周辺を歩き回った後、ついに城攻め。もはや町のシンボルとしてだけでなく、国の重要史跡として連日観光客を集める会津若松城(鶴ヶ城)ですが、ある時期まで競輪場だったことはあまり知られていません。収益は相当あったらしく、それを元に市民の悲願だった天守復元を成し遂げるというかなり珍しいケースです。
会津戦争で大破した五重の天守は1874年に取り壊し。1950年には本丸跡に公営競輪場が設置されますが、批判の声もあり移転、その後中止。そして65年、鉄筋コンクリート造りで外観が復元されました(内部は博物館)。古写真を見るかぎり、競輪が行われていた頃も、古式ゆかしい天守台だけはどっしりと存在感を放っています。建物だけでなく、その石垣を堪能することをおすすめします。
とにかく古いものが見たいという方は天守台の隅角に注目。算木積が未発達な頃に積まれた石垣で、最下段の巨石は天正末期から文禄期の特徴を示しているとされます。豊臣秀吉の奥州支配の拠点という位置づけで蒲生氏郷が大改修を加え、近世城郭化しました。資料は残っていませんが、当時は七重の天守だったと言われています。伊達政宗ら奥州大名への牽制、さらには関東に入った徳川家康の背後を押さえるという重要な意味合いの城だったことがわかります。その後、大地震で傾いた天守は五重に縮小され、戊辰戦争後まで残りました。
天守は層塔型。破風が少ない単調な見た目を勝手に想像していましたが、良い意味で裏切られました。まずは最上階の廻縁と高欄が格式を与えます。そして屋根に変化をつけた出窓(張出部)や付櫓がグイっと自己主張。さらには腰屋根のように見える土塀が天守台をぐるり、といった感じで意匠に変化をもたせており、長時間、さまざまな角度から眺めても飽きません。歩き疲れた脚を休めつつ、西日を背にした巨大天守をぼーっと見上げるのは至福の時間でした。
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