かめがさきじょう

亀ヶ崎城

山形県酒田市

別名 : 酒田城、東禅寺城
旧国名 : 出羽

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二の丸土塁
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しんちゃん

キャッスル・イン・ハイスクール (2021/05/03 訪問)

亀ヶ崎城は文明10年(1478)に武藤氏が築いた東禅寺城が始まりとされています。上杉氏、最上氏と領主が入れ替わり最上氏が改易の後に酒井氏が庄内を領し城代が置かれたそうです。かつては隣接する本丸と二の丸を堀が囲み新井田川から水を引きこみ外堀としていたようです。現在は酒田東高校の敷地となり二の丸に校舎が置かれ、かつての本丸はグラウンドになっているようで内堀は消滅したようです。
二の丸周辺には土塁が残っていて往時をしのばせます。こうして学び舎となった後でも土塁などの遺構をのこしていただけるのは非常にありがたいことで、青少年の情緒教育の一端になれば良いな(将来は城びと?)と思ったりします。

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ぎりょう

落ち込む気持ちを海鮮丼で! (2023/11/06 訪問)

鶴岡・酒田の旅、二日目は酒田方面に。庄内藩の本城鶴ヶ岡城の他に城として認められていた亀ヶ崎城跡を訪れた。この城は、最上川が現在より東側を流れていた時代、新井田川との合流地点に三重の堀と土塁によって築かれた平城。本丸と二の丸が並んで配置され(かつては一つの曲輪とも)、その外側を三の丸が囲む珍しい縄張だったようだ。中世から「東禅寺城」として国人領主の拠点としての歴史があるようだが詳細は不明のようだ。天正以降は上杉氏、最上氏の支配となるが、最上氏改易後に酒井氏が庄内に入部すると城代が置かれ、幕末まで続いたという。
明治五年の全国城郭存廃調査記録である「陸軍省城絵図」には「亀崎城絵図」として本丸・二の丸・三の丸の堀と土塁、本丸御殿、二の丸城代屋敷、土蔵、長屋、三ノ丸には内舛形の大手門、各曲輪をつなぐ橋と門が描かれており、廃城前の有様が判る。また、現在は旧二の丸跡西外側に位置する八幡宮が往時は二の丸内の東北隅に祀られていたようだ。
城址は現在酒田東高校の敷地となり、旧二の丸には校舎が建ち、旧本丸はグランドとして使われている。旧三の丸もすべて住宅が建ち並び堀はすべて埋め立てられている。ただ、旧二の丸西側に土塁が一部残っており往時を偲ばせてくれる。また、酒田市吉田伊勢塚の円通寺に廃城時に移設された旧搦手門が残っている。ただし、市街地からはずれ、城址から車で15分6.5kmほどの距離。
訪問前に見た亀ヶ崎城の投稿写真が皆さん同じだったので、なにか目新らしい場所をと意気込んでいたのだが、場所が学校で登校日であり、周囲を一回りするにも個人宅が取り囲んでいるため断念。残念でしたが早々に退散、「さかた海鮮市場」に向かい鮮度のよい海鮮丼に舌鼓でした(笑)

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朝田 辰兵衛

酒田東高校~円通寺は… (2023/03/11 訪問)

酒田東高校のグランドが本丸とのこと。正門ワキにパネルが設置されてます。その先を覗くと土塁が目に入ってきます。問題は,搦手門が移築されている円通寺までの移動。散策者泣かせです。遠いというだけでなく,吉田集落の住宅街に見事に溶け込んでいて,見つけるのにウロウロしてしまいます。

赤い城さんへ。
浦賀城,行ったことないですが,直感で解答しました。当たって安堵しました…。

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城好きのメガネ

「亀ヶ崎城」 (2020/03/26 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
亀ヶ崎城は1478年に武藤氏が築城した東禅寺城が始まりとされる。その後、上杉氏が庄内に攻め入り上杉氏の支配下に入る。本庄繁長・甘粕景継・志田義秀などが城主をつとめる。関ケ原の戦いでは最上氏に攻められ城主・志田義秀は降伏し以後、最上氏の支配となる。最上氏の志村伊豆守光安が城主となり、亀ヶ崎城と改名する。最上氏改易後、酒井忠勝が庄内藩を立藩する。一国一城令の例外として、亀ヶ崎城は支城として残り、松平久恒が城代となった。現在、土塁が遺されている。

<アクセス>
JR酒田駅 徒歩20分

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 大宝寺氏
築城年 文明10年(1478)
主な城主 東禅寺氏(大宝寺氏家臣)、本庄繁長・甘粕景継・志田義秀(上杉氏家臣)、志村光安(最上氏家臣)、酒井氏
遺構 土塁、移築搦手門(円通寺)
再建造物 碑、説明板
住所 山形県酒田市亀ヶ崎1-3-60(酒田東高校)
問い合わせ先 酒田市教育委員会社会教育課
問い合わせ先電話番号 0234-24-2994