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しんちゃん

出石城の余った写真 雰囲気が変わる稲荷曲輪 (2019/05/01 訪問)

出石城どこから見ても楽しめる良い城ですが、本丸から稲荷曲輪に上がっていくところが個人的に好きです。壮麗な櫓が東西に建つ本丸も素晴らしいですが、その上に建つ稲荷曲輪の石垣が苔むしていて実に良い味わいを出しています。
最上部まで来ると華やかさが無くなる代わりに引き締まった空気を感じ取ることができます。眺めも良いし、まるで別の城のように雰囲気が変わる所が良いですね。

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しんちゃん

元々は但馬国守護職、山名氏の城 (2019/05/01 訪問)

かつての有子山城の山麓の郭や館が出石城の前身であるようです。慶長9年(1604)に小出吉英のより山上の天守と郭が廃され麓の城郭を出石城として幕府に届け出、総石垣の近世城郭として改修を受けたようです。北側の麓に部分に三の丸が配され、南に向かってひな壇のように曲輪が続いていきます。下の丸から二の丸、本丸と上がって行って最上部が稲荷曲輪とされ稲荷神社が鎮座しております。

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ぴーかる

岩屋城 (2024/01/04 訪問)

【岩屋城】
<駐車場他>第一駐車場5台分程度、第二駐車場20台分程度あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪切岸・堀切・畝状竪堀群
<感想>現地説明板によると岩屋城は1441年に山名教清が嘉吉の乱の論功行賞により美作国の守護に任ぜられた際に築城されたとされます。その後赤松氏や浦上氏、その家臣が裏切って尼子氏に付いたりして混沌とした勢力下において城主が変わりますが、戦国時代後半には宇喜多氏の支配下の城となります。1581年に宇喜多氏が毛利氏を離れ織田氏に付いたことから岩屋城は毛利氏に攻略されます。1582年の備中高松城の戦い終了後に領土の境目を高梁川とするが、それより東側にいた美作の毛利氏の諸将が抵抗します。岩屋城の周囲に包囲する陣城跡はこの時の宇喜多氏による武力接収戦による籠城攻めの跡と思われます。その後調停により再び宇喜多氏の城として戻り、宿老の長船貞親の城となりますが1590年に野火により焼失し廃城となったようです。

 第一駐車場に説明板と登山道見学コースの案内板があります。第一駐車場脇に登山口があり城跡を一巡りして第二駐車場に出るルートになっていますが、第一駐車場から登ると遊歩道にはなっているものの、主郭まで1000m程の登山となりますので、お勧めは登山道見学コースの逆走、第二駐車場から舗装道を登っていくのが楽だと思います。

 城跡へは見学コース順に、慈悲門寺砦跡、ここは本郭以外はかなり藪化して東西にある曲輪群を散策するのは難しいです。本郭には中心に堀か庭園跡の石積みの仕切りがあります。最奥に坊跡かの土壇の土盛があります。次に山王宮跡、ここは巨岩壁の岩窟に権現様を祀った祠があります。明治初期まで祠で一杯だったそうです。拝殿跡には土台の石積みが残ります(江戸時代のものかも)。

 城跡は見学コース順に門跡⇒人工の龍神池⇒三の丸は3段の連郭⇒馬場の帯曲輪を通り馬場曲輪⇒主郭⇒二の丸は小さい尾根曲輪⇒二の丸北東部の大堀切はでかくて見応えあり。⇒城跡の北東側にある「手のくぼり」という畝状竪堀群は現地に十二条とありますが、実際数えてみて、表面観察できるのは八条でしたが、かなり見応えありました。そこから急坂の舗装道を降りて第二駐車場に至りますが、舗装道なので先に記述した逆走ルートの方がよかったかもと思ったわけです。大堀切、畝状竪堀、主郭を中心に馬蹄形状の連郭が見応えある素晴らしい城跡でした。私の先の投稿で宇喜多氏軍の陣城群の一つ、荒神の上砦(城びと未登録)にも行ったので御参考にしてもらえれば。陣城も全て巡ると1日楽しめる城跡群です。
 この日は2024年新年最初の日帰り城跡巡りとして、満足度の高い城跡ばかりで楽しめました。518㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

和歌の浦・不老橋 (2016/09/20 訪問)

和歌の浦は和歌山市の南西に位置する景勝地の総称です。国の名勝に指定されており古くより景勝地として親しまれており万葉集にも読まれています。聖武天皇が行幸した際にお供の山部赤人が歌を詠んでおり、万葉集の巻六の919番目の歌として記載されているようです。
玉津島神社は詠歌上達の神として知られ小野小町袖掛の塀があったりします。意外と行儀悪い‥
不老橋は紀州徳川家の元10代藩主・徳川治寶の命によって造られた石橋で和歌浦のシンボル的な存在になっています。

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チェブ

村が、お城。 (2024/01/04 訪問)

竹中 重利さんが築城した「長松城」。
その後、武光 忠棟さんが入城しました。
関ヶ原の合戦で、武光さんは西軍です。「長松城」は廃城しました。

現在、荒崎小学校の正門横に立派な城址碑があるそうです。
学校の裏に到着しました。(この時、裏門と気付いてません。)
遺構はありません。用水路があり、堀跡に見えるように脳内で変換されました。堀跡です。
石垣チックな城址碑なんだなと、写真①を写して退陣しました。
皆さんの写真を見て、驚きました。もっと立派な城址碑があったんですね。

『ぎふの旅ガイド』には旧長松村の集落が「長松城」の城郭の形をしている。という掲載がありました。
じゃー、とっくに「長松城」の城内です。
「長松城」、『行った』をポチっ。

正門には、立派な城址碑。裏門にも「長松城」の碑がありますよ。
プレートかな?(´∀`)

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Tokyobay

平将門伝説(茨城県坂東市) (2024/02/18 訪問)

大手町の「首塚」は有名だが、坂東市に「胴塚」があるのは知らなかった。一般的には賊軍扱いされてあまり人気はない(特に関西?)のかもしれないが、「敗者の歴史」に思いを馳せてみると、それはそれで感慨深いものはある。ちなみに「首塚」は転勤になる会社員が大手町に戻って来られるように祈願するらしいので、「敗者人気」は健在ということになるのかもしれないが。
胴塚の他、平将門が関東一円制覇の拠点とした島広山・石井営所跡、将門によって軍馬の調練の場として活用された富士見の馬場、将門が喉を潤した石井の井戸、将門三女が将門座像を彫り安置した国王神社など、坂東市には将門伝説ゆかりの地が数多くある。近隣の方曰く、座像は以前は本殿にあったのだが盗まれたことがあるらしく、それからは厳重な管理がされるようになったとのこと。また、神社は宮司の跡取りが居なくなって、維持管理が大変になっているという話も聞いた。どっかから派遣してもらえばいいのにとも思うが、そうもいかないのだろうか。神田明神は色々と盛り上がってはいるが、関係はないんだろうか。

史料の少ない将門ではあるが、実証史学を離れて「伝説」を味わうのも歴史探訪ならではの面白味ではあるのかも。

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yoda 1253

近世山城 (2023/10/06 訪問)

高石垣が素晴らしい

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yoda 1253

新旧石垣の匠 (2023/10/06 訪問)

豊臣期、浅野期、徳川期の3期にわたって築かれた石垣が野面積み、打込接、切込接への進化が一度に観れます

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yoda 1253

生活の様子が学べました (2023/08/30 訪問)

鍛治工房や馬屋などが復元されていました

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飛騨市

歴史講座「飛越の戦国時代と江馬氏の城」開催!

戦国時代、富山まで進出した飛騨の武将たち。

飛騨と越中は古来より繋がりの深い地域でした。戦国時代、北飛騨の領主・江馬氏は一時期、越中に進出していたという記録があります。関連して、富山県南部には中地山城など、江馬氏築城と伝わる山城が残りますが、実態は謎に包まれています。
そこで今回は、富山市と飛騨市の学芸員が、それぞれの地域の戦国時代の歴史を発表します。さらに討論の中で当時の飛越の繋がりを整理し、城館がどのような役割を果たしたか議論します。

開催概要
日時
3月3日(日曜日)13時30分~16時30分

会場
神岡町公民館 3階会議室(飛騨市神岡町東町378)

参加
無料・予約不要(定員100名)

内容(発表時間は目安)
開場:13時00分~
挨拶・趣旨説明:13時30分~13時40分

<講演1>越中の戦国時代と城館 13時40分~14時40分
講師:萩原 大輔(富山市郷土博物館 主査学芸員)

<講演2>飛騨の戦国時代と飛越の江馬氏関連の城館 14時40分~15時20分
講師:大下 永(飛騨市教育委員会 学芸員)

<対談>飛越の歴史と城から江馬氏の越中進出について考える 15時35分~16時25分
講師:萩原大輔・大下永 コーディネーター:三好清超(飛騨市教育委員会 学芸員)

参加特典
イベントに参加いただいた限定で、過去の歴史講座「天地を翔ける」の参加者に限定配布したPRマンガ&江馬氏城館跡調査成果資料集をプレゼントします!昨年参加できなかった方は入手のチャンスです!

※ 資料集の配布は参加者1名につき1部となります。あらかじめご了承ください。



『天地を翔ける―江馬氏城館跡のすべて―』(PRマンガ&歴史講座資料集)

武将・江馬輝盛を題材とした歴史マンガ「天地を翔ける」と歴史講座資料集を収録したA4サイズ、100頁以上の豪華版冊子です。

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トク

SL人吉号-ラストランへ (2021/11/21 訪問)

3月のダイヤ改正をもって、現在西日本で唯一動いている蒸気機関車「SL人吉号」がいよいよラストランを迎えます。最初は、人吉城などへの観光用として、熊本-人吉間を走っていましたが、4年前の九州豪雨で肥薩線が不通になって以来(現在も不通)、熊本-鳥栖間を土日祝に走っていました。しかし、車体の老朽化や運転や整備ができる人がいなくなったなどの理由で廃止になる事が決定したようです。最後にもう一回乗りたかったのですが、もうラストランまで満席になっているようなのであきらめました。よって、3年前に実際に乗車した時の写真を投稿させていただきます。

私事ですが、大分に住んでいた幼稚園から小学校低学年の頃、当時日豊本線は電化されて電車が走っていましたが、久大本線と豊肥本線はまだ蒸気機関車が走っていました。大友館の近くにこれらの踏切があり、通学でどうしてもここを渡らなければいけないのですが、自分の背丈よりでっかい蒸気機関車の車輪や、間近で聞く心臓が止まるくらいの大きな汽笛の音が恐くて、泣きながら渡った記憶があります(笑)。

もうおそらく走るSLは永遠に見る事はできないのかと思うと、私のような昭和世代の人間はとてもさびしいですね。並行して走る九州新幹線と比べると、これも時代の流れなので仕方ないのかなと感じます。

人吉号よ、お疲れ様でした。
(お城に関係ない話ですいません)
 

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イオ

三の丸石垣保存へ

昨日来 報じられているとおり、坂本城の三の丸跡から検出した石垣や堀が保存される方向で大津市と事業者が大筋合意したとのことで、先日見学した遺構をこれからも見られると思うと、城好き・歴史好きとして本当に嬉しいニュースでした。事業者さんには様々な葛藤もあったでしょうが、かけがえのない文化財を後世に伝える決断をしていただいたことにはひたすら感謝しかありません。今後は追加調査をして国史跡指定を目指すとのことで、今後の保存整備を楽しみにしています。

それと、先日の発掘調査現地説明会の資料が大津市文化財保護課にUPされていますので、こちらもどうぞ。
https://www.city.otsu.lg.jp/soshiki/010/2406/g/1501725900306.html
 

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Tokyobay

街の歴史を感じた (2024/01/19 訪問)

城下町は思ったより広く、街並み保存にも力を入れているようでそれなりの風情がある。平日にもかかわらず「ひな祭り」で観光客が結構いた。この街は戦時中に「力」を入れていたのか、戦前の「皇紀」を示す碑がいくつかあるのだが、負の遺産扱いされているのか現在では作り変えられたりぞんざいな扱いをされており、ある種の「歴史修正」を感じる部分もあり。ただし、神武天皇遥拝殿を中心とする祭事は現在でも行われており、「歴史のジレンマ」もあるのかもしれない。筑波鉄道筑波線の廃線跡はサイクリングロードになっているのだが、旧真壁駅の桜の説明に「多くの出征や集団就職を見送った」とあり、こういう記述に街の歴史を感じた次第。

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Tokyobay

見どころは本丸に通じる2つの虎口 (2024/02/19 訪問)

本丸の裏手には二の丸や中城といった発掘調査中の部分が整備されているものの、見どころは本丸に通じる2つの虎口。正面ルートは本丸にある体育館に続く道としてそのまま残っていて感動する。搦め手の方は道は無くなってはいるものの、防衛的な変わった形状(横浜にある「象の鼻」みたいな作り)になっており大変興味深い。

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カズサン

菜の花に誘われて田原城登城 (2024/02/20 訪問)

 二十数年振りに田原城へ三度目か?の登城、菜種梅雨の晴れの一日(20日)菜の花咲き匂う渥美半島へ浜松からは地道の浜名BP、蒲郡BP経由がスムーズで近道、国道259号線で田原城へ、伊良湖岬の道の駅へ退職して久しぶりの訪問、ぐるっと回って国道42号線へ菜の花は伊良湖岬に近づくほど両街道沿いに咲き誇ってます窓を開けると菜の花の匂いが飛び込んできます春を感じる匂いです。

 駐車場:本丸西側の専用駐車場利用小型乗用車は約50台、バスは4~5台可能でトイレ完備。

 駐車場から博物館入口の冠木門を潜り本丸と二の丸間の大空堀、八つ橋状の堀底橋を渡り本丸土橋西石垣に当たり石段を登ると昭和32年復興の二の丸隅櫓が聳えてる、北奥に土橋を挟んで本丸で現在は巴江神社が鎮座、二の丸隅櫓の奥に二の丸跡には田原市博物館が開設されている、南に有名な平成4年復興の桜門、両サイドに東の袖池水堀、西の桝池水堀が有り田原城跡のシンボル写真と成っています。

 歴史的には、戸田氏によって土の城として築かれ、今川氏勢力時には城代が置かれ、また徳川氏時代には本多氏、豊臣政権時には吉田城の池田輝政の城代が置かれ、関ケ原後戸田氏が3代続き寛文4年(1664年)三宅氏が入封されて12代明治まで継承された。(田原城パンフレットによる)

 デジカメ撮影は初、沢山撮りましたのでポイントを絞って投稿続きます。
 

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todo94

2023年の城納め (2023/12/27 訪問)

年末の長崎、城攻めの締めは伊賀峰城となりました。諫早市の中心地からさほど離れた場所ではないのですが、所在地は大村市になります。長崎道の側道からのアプローチで、登城口に表示板があるので迷うことなく、登城することができるかと思います。眺望は開けていませんが、中世山城の趣は十分に味わうことができました。この後はレンタカーを返却して長崎市にて泊をとり、長崎の最終日28日は眼鏡橋→大浦天主堂→グラバー園→出島と鉄板の長崎観光を楽しみました。

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赤い城

本堂がホテルの中に (2024/02/15 訪問)

心斎橋で所用を済ませたあとに訪問しました。
御堂筋沿いにあり、当然遺構はありません。
石山本願寺の支城で三津寺に築かれました。

跡地には立派なホテルが建っていて三津寺本堂はその1階にあります。
こんなお寺、他にはなさそう?

久しぶりにこの辺りに来たので道頓堀をうろうろ、やっぱり香川と違って人多い。
インバウンドが戻ってきたを実感。
そういえば春節シーズンでした。

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小城小次郎

二の丸への入り方 (2023/05/13 訪問)

前回訪城時点には理解できていなかった山頂部への登城路が、現在のように二の丸の山頂側を通るのではなく、いったん二の丸下段を迂回して尾根側から入るのだということを教えて頂き、目からうろこだった。

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Tokyobay

南東虎口は手つかずの状態で必見 (2024/02/19 訪問)

「館」と呼ばれる本丸は公園や宅地となっているものの、他の曲輪の境界である土橋や内堀等遺構はそれなりに確認可能。本丸への登城口は当時と同じ位置で残っているようだが、特に南東虎口は手つかずの状態で必見。結城秀康という著名な武将の居城だったワリには注目度がイマイチなのが残念。地元にやる気がないのだろうか。

尚、少し離れたところには水野忠邦の墓があり驚かされる。案内板によると菩提寺である万松寺は明治初頭(市のwebでは江戸末期)に火事で焼失し、その後は再建されなかったようで、水野家の墓地だけが残る異様な光景ではある。水野家は家康母方系のガチ徳川系でもあるし、廃仏毀釈等もあって放火されたのではないかと妄想してしまった。

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Tokyobay

鈴木貫太郎を生んだ関宿藩 (2024/02/18 訪問)

河川工事で殆ど破壊されてしまったが、模擬天守の南方に僅かに城址の痕跡あり。城下を散策すると、藩校跡や大手門跡や関所跡の案内等があるが、こちらも城下の風情がわずかながらにあるものの面影は殆どなし。
とは言え、鈴木貫太郎を生んだ関宿藩は戦後日本にとってもっとも重要な藩であると言えるのかもしれない。
※ちなみに鈴木貫太郎が実際に「産まれた」のは関宿藩の飛地である堺のようです

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