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トク

75【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (道の駅えびのと加久藤城?) (2023/10/16 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑥です。
以前お伝えした、九州新幹線「新八代駅」から宮崎駅行の高速バスB&S号に乗り、人吉ICの次の「えびのIC」で下車しました。そこから5分程歩くと「道の駅えびの」があります。何とここにもありました😯~義弘様の銅像が!(写真①②)。

この写真①の銅像の背後右の山の中腹に小さく見えるのが有名な加久藤ループ橋です。高速バスもあの山を越えループ橋とトンネルを通ってここへ着きます。つまりあの山の向こう側が熊本県の人吉です。

そして写真③の銅像の背後の低い山に加久藤城(かくとうじょう)があります。ここ道の駅から小林駅行のバスに乗り10分、えびの文化センター前で下車しました。このあたりに加久藤城があるはずですが・・・?

バスを降りると、あれ?何か立派な城がある! でも加久藤城は山城だったはず🤔?? と思いながら見学していたら、何とここは建築会社の事務所でした(だまされた~😩加久藤城の前にまぎらわしい物を作るなー!)。結局、加久藤城はこの向こう200mくらい奥にあり、今から行っていたら次のバスに間に合わなくなりそうなので登城は断念しました(すいません)。皆さんもくれぐれもだまされないよう御注意を!(写真⑥)

義弘は、加久藤城を飯野城の出城とし、正室の広瀬夫人を住まわせていたようです。とはいえ義弘は側室を持たなかったので、なぜ別居していたのか?(そこまではよくわかりません🤔・・・)。でもこんなことをすると外敵から狙われるのではないか? と思っていたら案の定、日向の伊東氏は飯野城をスルーしてここ加久藤城を攻めたようです。その加久藤城を助けるべく義弘は出陣します。そして中間の木崎原で両者は激突、あの有名な義弘の名を天下にとどろかせた「木崎原の戦い」が始まります。

次は、気をとりなおし飯野城と木崎原古戦場を目指します。
 

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しんちゃん

めがね橋  長崎県諫早市高城町 (2020/01/02 訪問)

めがね橋は諌早公園の中の池にかけられています。石橋としては日本で初めて重要文化財
に指定されました。天保10年(1839)佐賀藩重臣の諌早家により本明川にかけられまし
たが、1957年の諌早大水害でめがね橋がせき止めた流木やがれきが水の流れを変え、
被害が拡大したという指摘がでて、様々な過程を経て、諌早公園に移設されたとの
ことです。

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POYO58

予定変更で (2023/10/22 訪問)

ほんとはこの日伊賀上野城に友達と行く予定だったのですが、伊賀上野〜柘植間が落石で運転見回せになってしまい引き返すこととなってしまいました。
亀山から関西本線で柘植に取り残されてしまったのでとりあえず福地城という松尾芭蕉の誕生日だけ行って、そのまま津に向かいました。
津城は2度目の攻城です。
やっぱり石垣と幅の広い水堀がなんとも美しかったです。
津城は枡形虎口や埋門も残っていて、当時の堅固さも伝えてくれています。
また再建された櫓はとても大きく、石垣の上に建っています。中には入れません。
それから三浦の晃ちゃんさんにも会いました。ご挨拶はできませんでしたが、これからもよろしくお願いします。

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しんちゃん

隅櫓跡と搦手門跡、三の丸周辺に石垣が良く残っている。 (2020/01/04 訪問)

角牟礼城には天正15年(1587)島津の軍6000人の攻撃を防いだというエピソードが
あります。島津の軍は三の丸まで押し寄せたが宿利外記という弓の名手がよく
防ぎ、島津征伐の秀吉軍が来たので引き上げたそうです。林道が三の丸付近まで
続いていて、三の丸が駐車場になっています。三の丸周辺と搦手門跡の周辺に石垣が
良く残っています。そのまま西北側に二の丸があり、その北側に枡形を備えた大手が
付いているようです。道は湾曲して本丸まで続きますが、気づかずに壁面を直登して
登って行ってしまいました。続百名城に登録された城で登城道の無い城はほぼ無い
はずなのですが悪いクセが出たようです。本丸北側には隅櫓跡があり、一部は崩れて
しまっていますが石垣が良く残っています。

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ぴーかる

黒崎城 (2023/09/09 訪問)

【黒崎城】
<駐車場他>黒崎城跡駐車場10台分ほどあり。
<交通手段>車

<見所>石垣跡
<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅8城目。黒崎城は黒田六端城の1つでそれほど比高の高くない小山の道伯山頂に築かれました。城主に黒田二十四騎の1人である井上之房を1万6千石で置きます。この城も一国一城令により廃城となります。
 現在は公園化されており三の丸跡が駐車場になっています。駐車場から南に二の丸跡、広い本丸跡があります。二の丸北側の曲輪壁、舗装道路側に多く石垣跡が見られます。主郭南西側、大きい城跡碑がある裏側に土塁、曲輪壁にも石垣跡が見られます。当時は全面石垣で取り巻いていたと思われますがかなり崩落しています。豊前小倉藩の細川氏を牽制する城にしては、残る石垣跡は古風な中世の野面積みです。国境最前線の黒田六端城のわりには本丸の広さから山頂居館だったことも感じさせ、それもまた古風な印象を受けました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

門司港レトロ 福岡県北九州市門司区港町 (2019/12/31 訪問)

門司港レトロは福岡県北九州市門司区ににある観光スポットで、周囲を眺望できる
展望室があります。旧門司三井倶楽部は大正10年(1921)の建造で、1991年にこの地
に移されました。内部にはアインシュタインが宿泊した部屋を当時のまま展示して
あります。旧門司税関庁舎は明治45年(1912)の建築で現地にて修復・再建されており
今でもレンガ作りの内部を楽しめるように公開されています。寅さんシリーズで有名な
バナナの叩き売り発祥の地でもあり、門司港駅の前に石碑が建っています。

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しんちゃん

各郭の間を堀切で遮断し、北と西の尾根上に長大な堀と土塁を備えている。 (2023/10/22 訪問)

室原城は永禄8年(1565)に可児六郎左衛門秀行によって築城されたと現地にある
石板に記載があります。登城ルートは少しわかりづらいですが、西側の尾根から登る
ルートが手堅いでしょう。北側の尾根からも登れますが、山岳用のGPSや国土地理院
のアプリなどがないと解りづらいと思います。登城道のしっかりしてない城で案内も
無いので、何らかの備えは必要だと思います。西側の尾根から登る場合は登城口の
近くの沼のわき道をすぐに左折せず、そのまま直進し尾根側にとりつくように回り
込んでいきます。西尾根ルートは尾根がそのまま登城道のようになっているので
比較的わかりやすいです。両側が土塁の高まりになっていて、その間の堀のような道
を登っていくと郭のようなエリアに入り、土橋のかかった堀切を渡ると、食い違い
虎口を経て南の郭にたどり着きます。この北側に堀切と土橋があり、その先に北の郭が
あります。北の郭の東にも一段下がって郭があり、北、東の郭の周辺が主要部なので
はないかと思います。ここで南の郭に戻ってさらに尾根を南に進むと、また土橋の
かかった堀切があってその先は尾根上に土塁が続きます。あとは北上して北の郭の
先の遺構を確認しに行くと、堀切があってその先は尾根上に土塁と堀が尾根を伝って
下方に続いています。私はこのまま下山しましたが北側の尾根は西に比べて急で
ルートは自分でアプリを見ながら確認する必要があります。主要部の遺構は少し
わかりづらいですが、各郭の間を土橋を備えた堀切で遮断し、北と西の尾根の高低差を
利用して堀と土塁でしっかりガードしているようでした。

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ぎりょう

白鳥城 山形県村山市白鳥字土海在家 (2023/10/22 訪問)

この日午後の北村山市地域史研究会による楯岡城攻城前に、近場でもう一ケ所と考え白鳥城を目指しました。ここは大永年間(1521~29)にこの地に入部した白鳥氏の城と伝わります。天正12年(1584)に最上義光に謀殺された白鳥十郎長久は名高いですね。
戸沢中学校の裏山にあたる比高60mの最高所に東西40m、南北30mほどの主曲輪をおき、その東側・南側は腰曲輪と帯曲輪、西側は堀切、北側は細長い曲輪で防御する構造です。ニノ曲輪から主曲輪までは遊歩道があります。事前の情報では西側の堀切と帯曲輪の切岸が見事との情報でしたが、時節柄草が伸びており確認が困難でしたが、主曲輪から見下ろす景色は素敵でした。
長引くコロナ禍と各地の熊出没情報で山城探訪を控えており、久々の攻城に息も絶え絶えでしたが、よい汗を流しました。
ニノ曲輪に駐車場(3台分)が設置されてはいますが、途中の道が細い坂道のためスリップで路外逸脱の危険があります。車での訪問の際は土海在家自治公民館の駐車場利用をおすすめします。

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雲海を眺めに早朝登山 (2023/10/26 訪問)

雲海シーズンには必ず登り、雲海を眺めながらサーモボトルのお湯でドリップしたコーヒーを楽しみます。
本丸からは、紅葉越しの雲海を眺め、西の丸からは眼下に広がる雲海を楽しみます。

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松ともみじと広島城 (2023/10/25 訪問)

広島城を訪れたら必ず撮影する場所です。松ともみじのフレームの中に見える広島城。紅葉した時期にまた撮影に行きます。

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チェブ

お堀の鯉。 (2023/10/04 訪問)

昨日 投稿した『精忠神社』の後「壬生城」へ。
鳥居 元忠さんの三河魂を教えていただき、転戦です。

「壬生城」は壬生氏が築城しました。
秀吉さんの北条討伐中に、壬生氏は病死し滅亡します。
家康さんが関東に入ると、結城 秀康さんが「壬生城」に入ります。
その後、城主がいろいろ変わりました。
日光に参詣する歴代将軍が「壬生城」の御殿に宿泊したんだそうです。
その御殿の広さ、563坪990畳。全然、想像ができません。
1712年に鳥居 忠英さんが治めました。明治の世まで、8代続きます。

『精忠神社』から水堀が見え左折。本来、駐車場がある方から入城すれば、二ノ丸表門が見られます。
水堀で何やら動きます。
鯉です。
ちょっと手を叩いたら集合しました。歩けば鯉も移動します。、、、エサないのに悪い事しました。
水堀をカクカクと曲がり本丸跡へ。土塁が見られます。敷地内には公民館や資料館、噴水もあります。芸術的な銅像もあり、何か違うと思い引き返しました。
玄関石なる古墳の石室内にあった石がありました。
なぜ、本丸に?なんだか、盛りだくさんな「壬生城」です。
鯉とばかり遊んでいたので二ノ丸表門や礎石は見落としました。
堀の石垣が、石垣風だったので、公園を散歩したような「壬生城」攻めでした。
、、、反省してます。

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しんちゃん

久々利城の写真のあまり 岐阜県可児市久々利1133 (2023/10/22 訪問)

久々利城のオマケですが、地元有志の方々が多数の看板(案内板)を設置
してくださっています。これがなかなか味のある字でなかなか面白い。
城守隊と書かれていますね。ではこちらは攻城隊(攻城団みたい、一人だけど)で
行きたいと思います。猪やカモシカも出るようですね。敵に注意と言われても
猪やカモシカと争うつもりは有りませんが‥。猪には会ったことはことはありま
せんが鹿やカモシカには良く会います。鹿はずぶとくて憎たらしい奴ですが、
カモシカはなかなか気のいい奴らで、すぐに逃げていってしまいます。
以前、別の城の曲輪の周囲をぐるぐる回っていたらカモシカとばったり鉢合わせ
して、お互いにびっくりしましたが、すぐに逃げて行ってしましました。

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しんちゃん

西尾根と北尾根への防御も申し分なし (2023/10/22 訪問)

久々利城は土岐氏の一族、久々利氏の城で県道84号線、安土桃山街道の北側にある
山の東西に分かれた尾根に築かれています。メインの登城道は東尾根側にあり
城址碑や看板が設置されています。登り始めてすぐに素晴らしい枡形虎口が
待ち受けてくれています。その先は三の丸に進みます。写真では取り損ね
ましたが南西側から二の丸ごしに本丸を望むことが出来るようです。二の丸、
本丸の側面はセイタカアワダチソウでいっぱいです。正直ここで見たくは
なかったのですが、時代の流れですか‥。主郭の眺望を楽しんだ後は北の物見台
を確認してその先の二重堀切を確認します。そこから城域は西の尾根越しに
南西側に展開しています。複数の竪堀が西と北の守りをなし、南に武者走りや
堀切が配されています。西尾根の遺構を確認して東禅寺の登城道から下山します。
主郭まで行って引き返すのものいのですが、東から西の尾根を周回して戻って
くると満足度が倍増しますので、時間に余裕があれば是非にと思います。

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しんちゃん

明智光秀公供養塔 岐阜県恵那市明智町羽山町 (2023/10/22 訪問)

明知城の北側、龍護寺には明智光秀公の供養塔と明智光秀公出征の地の石碑が
あります。供養塔(碑)には斜めに大きなひび割れが入っているとされ、光秀公に
かかわる碑は、ことごとく割れると言った通説があるそうです。今回、明知城の
写真の余りも掲載させていただきました。天神社登城道の左手にある出丸を
直接登ってきたのですが、基本藪で、いくつか扁平地がありました。この出丸は
本城とつながっておらず雑草の種が大量にくっついて来るのでお勧めは
できません。

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姫街道

弥生時代の城 (2023/10/27 訪問)

土塁・堀・逆茂木等、とても弥生時代とは思えない規模の防御施設。古墳時代の形跡が多少あったらしいが、弥生時代700年続いた後は堀も埋められ、中世でも忘れ去られた空間だったらしい。これほどの立地が弥生時代以降活用されてこなかった事が不思議に感じた。

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カズサン

【出雲田和山遺跡】島根県松江市 弥生の三重環壕山城の様 (2023/10/04 訪問)

 田和山遺跡は弥生時代前期末(紀元前200年頃)から中間後半(紀元後50年頃)にかけて環壕を持つ集落遺跡です。山頂部に三重に囲む環壕を設けてる。
 城郭放浪記さんに昨年3月、日々更新の放浪履歴に掲載が有りこれは是非探訪したいと、今回帰省の3泊4日城探訪の初日一発目の登城としました。

 住所:島根県松江市乃白町32-3
 駐車場:遺跡南西下(35°26'17"N 133°03'11"E)下段アスファルト舗装に4台、登って上段非舗装に10台以上、トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ。

 山陰道、松江市立病院建設に伴う発掘調査で発見され、平成13年8月13日国史跡に指定さました。遺跡西下に案内解説板、田和山遺跡名の石碑あり、登り口遊歩道もあります、案内盤も各所に在ります、遊歩道階段は登り急で丸太階段は施設から年数経過してる様で少し危険な個所も有り要注意、遊歩道、曲輪内は草は刈られて居り問題無、目的の三重環壕は草に覆われて観にくいですが、三重の畝がよく確認できます、西方向と南方向に木道と壕に架かる木橋が有り、写真的に絵に成ります、三重環壕の一部には壕、土塁にモルタル加工がされて見やすくしてますが草に覆われて景観がもったいない、頂部には発掘の建物跡の木柱表示と周囲に柵列が設置されています、また見晴らしは素晴らしく宍道湖がよく見通せます、北方向の松江城はビル、木立に隠れて確認できませんでした。
 城郭放浪記さんの掲載写真に探訪のきっかけを得て是非見たいと今回の中学卒60年の同級会を利用して帰省、鳥取から松江まで約80km程ですが、無料の山陰道、有料区間と大変便利になり約1時間ほどで到着、素晴らしい遺跡、弥生の山城を堪能しました、出雲にはまだまだ何か残って居るのでしょう、未発見の物もいっぱいある事でしょう?「素晴らしいものを見させてもらいました」
 

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小城小次郎

西櫓のその先に (2023/04/03 訪問)

「西櫓」と呼ばれる角馬出の先にはだらっとした坂が続く。馬出しは出撃・迎撃拠点として最前線に作られるものなのでその先に何かある必要はないわけで、軍事要塞としての山中城には無駄がないということなんだろうな。

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しんちゃん

畝状竪堀群が「ごんぶと」い (2023/10/21 訪問)

明知城は明知遠山氏によって築かれた城郭で、本格的な山城の遺構を備えています。
特に目を引くのが北側から南東側に展開する畝状竪堀群で、かなりの太さと大きさを
誇ります。正直、他の城の畝状竪堀とくらべると、こんなに太かったっけ?と首を
かしげるほど太いです。今回は陣屋跡の冠木門をくぐって稲荷神社登城口から
登っています。畝状竪堀を見学しながら東に回り込み、貯水池のある郭から出丸を
確認して、二の丸から本丸に入ります。本丸の虎口は東に付いていて、本丸の南西側
に切岸が確認できます。その後は東側の畝状竪堀群や大竪堀を確認し、明智光秀公
学問所跡の天神社を経由して下山しました。最も近い駐車場は東側の登城道の近くに
駐車スペースがあるようです。

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しんちゃん

十兵衛坂を周っていくと遺構が各所に残っている。 (2023/10/22 訪問)

明智長山城は土岐氏の一族、明智氏の城で天文21年(1552)もしくは
弘治2年(1556)に斎藤氏に攻められ落城、一族は離散したとされています。
大手門入り口近くに駐車場があり、そこから石畳が続いています。大手門は
老朽化のため取り除かれていますが、再設置を予定しているようです。
大手道の突き当りが馬場跡で七ツ塚や馬防柵が設置されています。馬場の北側に
本丸があり東に二の丸曲輪、中ノ曲輪、東出丸曲輪がありますが、今回は割愛
します。西手に西出丸曲輪があり、本丸の北側から十兵衛坂が続いていて、台所曲輪
、水の手曲輪、乾曲輪を周回しながら大手門駐車場方向に降りてきます。
水の手曲輪周辺では発掘調査で複数の竪堀が発見されており、2020年2月16日に
小和田教授が現地確認をされ、本物の竪堀であると確認されています。乾曲輪の
周辺には遺構が残り、堀切が下山道に遮断され道と一体化しているようです。曲輪の
西側のヘリは急峻な切岸になっていて人工のもののようです。曲輪の先にある
六親眷属幽魂塔は明智一族の供養塔とされ、さらにその先は物見台になっていて
行き止まりになっているので下山道に戻って、そのまま帰途につきました。

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ぴーかる

山鹿城 (2023/09/09 訪問)

【山鹿城】
<駐車場他>白山神社駐車場
<交通手段>車

<感想>>1泊2日北九州・豊前中津の旅7城目。山鹿城は天慶年間(938~947年)に藤原秀郷の弟、藤原藤次により築城されました。藤原藤次は姓を山鹿に改め、この城を代々の居城としました。山鹿氏は平家都落ちの際に安徳天皇と平氏一門を迎えた為に敗れて鎌倉幕府に没収されます。鎌倉時代には宇都宮氏の所領となり山鹿氏を名乗ります。戦国時代には庶流の麻生氏の出城となり秀吉の九州征伐後に廃城となります。
 現地は公園化されています。駐車場から南東方向に登るとすぐに白山神社があります。ここが三の丸跡で北方向の尾根を進むと山頂本丸跡に着きます。北側下段が二の丸跡でここに城跡碑・説明板があります。防御設備の遺構が表面観察では見受けられない曲輪のみの城跡でした。

<満足度>◆◇◇

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