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歴史案内活動【令和4年10月1日(土)9:00~12:00】 (2022/10/01 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

10月1日土曜日、躑躅ヶ崎館跡の歴史案内活動を行います。
先月の活動が珍しく雨で中止となってしまって(当隊は晴れ男が多いのに)、
埼玉在住のEは久しぶりに甲府を訪れての活動です。

COVID-19の猛威はいまだ油断すべからざる状況ながら、
当隊は感染防止対策をとりながら活動をしています。
ついこないだまで猛暑の中にいたはずなのに
いつの間にか人に断りもなく10月を迎えた山梨・甲府。
行楽シーズンそして何よりいよいよ月末に信玄公祭りを控えて
多くの人をお迎えすることを予想しています。
楽しい思い出のひとつになるよう、
楽しくわかりやすい歴史案内を行います。


日時:令和4年10月1日(土) 9:00頃~12:00頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天、COVID-19感染拡大状況等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、感染防止のため甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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ぴーかる

豊地城 (2022/09/11 訪問)

【豊地城】
<駐車場他>城跡碑のある観音堂に1台くらいなら停めれます。
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅4城目。「といちじょう」と読みます。十日ごとに市がたつ十日市が変化したものだと言われているそうです。豊地城の築城者は定かではない。城主は複雑に変わったらしく略して説明すると、南北朝時代に金谷経氏という武将が南朝方として周辺の城とこの城を中心に戦った。室町時代には赤松氏の家臣依藤氏が治め、戦国時代には別所重棟が城主となります。三木合戦の時には別所重棟は秀吉に加担したのですが、戦後城は破却されたそうです。
 現地は土塁が1つ、堀跡、県道沿いと観音堂にそれぞれ城跡碑があります。小野市立好古館に出土品(このあと来訪)、「誉田の館いろどり」にて御城印が販売されています。

<満足度>◆◇◇

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侍ホリタン

賤ヶ岳の七本槍、加藤嘉明公築城の名城を訪ねて (2022/09/23 訪問)

本丸広場は5時から21時まで無理開放されています(冬季は5時半から)。夜の天守のライトアップ、松山市内の夜景は素晴らしいです。早朝は本丸広場にてラジオ体操を実施していました。松山城天守へはロープウェイ、リフト利用の他に4つの登山道が整備されています。いずれも登り20分、下り15分ほどです。「黒門口登城道」は急な石段と舗装されていない山道になっています。登山口近くに二之丸史跡庭園専用の無料駐車場があるので庭園と天守を訪問される方は利用可能ですが、利用可能時間が9時から17時15分までなので注意が必要です。照明設備がないので夜は利用しない方が良さそうです。大手門跡に到着できます。「古町口登城道」は舗装されていない山道ですが照明設備があるので夜でも利用可能です。搦手方面に到着できます。「県庁裏登城道」は舗装された山道です。照明設備もあるので夜でも利用可能、登り石垣を見学する事ができます。「東雲口登城道」はロープウェイ乗り場近くからの登山道で舗装された山道、照明設備もあるので夜でも利用可能です。

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赤い城

小仏城山 東京都八王子市 (2022/09/04 訪問)

なかなか行く機会が無かった高尾山に行きました。
もちろんロープウェイは使わず徒歩です。
薬王院から高尾山頂を経て小仏城山を目指しました。
高尾山頂から60分の案内がありましたが約40分で小仏城山に到着。
ハイキングコースが整備されているので歩きやすいです。
山頂には茶店があり、とりあえずビールともつ煮をいただきました。
美味しかった!
遺構はよくわからないですが曲輪や虎口っぽい部分がありました。
実際は城というよりは街道を見下ろす砦だったのではないでしょうか。
高尾山、もう少しで紅葉の季節。
多くの登山者で賑わいそうです。

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朝田 辰兵衛

おまん,泣いとる❔ (2022/09/24 訪問)

念願のJR外房線巡りでしたが,台風15号の影響で最悪な天候。それでも,電車が動いていただけで幸運。JR総武線は八街付近で被害が発生し,銚子方面に影響が出ていました。
JR勝浦駅から徒歩約25分かけましたが,持参の傘は役立たずでした。お万の方像が泣いているように見え,カルビンさんばりにドアップで撮りました。

この日の朝,ホテルのTVで静岡県内の被害状況が報道されました。あれからしばらく経過しましたが,カズサンさんが被害レポートをしてくださって感謝です。そもそも,ご自身・ご家族は大丈夫だったんでしょうか…?
第三者的に見て,断水の復旧に時間を要した印象があります。電力は,送電鉄塔2基が倒壊した映像が流れた割には,停電解消が早かったように思えます。

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カズサン

笹岡城(二俣古城)は台風15号被災で土砂崩れ (2022/09/28 訪問)

 台風15号の豪雨被害の大きかった浜松市天竜区二俣町は二俣川の氾濫による嘯月橋(二俣大橋の一本北)の崩落、天竜区役所裏の土砂崩れの報道が有りもしやと、二俣城探訪し被災無し、二俣城の搦手から北へ天竜川沿いの尾根道、集落を約1.6km程進行し、天竜区役所に隣接してる笹岡城(二俣古城)に抜けて行けます。
 天竜区役所の裏側駐車場へ向かいましたが、土砂が崩れて通行止め、笹岡城の残ってる遺構の物見曲輪本城山は被災、災害復旧工事の最中でした。台風15号の豪雨、線状降水帯が6時間の大変な雨量だったのですね。

 笹岡城(二俣古城)は天竜区役所が城域です、元天竜市役所建設で発掘調査の上、遺構は消滅しましたが、北裏の本城山に物見曲輪、区役所東に土塁が残ってるとか?(案内板に由る)
 笹岡城の案内板は天竜区役所(住所:天竜区二俣町二俣48)駐車場入口の山裾に設置してあります。

 発掘調査では本曲輪で井戸、青磁、木工品、カワラケ、柱材等発見されたそうです、今川氏親以前は二俣城、鳥羽山城の本城と機能し戦が激しく成り守りやすい二俣城に移ったと。(案内板抜粋追記)

 笹岡城は二俣古城とも言われ、二俣城で投稿致しました。
 

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AJ

聖地を探せ (2022/09/14 訪問)

春高楼の花の宴--の歌い出しで知られる「荒城の月」。あ〜、滝廉太郎だっけ?という会話は半分正解。たしかに作曲は滝ですね。では作詞は?

会津若松城の本丸東南隅にこの歌の詩碑が建てられたのは1947年。中学教師だった土井晩翠が東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)から作詞を依頼されてからすでに半世紀が過ぎていました。つまり、長い間知らなかったわけですね。「荒城」の作詞素材がこの城であることを。それを明らかにしたのは晩年の土井その人。講演を聞いていた会津市民は

(゚Д゚)

そこから急ピッチで募金活動が進み、わずか1年足らずで落成式が行われています。どこか微笑ましいエピソード。

仙台の高校生だった土井は昔、会津を訪れていたようです。あれ、仙台?じゃあ青葉城は?という疑問は真っ当です。こちらの印象も素材になっているようで、1952年に建碑されました。ただ、戊辰でも戦場にならなかった仙台が「荒城」とどう結びつくのか詳しく知りたいところです。

そして滝廉太郎。城郭検定受験者の中には「荒城の月=岡城(大分県竹田市)」とインプットされている方が多いかも知れません。滝の故郷ですね。もちろん、ここにも建碑されています。ところで岡城といえばもう1人。志賀親次。18歳で三千の兵を率い、10倍の島津軍を撃退したと伝えられています。滝の「荒城」イメージはこの辺にありそうです。

というわけで、少なくとも3つの「聖地」が名を連ねています。それぞれで月を愛でてみてはいかがでしょうか。

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にのまる

江戸いろいろ散歩 (2022/07/17 訪問)

既に終了しているのですが(7/16~9/11)、国立公文書館で催されていた企画展「江戸城の事件簿」に行ってきました。江戸城内で起きた刃傷・窃盗事件などの記録文書の展示で、人間の感情は根本的なところではいつの時代も変わらないものだなぁと思ったりしながら見学しました。事件が起きた場所を古地図で確認し、現在ではどのあたりなのかを考えるのも楽しかったです。
現在地と重ねると言えば、イオさんがご紹介されていたくろもりさんおすすめの“大江戸今昔めぐり”は本当にありがたいアプリです。(スタンプラリーにも挑戦したい!)加えて私が江戸城外郭めぐりの際に頼みとしたのが『江戸城新三十六御門重ね絵図』です。神保町の書泉グランデで一目惚れしたB1サイズの大きな手描きの重ね絵図で、無断転載お断りなので写真は載せませんが、壁に貼ったり床に広げたりして紙上江戸城巡りを楽しんだり、予習・復習に使ったりしました。

国立公文書館で同時に展示されていたのが重文の「吾妻鏡」で、会期中展示替えがありましたが、私が行ったときは頼朝挙兵の頁で、“武衛”の文字に上総介を偲んだりしました。

展示を見終えてからは北の丸公園へ。目的は100名城スタンプです。江戸城のスタンプはさすがに押印済み。持参したのは「厳選24城スタンプラリー」のスタンプ帳です。このスタンプ帳はまだあまり知られていないかもしれませんが、日本城郭協会監修、編集も城びとさんお馴染みのかみゆ歴史編集部で、達成するとデジタル認定バッジがもらえます。私は3度目以降の訪城でこのスタンプ帳を使うことにしました。尚、江戸城のスタンプは楠公休憩所・和田倉休憩所・北の丸休憩所の三か所となっていますが、北の丸休憩所は、「ザ・フォレスト北の丸」ではなくて武道館正面入り口前の駐車場の係員さんがいらっしゃる小さな建物の中でした。
※現在は北の丸のスタンプ設置場所は、北の丸公園管理事務所(平日8:30〜17:00)と第三駐車場(上記駐車場・8:30~17:00)のようです。

また、別の日(7/23)ですが、無料観覧日だったので(^_^;)東京国立博物館に行き、その帰りに上野周辺の散策をしてきました。江戸の風情が色濃く残る下町を歩き、黒田家の江戸屋敷鬼瓦と重文の旧因州池田屋敷表門(黒門)、寛永寺、徳川綱吉霊廟勅額門、谷中墓地の徳川慶喜墓所へ。両国に移動して吉良上野介邸、勝海舟生誕地(両国公園)などを見てきました。
江戸城散策にいらっしゃる際には明るいうちでしたら下町散策もよいですよ(^^)/

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赤い城

八雲八幡神社 (2022/09/04 訪問)

八王子駅から徒歩で8分くらい。
八雲八幡神社が館跡とされ、境内には横山党開祖の横山義孝を祀る横山神社があります。
周辺は住宅地で遺構はありません。
横山氏は武蔵七党の最大勢力でした。
鎌倉時代には鎌倉氏の13人の和田義盛と姻戚関係を持ち、北条氏との戦いで敗れました。
早朝にも関わらず近所の方が多く参拝されていました。

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AJ

大博打の始まりじゃ〜 (2022/09/14 訪問)

周辺を歩き回った後、ついに城攻め。もはや町のシンボルとしてだけでなく、国の重要史跡として連日観光客を集める会津若松城(鶴ヶ城)ですが、ある時期まで競輪場だったことはあまり知られていません。収益は相当あったらしく、それを元に市民の悲願だった天守復元を成し遂げるというかなり珍しいケースです。

会津戦争で大破した五重の天守は1874年に取り壊し。1950年には本丸跡に公営競輪場が設置されますが、批判の声もあり移転、その後中止。そして65年、鉄筋コンクリート造りで外観が復元されました(内部は博物館)。古写真を見るかぎり、競輪が行われていた頃も、古式ゆかしい天守台だけはどっしりと存在感を放っています。建物だけでなく、その石垣を堪能することをおすすめします。

とにかく古いものが見たいという方は天守台の隅角に注目。算木積が未発達な頃に積まれた石垣で、最下段の巨石は天正末期から文禄期の特徴を示しているとされます。豊臣秀吉の奥州支配の拠点という位置づけで蒲生氏郷が大改修を加え、近世城郭化しました。資料は残っていませんが、当時は七重の天守だったと言われています。伊達政宗ら奥州大名への牽制、さらには関東に入った徳川家康の背後を押さえるという重要な意味合いの城だったことがわかります。その後、大地震で傾いた天守は五重に縮小され、戊辰戦争後まで残りました。

天守は層塔型。破風が少ない単調な見た目を勝手に想像していましたが、良い意味で裏切られました。まずは最上階の廻縁と高欄が格式を与えます。そして屋根に変化をつけた出窓(張出部)や付櫓がグイっと自己主張。さらには腰屋根のように見える土塀が天守台をぐるり、といった感じで意匠に変化をもたせており、長時間、さまざまな角度から眺めても飽きません。歩き疲れた脚を休めつつ、西日を背にした巨大天守をぼーっと見上げるのは至福の時間でした。

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第29回全国山城サミット恵那大会 (2022/09/28 訪問)

 第29回全国山城サミットが今年の10月22日、23日岐阜県恵那市で開催されます。第26回が同じ岐阜県の可児市でしたので、こんなに早くまた岐阜県で開催されるとは意外でした。恵那市は三大山城のひとつである岩村城があり開催地としては的確な場所なのでしょう。春風亭昇太師匠も来るみたいです。

ここで恵那地方のグルメ情報を2つ
 もしこちらに来られる機会があれば参考にしてください。

 この時期(9月~12月)、この地方(中津川市、恵那市、八百津町)で有名なお菓子に「栗きんとん」があります。岐阜で「栗きんとん」といえば、茹でた栗を裏ごしして砂糖を加え、茶巾絞りにした和菓子のことで、お節料理に出てくる料理とは異なります。1個300円前後するかなり高めの和菓子ですが、上品な味わいで人気があります。いろいろな和菓子屋さんが発売されています。写真は「恵那寿や」さんのものです。(写真4)

 この地方は五平餅もよく食べられていて美味しい店が多く存在しています。写真は恵那駅近くの「あまから」さんの五平餅で小判型ではなくだんご型です。胡麻と胡桃でできた醤油ベースのたれを使用されていて人気があります。(写真5)

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岡崎城

リニューアル工事休館中の100名城スタンプと御城印販売について

岡崎城は現在リニューアル工事休館中ですが、100名城スタンプと御城印販売について、次のとおり対応を変更させていただきます。

【100名城スタンプ】
 バス優先駐車場閉鎖に伴い9/26(月)より撤収→10/1(土)より乗用車駐車場で押印可能(9:00~17:00)
【御城印販売】
 郵送対応のみ→10/1(土)より乗用車駐車場で販売(9:00~17:00)

これより以前にご来園いただいた皆様、また、お問い合わせいただいた皆様には、ご不便をおかけして大変申し訳ありませんでした。

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カズサン

台風15号被災は?心配で登城も問題無し。「土塁・堀編」 (2022/09/28 訪問)

 先投稿の「石垣編」の続きです、土の城二俣城も健在ですし見所も沢山有ります、搦手登城路からの順で等越します。
 堀、土塁、切岸も台風15号の被害は有りませんでした、また一安心合わせて約1時間の探訪でした。
 ご安心して二俣城お訪ねください、11月頃が紅葉の二俣城の見頃です。
 

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カズサン

台風15号被災は?心配で登城も問題無し。「石垣編」 (2022/09/28 訪問)

 台風15号の線状降水帯が6時間も掛かり台風豪雨水害被害では、二俣城の在る二俣町二俣川嘯月橋崩落、旧天竜市役所現天竜区役所裏の土砂崩れが報じられていましたので、二俣城の現状はどのように成ってるのかと心配で出掛けてみました。
 搦手側の駐車場に駐めて、搦手登城路問題無し、大堀切、同高土塁問題無し、本丸北門食違い虎口問題無し、北の丸問題無し、本丸問題無し、天守台も健在問題無し、本丸中仕切り門跡問題無し、二の丸内部問題無し、大手門跡も問題無し、南の丸Ⅰも問題無し、南の丸Ⅱと西の丸は昇り降りの高低差が有りパス、本丸東石垣塁も問題無し、大手登城路問題無し赤い彼岸花が咲き綺麗です。
 中枢部は豪雨被害無く安心しました、私より前に二組のご夫妻が探訪されており閑散とした城址で無くてまた安心。
 
 安心の言葉だけではいけませんので、先に「石垣編」として写真投稿します、後編で「土塁・堀編」の土の城部分を投稿します。
 ご安心してご登城下さい。
 

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侍ホリタン

伊予国守護、河野氏の居城を訪ねて (2022/09/23 訪問)

道後温泉近く道後公園内にあります。駐車場は公園北口(道後温泉近く)、公園西口(湯築城資料館近く)の有料駐車場が便利です。100名城スタンプ、御城印は湯築城資料館内にあります。湯築城資料館では数名のスタッフの方が親切丁寧にお城の説明をして下さるので、ここで説明を受けてから見学するのがおすすめのです。ここは元々石垣、天守は存在していませんでしたが、広大な敷地内には土塁、内堀、再建された武家屋敷等が点在しており見所多数、特に土塁展示室は迫力ありました。

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土岐氏の城 (2022/09/29 訪問)

 源頼朝に仕えた土岐氏の祖、美濃守護土岐光衡によって築かれたとされていますが、諸説あるようです。戦国時代には武田と争っていた織田信長、信忠親子も立ち寄ったといわれています。千畳敷と呼ばれる主郭を中心に南東にのびる2つの尾根に東出丸、西出丸を設けて、その姿から鶴ヶ城といわれていました。ただ両出丸は昭和48年の中央自動車道の工事で多く削られてしまったとのことです。土塁や井戸が残っています。圧巻は主郭背後の大堀切で、西出丸から行くことができます。「久太郎の戦国城めぐり」さんのHPでは、縄張り図に別の尾根にもうひとつ堀切があることが描かれていました。崖っぷちに踏み跡のような道はありましたが、少し怖かったので行っていません。主郭から見えるかもと、見下ろすと尾根はわかりましたが堀切はわかりませんでした。
登城路は整備され歩きやすく登城口から主郭まで10分くらいでしょうか。
 この城の背後には天神山城、裏天神山城があるということは、ここに来て初めて知りました。機会があれば行ってみたいと思います。

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侍ホリタン

木造復元天守の名城を訪ねて (2022/09/23 訪問)

車利用の場合、観光第一駐車場が便利です。無料で24時間開放されています。ここから天守まで徒歩10分弱です。4棟の櫓と下台所は現存のものになります。4つの櫓のうち三の丸南隅櫓、苧綿櫓(おわたやぐら)は天守と少し離れた場所にあります。天守内部は木造で美しく清潔感あふれるものでした。天守から高欄櫓の1階、2階を見学する事ができます。

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モト

西方城の山嶺部 (2022/09/25 訪問)

栃木市にある西方城の山嶺部にある城びと未登録の城跡です。
西方城とセットで考えられている節もあるようです。
陣屋として使用されていたとの事で空堀や土塁に囲まれた本郭には石積が見れました。

西方シンポジウムに参加前に西方城と合わせて登城しましたが、詳細を知って歴史的にもなかなか面白い城跡であると確認いたしました。
藤田能登守信吉によって築かれた城。
元々は上杉景勝に仕えていた武将で関ヶ原後に親交のあった徳川家に仕えて西方領をもらったとの事。
徳川家へ行く時は直江兼続に相当追い討ちをかけられて数名の残りになりながら命懸けの逃避行をしたとか。

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ダイエティシャン

八王子城ダイジェスト (2022/08/30 訪問)

22年度前半戦の総仕上げに
都内の八王子城へ。江戸城も検討しましたが、コロナ軍の攻撃がまだ収まらないので、諦めました。

22年後半戦は、近場になりそうです(前半戦で、予算を使ってしまった為と、仔猫の子育て【⑩枚目】の為)

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イオ

高野山奥之院(中の橋~弘法大師御廟) (2022/08/27 訪問)

(続き)

中の橋を渡ってすぐ左手の汗かき地蔵の隣にある姿見の井戸には、井戸を覗き込んで自分の姿が映らなければ三年以内に亡くなるという言い伝えがありますが……とりあえず三年は大丈夫のようでした。覚鑁坂を上って行くと右手奥に密厳堂があり、高野山から移って根来寺の開山となった覚鑁上人が祀られています。だから覚鑁坂なんですね。

覚鑁坂の先も参道沿いには多くの大名家の墓所が建ち並んでいますが、少し変わったところでは、高麗陣敵味方戦死者供養碑があります。島津義弘・忠恒父子が文禄・慶長の役での戦死者を敵味方を問わず供養するために建てたもので、まさに高野山に相応しい墓所です。

中の橋駐車場への分岐を過ぎたあたりで左手の脇道を上って行くと、崇源院(浅井三姉妹の江)の墓所があります。崇源院から寵愛されていた駿河大納言忠長が母の供養のために建立したもので、奥之院で最大の五輪塔のため一番石と呼ばれています。その隣は本多家(播磨姫路)の墓所で、崇源院と本多家の間には崇源院の娘であり本多忠刻の正室となった天樹院(千姫)の供養塔が建てられています。

参道に戻って少し行くと、加賀前田家二代利長の墓所があり、巨大な五輪塔は三番石と呼ばれています。さすがは加賀百万石ですね。参道の向かい側には利長夫人の墓所もあり、調べてみると正室の玉泉院(永姫)は織田信長の娘で、二人の間に子はなかったものの、夫婦仲は良好だったようで、400年を経た今も向かい合って並ぶ二つの墓所に何やら微笑ましい気持ちになりました。

さらに進んだ先の安芸浅野家墓所の五輪塔は二番石。42万石超の大藩というだけでなく、紀州徳川家の前の紀州藩主だった関係もあるでしょうか。浅野家墓所の裏手には尾張徳川家の墓所がありましたが、水戸徳川家の墓所はありません(または見つけられません)でした。また、浅野家墓所の斜め向かいには松平秀康及び同母霊屋があり、上杉謙信や井伊掃部頭の霊屋は木造でしたが、この霊屋は石造になっています。

松平秀康石廟の先で参道は左右に分岐します(御廟橋の手前で合流)。左側へ進み脇道を上って行くと豊臣家墓所に至り、秀吉をはじめ、大政所、秀長ら一族の五輪塔が建ち並んでいますが、敷地は広いものの五輪塔の大きさはそれほどでもありません。御廟橋の手前で左側の脇道に入ったところには織田信長の墓所がある……にはあるんですが、正直拍子抜けする大きさの五輪塔で、何故か筒井順慶と隣り合っています。考えてみれば、本能寺の変がなければ高野山を焼き払っていたであろう信長であっても、分け隔てなく供養されているのは凄いことなのかもしれません。また、分岐の右側参道沿いには浅野内匠頭と四十七士の墓所や、秀吉との交渉で高野山攻めを防ぎ、その後の興隆に努めた興山応其上人廟などがあります。

その他、中の橋から御廟橋までの間では、岡部家(泉州岸和田)、加藤家(伊予大洲)、里見家(羽州最上)、鳥居家(信州高遠)、小出家(丹波園部)、真田家(信州)、最上義光(羽州山形)、中川家(豊後岡)、浅野家(安芸)、根来家(泉州熊取)、毛利家(長州)、阿部対馬守、土井家(下総古河)、石川家(伊勢亀山)、戸沢家(羽州新庄)、水野家(備後福山)、堀家(越後村上)、亀田大隅守、松平(久松)家(伊予松山)、本多家(三河岡崎)、黒田家(筑前)、南部家(奥州)、松平忠政(美濃加納)、向井家(相模三浦)、稲葉家(豊後臼杵)、酒井家(羽前庄内)、松平家(肥前島原)、青山幸成(摂津尼崎)、脇坂家(播磨龍野)、西尾家(安房)、松平家(下総佐倉)、松平家(丹波篠山)などの墓所を確認しています。

御廟橋の先にも春日局の供養塔などいくつかの墓所がありますが、弘法大師のおわす聖域中の聖域のため写真撮影はできず、見て回るだけです。そして御廟でお大師さん(地元では親しみを込めてこう呼びます)に手を合わせて、奥之院を後にしました。

…ということで、いくつか見落としはあるものの、都合5時間で主なところはひと通り見ることができましたが、リーフレットに載っておらず現地に案内のない墓所でも、五輪塔に刻まれた文字を読んでみると(意外に読めます)まだまだ大名家の墓所はあるようで、とことんめぐり尽くそうと思ったら、本当にきりがなさそうです。何も5時間もかける必要はありませんが、行ったことのある城や馴染みのある大名家の名前に次々と遭遇できるのはなかなか面白い経験だと思いますので、これからの紅葉シーズンか、夏場に避暑を兼ねてぜひご訪問下さい。杉並木の参道沿いに苔むした墓碑が林立する光景は一見の価値ありです。
 

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