

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三浦の晃ちゃん

朝早くから (2022/10/09 訪問)

朝6時から開館しているとの情報を得たので、早起きして、行ってきました。

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三浦の晃ちゃん

今日は高山祭り (2022/10/09 訪問)

高山祭りの日でしたが、雨で中止になりました。陣屋はたくさんの人手がありました。

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ぎりょう

人取橋古戦場跡 (2022/09/09 訪問)

二本松・三春訪問の際に本宮市にある人取橋古戦場跡を訪問した。人取橋の戦いは、伊達政宗の仙道制覇にあたり、二本松城主畠山義継が宮森城で輝宗を拉致し、阿武隈河畔で両者ともに死去した事件をきっかけに天正13年(1586)11月17日に起きた戦い。
事件後政宗は、父輝宗の弔い合戦として田村氏、相馬氏を加勢にして畠山氏の二本松城攻めを開始するが、畠山氏救援のため佐竹、蘆名、二階堂、岩城、石川、白川の各氏の連合軍が集結し、阿武隈川支流の瀬戸川に架かる人取橋付近で激戦が繰り広げられたという。
合戦は二本松城包囲の兵を残した伊達勢7000と連合軍30000の戦いとなり、伊達勢は壊滅寸前に追い込まれるが、殿を任された鬼庭左月斎や伊達成実の活躍で政宗は本宮城に入り、九死に一生を得る事が出来た。本宮市の国道4号線の道路脇に、敵中に突入して討死した左月斎の墓と古戦場碑が残る。
なお、残念なことに駐車場は無く、道路脇に車1台分程のスペースがあるだけ。


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ぎりょう

政宗の仙道制覇への拠点となった城 (2022/09/10 訪問)

二本松・三春方面の4か所目は小浜城。宮森城から2km程北へ向かうと東安達地方の中心地、旧岩代町小浜に出る。両側に丘陵地が迫る細長い商店街が続き、近世以降は商業の街として栄えた小浜の有様を今に伝える。街の北端から城址に登るが比高70mの最高所に主曲輪(一ノ郭)があり、その周囲を大小の曲輪が囲む。また谷を挟んで南側から東側へも多数の曲輪を配し、その規模は東西1000m、南北1200mに及ぶと云う。現在公園化された主曲輪に切岸、虎口、堀切、会津蒲生氏の支城となった慶長期に構築された石垣の遺構を見ることができる。
この城は文明3年(1471)に大内氏によって築城されたと伝わり、天正13年(1544)に定綱が伊達政宗に攻められ、二本松、さらに会津に敗走するまで大内氏が城主であった。同年9月には政宗が入城し、翌天正14年7月に輝宗拉致事件を起こした二本松畠山氏滅亡まで攻撃の拠点とした。

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まーやん

惣堀とは何か? (2022/10/08 訪問)

光秀が丹波支配の核として築いた城。敷地内は初めて入った。だって今は宗教施設ですから( 〃▽〃)
天正6年の書状で国人衆である長沢氏に亀山の地に惣堀の普請を命じたとあるが、この惣堀が何かとの議論がある。
惣堀=惣(総)構と思いがちだが、惣構は小田原攻めで全国の武将の知るところとなったもので、光秀の時代にはなかったと考えられる。
では、光秀の書状にある惣堀とは何だったのか?
もちろん私に判るはずもないが、古図にある南側の不整形な用地や、西側から南側に広がる町割り部分ではないかと察する。
亀山城は本能寺へ向かう光秀一行が出立した城として知られる。その数1万3千人とか。
なので惣堀とは兵站基地としてのスペースのことだったかも知れない。本能寺の変に向かう軍勢にも恐らく使われたであろうスペースに思いを馳せながら歩いた。

話変わって、明治の廃城令で破却された城跡を大正期、光秀をリスペクトする出口王任三郎が買い取り亀山城の復興を目指し整備したが、全て自費で石垣を掘り起こし積み直したようだ。
出口氏は亀岡にある穴太(読み:あなお)の出身で、当地にある穴太寺は天台宗の寺で、西国三十三所札所の御詠歌にも出てくる関西では有名な名刹。
亀山城の石垣は穴太積みであり、滋賀の坂本で得た技術者集団に因果を感じないでもない。(勝手に妄想中)

そんなこんなで積み直した石垣も大本への二度の大弾圧により破壊され尽くす。戦後、大本に無罪判決が出るが賠償を得ずまたも自費で整備し直したらしい。感謝感謝。

江戸期、亀山城では日本で最初の層塔型天守閣が作られたと言われている。
城地が城下町より低地に作られるなどという大変奇妙で面白い城である。
大本教の施設内で10分間のビデオも見せてくれ、その後回ると現在までの流れが分かりよいかと。
見所は穴太積みの石垣に刻印があったり、天守閣跡(立入禁止)や南郷池(東側の堀跡)だったりか。
亀岡の町中には高札風の説明板が溢れており、町歩きも楽しめる。
JR亀岡駅は保津川下り乗船場の最寄り駅。色々楽しめる町だ。
(この日応援に行った京都サンガは引き分け(;ω;))

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