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役所跡 (2022/09/22 訪問)

 発掘調査により8世紀前半に築かれた城柵とわかっています。石碑と案内板がありました。築地が崩壊した痕跡である土手状の高まりがどこかにあるとの情報がありましたが、どこにあるかわかりませんでした。

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斯波家兼 (2022/09/22 訪問)

 南北朝時代斯波家兼が築いたとされる城です。跡地である八幡神社に石碑と斯波家兼の像があります。近くに土塁があるとのことでしたが、今回は行っていません。

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伊達政宗 (2022/09/22 訪問)

 伊達政宗が一時期居城としていたことで知られた城ですが、現在は城山公園として整備されています。削平地が多くありますが、どこまでが昔の姿なのかわかりません。空堀や土塁の一部が残っています。有備館側から見ると東側は内川を挟んで断崖となっています。

 若い頃、山岡荘八の「伊達政宗」を読んだときに初めて知った城です。もう少し山奥にある印象でしたが、そうでもありませんでした。とはいっても園内には「出没注意 熊」の看板が多くあります。SL広場から本丸へ上がろうとすると、「土砂災害 通行止」の表示があり引き返そうとしましたが、散歩と思われる地元の方と思われる人たちが、複数上って行かれました。徒歩はいいのかと判断して散策させていただきました。散策した範囲では土砂災害の危険のありそうな場所はありませんでした。崖下で通行止めにして作業をしている方たちがいましたので、あの場所のことかと思います。

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大崎氏の城 (2022/09/22 訪問)

 奥州探題であった大崎氏の城ですが、古代には官衙がありました。両方の案内板が近距離に立っています。浄泉院周囲の北館跡周辺位空堀跡と思われる所がありますが、藪になっています。どこが遺構かどうか判断できませんでした。
東大崎駅から徒歩15分くらいで行くことができます。

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POYO58

長野旅行PART2 南大手門、北櫓、南櫓を見学 (2022/08/16 訪問)

松代城のあと高速道路を使って30分ほどかけて上田城に行きました。
上田城は真田昌幸は徳川家康の協力のもとで建てられた城です。その後、家康は北条家に上田の地を渡すために昌幸に上田を離れるよう求められましたが、当然拒否。怒った家康は上田城に2万の軍勢を送りましたが、真田昌幸のたった4000人の軍に苦しめられ撤退しました。(第一次上田城合戦) その後、昌幸は真田家を存続させたいと考えていたため、幸村を豊臣秀吉に、信之を徳川家康の元に就かせました。1600年、関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠は2万の軍勢で上田城に攻めました。しかし、上田城の堅固さに圧倒され、秀忠は関ヶ原の援軍に遅れるという大失敗を犯してしまいました。(第二時上田城合戦)。その数年後、大阪の陣の際、徳川方の真田信之は上田城を攻めますが、幸村は兄のことを思い、砥石城へ撤退しました。信之は弟の幸村の笑顔しか見たことがないとも言っていたそうです。こうして上田城の歴史は幕を閉じました。不落城の城となりました。

まず最初に上田城の復元された南大手門を通りました。そこには真田石がありました。真田石とは、とても大きい岩のことで、信之がその石を動かそうとした時、一切動かなかったとされているものです。真田石を写真に収めたあと、後ろを振り返ると、櫓三基の内の二つ、南櫓と北櫓を見ました。中に入れるそうなので、お金を払って中に入りました。櫓は二つとも二階建てで、発掘調査で発見されたものが展示されていました。ちなみに南櫓と北櫓は明治時代に遊郭として使われていたそうです。その後移築復元の際、少し解体したそうですが、当時のものと変わらない現存建築物です。
その後、本丸にある眞田神社でお参りをしました。その隣に御城印が売ってます。ちなみにスタンプは大手門の近くにありました。
さて、次は西櫓へ行きます。続く

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bono

姫路城と特別公開

久しぶりに来ました。時間帯もよかったのか、比較的空いていて見学しやすかったです。昔来た時より見学に時間がかかってしまうのは、じっくり観る力がついたのか、それとも年齢か(笑)

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walkman

場所が不明だが (2022/07/13 訪問)

場所がイマイチ不明ですが、とりあえず訪れました。

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キンヤ

波々伯部氏の本城 (2022/09/18 訪問)

丹波で有力な豪族 波々伯部氏の本城とされます。
波々伯部氏は戦国期には八上城の波多野氏に従っていましたが、明智光秀の丹波攻めの時には落ちる前に退散したようです。

コンパクトな縄張りで比高は低く楽に登ることでき、主郭・ニ郭周りの竪堀・横堀・切岸・堀切・腰郭など、しっかりした遺構がよく残されていました。
主郭の北下の高い切岸、広い二郭の北下の大堀切が見応えありました。
竪堀が7ヵ所位ありますが、中でも二郭の東下の竪堀は、横堀から折れて竪堀に繋がっており長大で一番の見所だと思いました。

地元の方が案内板や登り道を整備して下さっているお陰で夏でも見学し易く感謝します。

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キンヤ

大規模な波多野氏の居城 (2022/09/18 訪問)

丹波の有力国人波多野氏代々の居城で、明智光秀の兵糧攻めにより落とされた悲劇の城で有名です。

春日神社・主膳屋敷から登ると西尾根は多数の曲輪が配置され堀切もあり堅い守りです。
山頂部は伐採され景色が良いものの夏場は草が生えて遺構を見辛い面もありましたが、右衛門丸と本丸には石垣が見られました。
本丸の南東側下に水ノ手曲輪があり、朝路池を守る池東番所・池西番所の南側の堀切・竪堀が遺構としては1番の見所と思いました。
北東尾根には、いくつかの曲輪が配置され、北側には5ヶ所位で竪堀が見られました。
北東端の西蔵丸の手前から藤ノ木坂口へ下山しました。

トータルで3時間以上かかりましたが、見所が多く素晴らしい山城でした。
黒井城・八木城と共に丹波三大山城といわれますが、八上城は他の二城よりも更に大規模な縄張りだと思いました。

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カズサン

もう本丸御殿の礎石は見れません (2005/05/14 訪問)

 名古屋城の天守閣、本丸御殿、諸建物は先の大戦で昭和20年5月14日米軍の空襲にて焼失しました、戦後復興名古屋の頑張りで天守閣は昭和34年外観復元で再建され現在の状態で63年経ちました。
 本丸御殿は平成21年1月工事着工、第一期公開平成25年5月、第二期公開平成28年6月、第三期全面公開平成30年6月にて木造完全復元が完成しました。素晴らしい出来で創建時のあでやかさを彷彿させます。

 17年前の平成17年5月14日、家内が同年2月に完成開港したセントレア中部国際空港を見たいとの希望で出掛け、セントレアの前に名古屋城に寄りました、後で調べて訪ねた5月14日は名古屋城空襲の日、創建時の建物が焼失した日の見学と成って仕舞いました。
 チョイ寄りでしたので天守閣には登らず、本丸に入り撮影、何かイベントが有ったようですが記憶に現在は有りません。
 本丸御殿の再建工事前の発掘調査の前年に訪ねて、写真でも本丸御殿の礎石が写ってる最後の写真では無いでしょうか?礎石も整然と綺麗に整備されていたころの写真と天守閣を投稿します。
 
 木造復元天守閣が断念された事は残念ですが致し方なし、今後現天守閣の内部見学はどうなるのでしょうか?
 

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ごぶ

越前大野城 (2022/09/05 訪問)

織田信長の家臣、金森長近が築いた平山城(249m)。天守閣は昭和時代に再建されたものです。「野面積み」の石垣が特徴です。そんなに高くなく、麓から登る道も綺麗に整備され、坂道だけの九十九折ルートに途中階段のショートカットが組み合わせれていて、年齢を問わず誰でも登ることができるのが好印象でした。ここなら毎日登りたいですね。
各地にある他の天空のお城と異なり、唯一天守閣と雲海の組み合わせが見られるので有名です。ただ年にほんの数回なのがネックだそうです。
東側結ステーションから天守まで20分弱、往復1時間半ほどです。最悪サンダル履きでも大丈夫です。

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赤い城

駅直結の優良物件。 (2022/08/28 訪問)

佐野駅からすぐ北側に出ると三の丸。
城山公園として整備されています。
駐車場もあります。
三の丸、二の丸、本丸、北出丸と連なりそれぞれ堀切で仕切られています。
二の丸には城山歴史館があり少ないですが資料が展示されています。
本丸には虎口や石畳の石がありました。
唐沢山城の支城でしたが唐沢山城の廃城により佐野氏が居城とした城です。
今回は歩きませんでしたが外郭には総堀があり、一部遺構も残っているようです。

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まーやん

台風のお城エキスポin滋賀 (2022/09/18 訪問)

最近城跡巡りに付き物の台風、もれなく付いてきました。城巡りイベントも全て中止。小和田先生の講演が聞けたのがせめてもの救いだった。
このまま帰れるか〰️と思い久々に水口城跡に行ってきた。
駐車場が工事で変更、橋が腐って通行止めと諸々課題は感じたが、復元櫓内が資料館になっており、なかなかよい展示だった。
将軍の宿城として整備されながら家光以外使用したことがないらしいが、二条城を模したとあって石垣や堀など雰囲気があった。
この後、岡山水口城跡にもチャレンジするも突然の豪雨で断念。はぁ、ずぶ濡れやぁ(;´д`)

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まーやん

小規模ながら見ごたえあり❗ (2022/09/06 訪問)

舞鶴から綾部を通り国道173号から産屋で有名な大原神社の少し手前を右折し府道59号を行くと川合川の河岸段丘上の小高い山に経ヶ端城跡はある。
小規模ながら丹波の複雑な稜線をうまく使った城跡で樋口氏の持ち城として伝わっている。
鹿避け柵の扉を開けて比高30m程を上がれば山頂だが、三段の曲輪や土塁、堀切が残っている。主曲輪には東屋が建っており、一段上がった「土壇」があるのが特徴とのこと。
登城は北側農道から。南側に回ると直登で鹿柵に阻まれ犬に吠えられまくります(;´д`)

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まーやん

若狭のお台場 (2022/09/06 訪問)

ここ数年、とある夏のレジャーにはまっているワタクシ。この日は台風が接近しているのに福井県に出向きそらみたことかのノックアウト😢
帰りに行けそうな城跡を探していたらありました若狭のお台場‼️

ここは幕末に小浜藩が設置した台場で、関電敷地で入れない(城びとから外せば?(¬_¬))鋸崎台場とともに外国船の侵入を阻むよう湾の入り口に突き出た半島の先に配してある。
少し高い位置にある1号台場と、キャノン砲レプリカや弾薬庫のようなものがある2号台場がある。
幕末の緊張はこんな所にも見てとれると思いを馳せている隣で家族連れのほのぼのキャンプが共存する不思議空間だ。

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ぴーかる

茶臼山城 (2022/09/11 訪問)

【茶臼山城】
<駐車場他>きちんと駐車するなら上津台にある菅生公園駐車場があります。高津甲公園前に1台停めれなくはない。
<交通手段>車

<見所>本丸切岸・南丸虎口
<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅1城目。現地説明板によると「茶臼山城は1573年一連坊祐之という在地土豪が茶臼山に居城を構え250余名の家臣を有し、近郷を支配していた。羽柴秀吉が三木城攻めの時、仙石権兵衛秀久にこの城を攻めさせた。一連坊は家臣の助命を条件に自決し城を明け渡した。」とあります。現在も地元の家系には家臣の姓が残っているようです。
 城跡は高津甲公園を通って南丸の南下段の入口に着きます。このあたりも城一部であったでしょうが公園と住宅整備され曲輪は無くなっているようにも感じます。南丸は山のピーク上に小さく削平した独立した単郭で東側に藪化して見えにくいですが薄っすら堀切が残っています。北側に下って南丸の虎口は土塁を備え折れ曲り虎口となっています。南丸の北側に主郭があり、帯曲輪で1周しています。南丸虎口~主郭間(虎口らしきものは見当たらなかった)の帯曲輪は城跡らしい雰囲気があります。主郭北側の帯曲輪は通路を拡張整備されたものかと私は感じました。主郭切岸は円錐状に綺麗に整っています。主郭内部は段差があったと思われ、北側が低く南側が高くなっています。最南には櫓台があったかもしれません。中央に城跡説明板があります。
 公園化された遺構がよくわからない城跡かと思いきや、主要部がちゃんと残され整備されたいい城跡でした。想定外の山城だったので半袖、藪蚊に襲撃されました。

<満足度>◆◆◇

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赤い城

やっぱり石垣だけでは勿体ない (2022/08/28 訪問)

続100名城で主郭には唐沢山神社が建ちます。
駐車場も広くすぐに桝形虎口が出迎えてくれます。
四ツ目堀を見ながら参道を進んで神社の社務所へ。
何回か来てるのにスタンプはまだだったのでとりあえずゲット。
その他本丸から北側を進んで北城へ。北城の先は二重の竪堀が守ります。
四ツ目堀まで戻り今度は南側へ。
しばらく下りるとクランクになった堀がありました。
また、岩盤を削った千騎が入など高石垣の他にも見どころ満載。
個人的には関東では一番の山城のように思います。
あくまで個人の感想ですよ。

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POYO58

長野旅行PART1 松代城 真田信之 (2022/08/16 訪問)

福井旅行を終えたばかりでしたが、祖父母と長野旅行に行ってまいりました。
最初に松代城に行きました。松代城はもともと武田信玄が川中島の戦いの際に本拠地とするため海津城という城を築城した場所です。そこから時代を経て、江戸時代になると、大阪の夏の陣で激戦が起こります。その際、真田信之は徳川方に、幸村は豊臣方について戦いました。上田城は信之が侵攻した時、幸村は自ら上田城を捨て、砥石城へ逃れたため、この時は上田城は信之の城でした。幸村は敵を次々と突破し、徳川家康の本陣にたどり着きました。しかしここで幸村は限界となり、討ち取られました。(鹿児島に生存していた説もあります。またここで徳川家康は幸村に討ち取られ、それ以降の家康は影武者だったという説もあります。実際にその家康の墓が大阪にあります。)その後、真田信之は上田から松代へ本拠を移し、海津城の場所に新たに松代城を築きました。信之の死後も、真田家は受け継がれていきました。
松代城は城全体を石垣や水堀、土塁で囲み、城内には御殿があったと考えられています。石垣や土塁は復元がほとんどですが、石垣は一部現存しています。松代城の見どころは復元された太鼓門と復元された戌亥櫓台ですかね。太鼓門は復元ですが、枡形虎口となっていて城の堅固さを物語っています。また戌亥櫓台は復元のようですが、使われている石は当時のものです。加藤清正流の勾配がとても美しいです。
また松代城もいいですが、隣にある真田邸を行かなければ、松代を攻城したことにはなりません!この真田邸も重要です。ここには真田家が建てた御殿が現存しています。これを見ないと損!

評価
遺構★★★
建物★★★
行きやすさ★★

攻城時間
真田邸も併せて1時間10分程度
真田邸なしなら30分程

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まあちゃん

岩村城跡 (2022/07/17 訪問)

東洋のマチュピチュ??

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まあちゃん

郡上八幡城 (2022/06/26 訪問)

天空の城

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