【佐味城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車
<感想>個人サイトの方の情報で登城口を確認し行ってはみたものの。<34.408293, 135.702889>地点から北にあぜ道を通りトタンの板をまたぎ、山に入ると新たに山に獣柵が設けられていました。入口を探してみました(北の方には200m程行きました)が見当たらず、入れたとしても藪化でとても登れそうにもなかったので痛恨の断念をしました。ここは新たな冒険者の方の投稿の方を待つこととします。
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2023/12/14 18:52
獣柵が設置されていて‥‥ (2023/11/19 訪問)
【佐味城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車
<感想>個人サイトの方の情報で登城口を確認し行ってはみたものの。<34.408293, 135.702889>地点から北にあぜ道を通りトタンの板をまたぎ、山に入ると新たに山に獣柵が設けられていました。入口を探してみました(北の方には200m程行きました)が見当たらず、入れたとしても藪化でとても登れそうにもなかったので痛恨の断念をしました。ここは新たな冒険者の方の投稿の方を待つこととします。
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2023/12/14 17:04
まだまだ復元できそう (2023/12/08 訪問)
復元三重櫓のイメージが強かったですが、石垣が立派でそれだけでも飽きません!
落とし積みかと思ったら従来の積み方に変わったりと面白いことやるなぁと感心。
旧太鼓櫓は少し離れた場所にあるのでお見逃しなきよう。
松平定信公がマメに城内の櫓や門、蔵など37箇所の実測図・平面図を残しています(白河城御櫓絵図)。
そのためVR復元動画にも説得力があります。
石垣も震災を経てきれいに修復されていますので、お金と時間があれば更なる木造復元も期待できます。
今は清水門の復元を目指しているようです。
30年とか経って再訪したらどのくらい違っているのか楽しみですね。
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2023/12/14 17:03
2023/12/14 14:03
西不明門跡と太鼓門跡 (2023/11/27 訪問)
18年振りの明石城探訪、前回は明石蛸の活きの刺身目的で兄と訪ねました、令和元年にはJR明石駅ホームで駅頭整理されて明石城の三重櫓巽櫓と三重坤櫓・間の白土塀景観整備された明石城を撮影確認して以来の探訪登城です。
最寄駅:山陽電鉄明石駅、JR明石駅より徒歩
参考資料:今回はグーグルマップのみ。
阪神間未踏の城廻り電車旅、西宮砲台、舞子台場、船上城を終えて平野城探訪前に、船上城の移築長屋門の見学探訪後、外濠西側の西不明門から探訪開始、球場、駐車場横を通って大手に当たる太鼓門へ、丁度太鼓門跡横にからくり人形が実演中、大勢の人が見学して居ました、1時間毎に実演されて朝8時から夕方18時までの11回の実演だそうです。
比翼の三重櫓の景観撮影を目的にもしていましたので、三の丸、武蔵の庭園、三重櫓下を西へ、稲荷曲輪西城壁、稲荷曲輪と坤櫓間の虎口を通り天守台正面に進み、稲荷曲輪へ、天守台西面、本丸西面、乾櫓台、稲荷曲輪北門跡から桜堀方向を眺めて、本丸北の見ノ門櫓台から本丸へ、本丸内部へ、本丸より西の稲荷曲輪、北に本丸多門櫓台、南に坤櫓を直近に眺め、天守台を降りて、坤櫓、白土塀沿いに展望デッキ、出来で明石大橋を遠くに眺め、城下、坤櫓、巽櫓を眺めて、本丸と二の丸の土橋から二の丸へ、土橋の北と南に大堀切、二の丸東屋から巽櫓を眺め、二の丸櫓門虎口から登り虎口を上から下から南川眺め撮影、東の丸は南城塁のみ見学、日時計辺りで携帯食を遅まきながら三重櫓を見ながら食べて時間稼ぎ、2時間近く経っていました。
ここの編では西不明門、太鼓門辺りを写真投稿します。
次は天守台へ続きます。
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2023/12/14 07:08
朝来市和田山郷土歴史館 (2023/11/23 訪問)
じゅんじんさんの投稿を拝見せずに訪れてしまったため、移築陣屋門はノーチェックです。陣屋跡に建つ朝来市和田山郷土歴史館を見学するには、事前に朝来市埋蔵文化財センター079-670-7330に予約の電話を入れる必要があります。
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2023/12/13 23:51
松山城 加賀市松山町 思ったより広い。小城とあなどるなかれ。 (2023/12/09 訪問)
松山城は松山町の丘陵地一帯に築かれている平山城(山城)で加賀の一向一揆勢の城とされています。足利義昭の仲介で朝倉氏と和睦し永禄10年(1567)に焼却されたとのことです。当初はそれほどの規模ではないとたかをくくって主郭から攻めましたが、城址を巡っているうちに思った以上に城域が広く技巧も凝らしてある城だということがわかりました。加賀の一向一揆あなどれずです。
訪問の推奨コースは城址西側の見張櫓からで集落に縄張りの案内があります。林の中に道が通じているので見張櫓(西郭)から攻めていきます。そのまま南の尾根続きに主郭に向かいます。
天然の尾根を利用した堀を越えると主郭にたどり着きます。主郭の周囲には堀が巡らされていて、北と東にも郭があり、途中に堀切が配されています。本丸の周囲は藪化していて遺構が少しわかりづらいですが、城としての防御機能はしっかりとしています。
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2023/12/13 23:15
2023/12/13 23:13
上杉博物館が楽しすぎました! (2023/09/08 訪問)
上杉家御廟所から米沢城址へ徒歩で向かいました。
奥羽本線と米坂線に囲まれた内側には上杉家ゆかりの寺院や旧跡がいくつもあり、歩いたのは1kmくらいでしたが米沢の町の雰囲気も感じることができて楽しかったです。
お堀端を少し歩いて西門より入城し、観光案内所に寄るなどしながらひとまわりしました。
米沢城といえば銅像、のイメージもあります。景勝公と直江兼続の2ショットは好きだった「天地人」を思い出し、懐かしかったです。
その後、特別展「上杉氏と国絵図の世界」開催中の伝国の杜・米沢市上杉博物館へ。
まずはミュージアムショップで欲しかった「直江状」のマステをゲット。商品化のアイデアがすごいなぁと……。
上杉本洛中洛外図屏風は会期前半のため複製でしたが、そのゴージャスさと緻密さにすっかり見入ってしまいました。バーチャル映像も楽しい!
常設展は1601年の米沢入りからのまちづくりや9代藩主鷹山公の藩政改革などがさまざまな形で学べました。特にワクワクしたのがジオラマで、多分一日中見ていられます。
入館したのが16:00で、あっという間に閉館時間(17:00)になってしまいました。もっと見ていたかったです。
今回もゆっくり名物を味わう時間はありませんでしたが、たくさんの新しいこと、楽しいこととの出会いでお腹いっぱいになりました。
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2023/12/13 22:54
足羽七城の一つ。 (2023/12/10 訪問)
安居城は南北朝時代の北朝方の城で足羽七城の一つとされています。あの新田義貞を討ち取ったとされる足利(斯波)高経の重臣・細川出羽守によって築かれたとされ比高20mほどの丘陵に築かれています。戦国期にも使用されていた割には扁平地以外にこれといった遺構は見当たりません。墓地の裏から続く登城道やため池に降っていく道が堀跡に見えなくもないですが詳細は不明です。
墓地の裏から登る道は容赦なく犬にほえられるので、ため池の脇から登って同じ場所に降りてくるほうが面倒が無いと思います。車は南東にある与須奈神社の前に停められるようです。
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2023/12/13 22:52
佐生城だったり日吉城だったり (2023/04/16 訪問)
佐生城だったり日吉城だったりするのはなんでかと思ったら佐生町と五個荘日吉町(と佐野町)に跨っていた。簡単に登れて郭が一つしかなくて石垣ががっつり堪能できる魅力満載のお手軽山城。石碑自体も既に年代物かも。
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2023/12/13 22:28
新田義貞を討ち取った勢力が出撃した城。 (2023/12/10 訪問)
小黒丸城は大黒丸城の支城で足羽七城の一つに数えられています。南北朝の時代の北朝方の城で足利(斯波)高経によって築かれたとされています。平泉寺衆徒の籠った藤島城を新田義貞の手勢が攻めている際、救援に向かった義貞を小黒丸城から出撃した細川出羽守、鹿草公相らの軍勢が燈明寺畷で討ち取ったとされています。城址は現在水田地帯になっていて、少し南の宅地に城址碑が立っています。
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2023/12/13 22:02
大黒丸城 福井県福井市三宅町 (2023/12/10 訪問)
城びとの城である小黒丸城と三宅町にある大黒丸城を合わせて「黒丸城」と呼ばれるそうです。大黒丸城の方が本城で小黒丸城はその支城とされています。小黒丸城だけでは方参りになるので合わせて訪問してきました。
建武4年、足利高経に従って朝倉広景が但馬より越前に入り、目代としてこの城に入ったそうです。以降文明年間(1469~87)に孝景が拠点を一乗谷に移すまで朝倉家の本拠であったとされています。
城址は比高10m足らずですぐに主郭に入り込みますが中は竹林になっています。動きが制限されますが東側に、なんとか土塁の跡を発見しました。もともとは単郭で堀と土塁を配していたシンプルな構造だったようです。ただ麓の祠を祀ってあった土盛りも気になりますね。
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2023/12/13 20:57
蓮如上人ゆかりの地 (2023/12/09 訪問)
国の史跡にも登録されている吉崎御坊は本願寺大八世法主蓮如が北陸の拠点として建立した坊舎です。戦国時代は武士同士のみならず、寺社同志でも凄惨な争いや殺し合いをしていた時期ですので吉崎御坊も周囲を崖と湖(北潟湖)に囲まれた天然の要害に築かれていました。
かつて本堂や伽藍・坊舎が建っていたあたりは公園として整備され蓮如上人の像が立っています。周囲の林には幾段かの扁平地が残っているようでした。
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2023/12/13 20:50
「お城EXPO城」へのご投稿について
ご投稿くださっている皆さま、いつも楽しい登城記録やつぶやきを投稿いただき、誠にありがとうございます。
チェブ様、「お城EXPO城」への初投稿、誠にありがとうございます。「お城EXPO城」はキャンペーン用ではなく、ほかのお城と同じく、今までの参城記録やつぶやきをご投稿いただきたいです! ということで、チェブ様、間違いではなく大正解です。初投稿を拝見して大変うれしかったです!! どうもありがとうございます。私たちのほうこそ、皆さまに支えられて頑張ることができております。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
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2023/12/13 20:35
2023/12/13 20:14
篠原古戦場跡・首洗池 石川県加賀市手塚町 (2023/12/09 訪問)
篠原古戦場跡・首洗池は源義仲の恩人である斎藤別当実盛が篠原の戦いで命を落とした場所で、実盛の首を洗った池に首洗い池の名が残されています。池のほとりに案内板が立っておりQコードを読み取ることで短編のアニメーションを見ることが出来ます。
実盛は初め源氏方に属し源義朝が弟の義賢を討ち滅ぼした際に、その遺児である駒王丸(後の義仲)の命を助けました。義朝が平氏に滅ぼされた後は平氏に仕え、源義仲の軍と戦うことになりました。齢70を超えていた実盛の髪は真っ白でしたが、髪を黒く染めて死地に赴く覚悟で義仲の軍に挑み、義仲の武将・手塚光盛に打ち取られたとのことです。
池のほとりに実盛の首を抱えて悲しむ義仲と樋口兼光、そして実盛を討ち取った手塚の銅像が建っています。同じ源氏でも陰湿な鎌倉の連中と違って、この人たちの方が素朴で人間味がありますね。
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2023/12/13 19:38
小山三箇城 (2023/11/19 訪問)
【今井城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車
<感想>今井城(小山 三箇城)の築城年は定かではないが、築城者の三箇氏は記録によると藤原秀郷の流れをくむ記録と大和国宇智郡からでた豪族との記録があるので、三箇氏は源平合戦以降から15世紀後半までにはこの大和国宇智郡今井庄に繁栄し館城を築いていたと思われます。戦国時代に三好氏家臣の三箇城(大阪府大東市城びと登録あり)城主三箇頼照はこの地から出た三箇氏の後裔という説があります。
石碑のある場所は狭い道で駐車できないので、近くの道路脇に駐車しました。石碑の場所は西側からやや微高地になっていき、東側はやや低いので、ちょうど傾斜面の途中に築いた居館のような城だったかもしれません。城びとの城郭情報には遺構が曲輪・横堀とあるので、石碑のある田んぼだけが西面以外からは土壇状に四角くなっているので曲輪跡がそのまま田んぼになっているのかもしれません。また石碑のある西面に溝(水路?)があるのでこれが横堀跡か?とも思いました。
<満足度>◆◇◇
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2023/12/13 10:47
石碑は御影城跡 (2023/11/27 訪問)
船上城を終えて、明石城で長居し、明石駅から山陽電鉄、阪神電鉄から阪急電鉄に乗り換えて御影駅下車し平野城周辺を初登城。
最寄駅:阪急電鉄御影駅
参考資料:グーグルマップ、城びと投稿者の皆さん、ウィキペディア
明石城で長居し御影駅に着いたのが3時半、北口の街灯は既に点灯、城びと投稿者の皆さんの内容によって、北口ロータリー西側の小公園の石碑を確認、同公園には御影の松の案内板と松が植栽されてる。
グーグルマップによると平野城史跡マークは御影北小学校校舎内北側に付いており、御影駅北口から西へ300m程進むと御影北小学校の校門へ、南側、北側は現在の石垣ですが城塁の様、高く聳えています、行内には入れませんので校門坂周辺を見て、東の深田池の探訪へ、御影駅北口から北へ100m程、深田池公園と成っており、平野城の東の守りの堀、池、沼地に成っていたそうです。
六甲山から南に降りる丘陵に城を築いた、西の花隈城と似ている構造の様です、ウィキペディアによると、1346年赤松氏の家臣平野忠勝によって建てられた。とあります。
この後は宝塚の小浜城を計画していたのですが、夏なら行けたでしょうが街灯が灯る頃にて今回の阪神沿線未踏の城廻り4城で終了としました。明石城で時間を掛け過ぎました。
この後の投稿は明石城を数編で投稿します。
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2023/12/13 10:08
84【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津の退き口②-琳光寺)
(24人目)「島津義弘」続き⑬です。義弘軍「捨て奸」の地(琳光寺)を訪れてきました。
徳川家康最後の陣跡から、前回の写真④の義弘が逃げた矢印の方向へ、私も逃げるように必死でチャリをこいで20分、牧田交差点そばにありました。
捨て奸(すてがまり)とは、負けを覚悟した時の島津の究極の戦法で、主君を逃がすため家臣が道に座して鉄砲を構えて並び、敵をくい止める。主君のためなら自分の身を犠牲にしてでも逃げる時間稼ぎをするという戦法です。
義弘の幼い頃からの守役であり家老であった長寿院盛淳は、この牧田の琳光寺にて、義弘の鎧・兜・陣羽織をはおり、「我こそは島津義弘なり!」と叫び、まさに身代わりとなって壮絶な捨て奸を行いました。この犠牲により、義弘は山田有栄に守られ、伊勢東街道を逃げ延び、薩摩まで帰還する事ができたのでした。
琳光寺には、盛淳の墓や供養塔が建てられています。主君を守るためなら自分の命をも惜しまないという彼らの生き様に、私は思わず絶句し身震いしてしまいました😱~。
次は、薩摩に帰還した義弘がその後蟄居した(桜島)に上陸します。
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