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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:垂井城 (2022/08/02 訪問)

小丸城からの転戦です。垂井駅から徒歩6~7分で専精寺入口(35.370259、136.525448)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1600年(慶長5年)平塚為広が12,000石で入封し居城としたようです。
しかし「関ケ原の戦い」で為広は西軍についたため、戦後に廃城となりました。
平塚為広は秀吉の馬廻として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功があったようです。
関ケ原の戦いの直前、挙兵しようとする三成に大谷吉継とともに佐和山城にて諫言したそうですが、三成は聞き入れなかったので西軍に与することとなったようです。

現在城址推定地の専精寺に、城跡碑と説明板があります。
近くにある「垂井の泉と大ケヤキ」も併せて確認しました。
関ケ原の戦いで死ぬ前に大谷吉継に送った辞世の歌の墓碑が城跡碑の前にあります。
垂井城には関係ありませんが、垂井駅前の竹中半兵衛像の写真も一緒に投稿します。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=長屋氏屋敷(城びと未登録 岐阜県垂井町)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:小丸城 (2022/08/02 訪問)

鯖江陣屋からの転戦です。常安楽院入口付近(35.897624、136.229938)に駐車しました。

1575年(天正3年)佐々成政によって築かれたと云われています。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
1581年(天正9年)成政は越中国富山へ移り廃城となりました。

常安楽院は二の丸跡で、本丸は常安楽院の東にあるようです。
本丸の周囲は堀が巡らされ、虎口や石垣が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカーを返却する為、一旦、武生駅に戻ります。
その後、攻城先=垂井城を目指す為、電車で武生駅から垂井駅に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:鯖江陣屋 (2022/08/02 訪問)

三留城からの転戦です。市民ホール駐車場(35.946433、136.184702)に駐車しました。
願かけ地蔵公園横の説明板(35.945327、136.185169)まで徒歩2分くらいで、ここから鯖江藩家老植田家長屋門(35.944821、136.187180)までは徒歩3分くらいでした。

1720年(享保5年)間部詮言によって築かれました。 越後国村上城主間部詮房が没すると弟詮言が養子となり鯖江に入封して陣屋を築きました。
1840年(天保11年)詮勝のとき老中に就き、同時に城主格となり幕府から築城の許可を得たがこれは実現しなかったようです。

現在は市街地となっています。
萬慶寺に移築された城門が唯一の遺構のようですが、レンタカー返却時間が迫っている為、パスしました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=小丸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:三留城 (2022/08/02 訪問)

安居城からの転戦です。三留公民館駐車場(36.039496、136.149716)に駐車しました。

築城年代は不明。一乗谷朝倉氏の初代敏景(孝景)の6男景儀(かげのり)の子・孫六郎景冬が築いたと伝えられています。
その後、景冬の弟景総(かげふさ)、その子・景久へと受け継がれました。 
景久の子千代雅丸が正寿寺の住職となって父母の菩提を弔ったといわれます。

事前調査で詰城はかなり、わかりにくそうな場所のようなので登城は断念し説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鯖江陣屋に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:安居城 (2022/08/02 訪問)

小黒丸城からの転戦です。消防機具置場横空スペース(36.073533、136.173015)に駐車しました。
後でわかりましたが駐車禁止場所ですので、池の手前を左に登った先の「かめやま広場」駐車場を利用してください。

築城年代は定かではないようですが、斯波高経の家臣細川出羽守によって築かれたと云われ、足羽七城(小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城)の一つとされるようです。
朝倉氏の時代には朝倉経景が城主となり、景隆、景健と続きました。織田信長によって朝倉氏は滅ぼされたが朝倉景健は赦され安居氏を称しました。
しかし、1574年(天正2年)越前に一向一揆が起こるとそれに降り、翌1575年に織田氏によって一揆が鎮圧されると再び織田氏に降ったが、赦されず自刃して滅亡しました。
その後、1575年(天正3年)羽柴秀吉の家臣戸田武蔵守勝成が、10,000石で安居城主となりましたが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍に属して討死し滅亡しました。

頂上広場まで40分(帰路を考えると70分程度)の表示に、当初予定の20分を大幅にオーバすると思い、登り口で引き返しました。
あとで確認したら安居城跡は頂上広場のかなり手前であることがわかり、登城を断念したことを悔やみました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三留城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:小黒丸城 (2022/08/02 訪問)

鷹巣城からの転戦です。石碑横空スペース(36.103707、136.189809)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1337年(建武4年・延元2年)頃に北朝方の足利高経(斯波高経)によって築かれたと云われています。
大黒丸城の出城といわれ、足羽七城(小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城)の一つとされるようです。
1338年(建武5年・延元3年)藤島の戦いでは、北朝方に寝返った平泉寺衆徒の籠る藤島城の援軍に向かってこの城から発した軍勢が南朝方の大将新田義貞と遭遇し、燈明寺畷で義貞を討っています。
しかし、翌年義貞の弟脇屋義助が再び挙兵して黒丸城を攻めると、足利高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れました。

小黒丸城の石碑が建てられているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安居城に向かいます。

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モト

見応えある堀切が拝めます (2022/05/24 訪問)

本丸までの間に堀切がいくつかと米倉跡との堀切を存分に楽しめました。
駐車場から歩いて行くと3分ほどで城址への入り口があります。
その前に案内所のような所があります。
城跡は山城ですので山を多少登って行く感じになります、
案内所では城跡のある山の案内と山登りの為の登山名簿に記入をしました。
その案内所にいらっしゃるおばさんが明るくてめちゃくちゃ良い人でした。

いざ登城へ。
本丸までは本格的な登山というほどではないですがある程度山道になります。
いくつかと堀切はありますが、私は本丸と米倉跡についてから望める堀切が気に入りました。

戻ってからは再び案内所へ。
下山の報告を済ませると、おばさんが飲み物をくれました。
また、周辺の城跡の案内もしてくれましたよ。
しばらく世間話しもして楽しい時間を過ごしました。
あれ、城跡よりも印象的な感じになってしまった。

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POYO58

福井旅行城巡りpart2 一乗谷城 続き

さてやっぱり一乗谷城といえば唐門。一乗谷城の唐門は秀吉が朝倉家の弔いのために建てたもので現在あるのは江戸時代に造られたものです。残念ながら朝倉家のものでは無いのですが、復元と思っていた僕は、江戸時代から残っていると知り、おどろきました。唐門をくぐると礎石が並んでいます。石碑には井戸跡や台所と書いてあり、ここで朝倉家は暮らしていたのではないかと思いました。また朝倉家のお墓もありました。朝倉義景の墓は越前市にもあるのですが、朝倉義景は一乗谷城で自害に追い込まれたとされています。そこで手を合わせて一乗谷城を出ました。一乗谷城はもちろん山城なので、山の方に竪堀などの遺構が残っているようですが、その日は運悪く大雨だったため断念しました。その後、武家屋敷に行きました。受付で御城印買って、スタンプも押しました。武家屋敷は復元ですが、発掘調査に基づいて復元されているため、当時のものと大差はないそうです。また礎石もしっかりと残っているので、遺構状態は良好でした。この城は明智光秀の運命を変えた城でもあります。歴史上とても重要な場所なので、城に興味がない人も行く価値はあると思いました。

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朝田 辰兵衛

忘れ石の存在がとても印象的。 (2020/09/20 訪問)

内膳丸〜遠見櫓間の登り石垣は,山枯れ時季にその存在感を示すのかな…と思いました。登城道は,比較的登りやすかったです(あくまでも主観です)。忘れ石の存在がとても印象的でした。

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火ノ島豊後守正宗

小机城 (2022/09/05 訪問)

続68城目。
JR小机駅から住宅地を抜けて徒歩10分程度で到着。
ちょっとした城址公園でした。竹林の並木道が風情があります。
城内は迷路でした。出口が分からず何度も道に迷いました。
スタンプは駅の近くの小机地区センターで押せます。
ちなみに車で行く方は要注意です。住宅街なので道は狭く駐車場も探すのに苦労するでしょう。

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ぴーかる

金森城 (2022/09/04 訪問)

【金ヶ森城】
<駐車場他>駐車場はなし。金森霊園の前に暫し停めさせてもらった。
<交通手段>車

<感想>日帰り東近江ちょこ城巡りの旅1城目。滋賀県守山市金森の地は14世紀頃までに支配していた川那辺氏が浄土真宗(一向宗)に帰依し道場を開くようになります。現地石板碑によると、道西坊善従(川那辺矩厚)の時代(1399ー1488)には水濠をめぐらす寺内町が形成されて寺内町の初期形態があったといわれています。戦国の世には土塁・濠をめぐらす金森城として石山本願寺を攻める織田信長軍を牽制したとあります。
 戦国武将の金森長近(はじめ大畑可近)は美濃国の出生だが父の大畑定近が土岐氏の後継者争いに敗れてここに移住します。金森長近も18歳までここで暮らし織田信秀に仕官します。次代の信長にもそのまま仕えて立身したというわけです。
 現地は城びとポイントの金森御坊は非公開で門が開かれていません。Googleマップの善立寺の南側の金森城跡に石碑があります。

<満足度>◆◇◇

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火ノ島豊後守正宗

興国寺城 (2022/09/04 訪問)

続67城目。
JR原駅より徒歩30分かけて苦労して登城しました。
スタンプは奥の神社の横にありました。
無人でありワイヤーで固定されていなかったのでちょっと不用心な気がします。
城内は・・・・はっきり言って空き地です・・・・

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火ノ島豊後守正宗

石垣山城 (2022/09/04 訪問)

続66城目。
JR小田原駅前より観光バスに乗ってやってきました。
休日オンリーで観光バスが出ていますので、公共交通機関を使う方は
休日に行くことをお勧めします。
小田原城を見渡せるところにあるので景観は大変すばらしかったです。
スタンプは駐車場内のトイレの近くにありました。

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火ノ島豊後守正宗

小田原城 (2022/09/04 訪問)

正69城目。
JR小田原駅より徒歩10分程度で入口に到着。
城は駅からでも見えますが、入口がちょっと分かりにくかったです。
城内は聞いていた通り結構広かったです。
スタンプは天守閣内にていただけます。

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火ノ島豊後守正宗

山中城 (2022/09/03 訪問)

正68城目。
JR三島駅前より観光バスに乗って20分程度で到着。
みしまる切符という1日フリーパス券を購入することをお勧めします。
この城はとても良く整備されており山城でありながら大変歩きやすかったです。
スタンプはバス停前の休憩所にていただけます。

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火ノ島豊後守正宗

駿府城 (2022/09/03 訪問)

正67城目。
JR静岡駅より徒歩20分程度で到着。
ちょっとした城址公園です。
休日ということもありましたが、かなり人が多かったです。
スタンプは東御門の券買所にていただきました。

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火ノ島豊後守正宗

高天神城 (2022/09/03 訪問)

続65城目。
掛川駅前よりバスで30分程度で下車。
そこから徒歩20分程度で入口に到着。本丸へは10分程度で行けます。
昨日と違って本日は晴天に恵まれました。そのお陰でとても暑かったです。
スタンプは掛川駅内の案内所にていただきました。

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火ノ島豊後守正宗

掛川城 (2022/09/02 訪問)

正66城目。
JR掛川駅より徒歩10分程度で到着。
アクセスは楽なほうでしょう。
ちょうど天守閣が工事中で城内をあまり散策できなかったのが残念でした。
スタンプは二の丸御殿にて。
このすぐ後にメチャクチャ雨が降ってきました。早めに切り上げて良かったです。

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火ノ島豊後守正宗

諏訪原城 (2022/09/02 訪問)

続64城目。
JR金谷駅より徒歩20分程度かけてやってきました。
山道ではなくアスファルトの急坂道をひたすら上って登城しました。
当日は天気が悪かったですが頑張って到着しました。
スタンプは諏訪原城ビジターセンターにて。

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鳥取城出城を秀吉軍が接収して包囲網に (2022/09/04 訪問)

鳥取城周辺を「お城を探す」で見ていると、丸山城が未投稿であるのを発見。鳥取城をしっかり散策するのと併せて登城。
鳥取城は、花崗岩の切り立った山塊の上にあり、花崗岩の尾根は、比高を下げながら北西に伸びて、一旦地面下に埋まって、その先で独立丘=丸山城として現れます。丸山城は、1枚目の写真に掲載したように名前通り丸っこい山体です。頂部には、硬い玄武岩が被さっており、このために頂部が平で、斜面が急な丸っこい形になったものと思われます。登城道はつづら折れになってますが、それでもとても急で、ロープを張ってある箇所もありました。この急斜面だけで守れそうですが、秀吉軍に接収されて、鳥取城包囲網に使われたのですなあ。
廃寺となった遺構があるとのことでしたが、倒壊した鐘撞楼はそんなに古くない時代のものに見えました。まだ生々しい。

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