岐阜県不破郡垂井町には関東公方・足利持氏の遺児 春王・安王の墓があります。永享年問(1429〜1441)足利持氏は関東管領・上杉憲実と戦い幕府の援護を受けた憲実に持氏は討たれてしまいます。
春王・安王は下総の結城氏朝に匿われますが、嘉吉元年(1441)結城城は幕府の攻撃に会い落城し、春王・安王は囚われの身になります。二人は京都への護送中、垂井の金蓮寺において斬首され京都で晒されたのち、金蓮寺に埋葬されたとのことです。
私は南側からアクセスしましたが、北の国道21号線からアクセスした方が良いでしょう。同地には関ヶ原古戦場の池田輝政陣所もあり案内板も立っています。
私は関ヶ原に関しては一般に知られている陣跡以外の裏側ばかり投稿していますが、ひとしきり表も回っているので、そちらもぼちぼち投稿していこうと思っています。
私は関ヶ原は構造上、国家の命運を左右する規模の決戦を行うのに適した構造を持ち、古くは鎌倉時代元寇の頃から明治時代、日清戦争の直前まで時代の施政者や軍部を預かる者から注目をされていたと考えます。
私は白峰旬氏らが一般に発表されている一次資料による新説などを踏まえ、自分の目で見て考え、ある程度の考察をまとめています。遺構にしても、関ヶ原以前に築かれたものか、明治時代に軍部によって成されたものか、昭和以降に杉の植林で扁平されたものか、はっきりしないものもあります。明治に発表された陣所の外側にも遺構(らしきもの)が存在することに注目するべきだと思います。
関ヶ原の投稿を踏まえた上で、自分なりに豊臣秀吉の最期についての推察をまとめて行きたいと思っています。自分はあくまで一般ピープルなので一次資料を解読して新説を発表するということは出来ません。自分に出来るのは歩いて見て考えることだけです。その時代の背景や必然性、その時代を生きた人々の性格や考えなどを考慮し、その時代の医学や科学の発展の度合、地形や地質学的な要素も踏まえて挑んで行きたいと考えています。不快に思われる方もいるかもしれませんが、あくまで「私個人」の意見や考察ですので、そこはご了承願います。
まずはせっかく関ヶ原の古跡を回っているので、通例にそって投稿していきたいと考えています。
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