大河ドラマ鎌倉殿の13人で中川大志さんが演じた畠山重忠の館跡です。
駐車場もあり、すぐに像が立っていました。
公園として整備されています。
お墓や産湯の井戸があります。
遺構は無さそうですが地域の方に大切にされている公園のようです。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2022/10/05 05:08
2022/10/05 00:02
駅から徒歩なら… (2022/09/24 訪問)
JR上総一ノ宮駅から徒歩なら,わざわざ西側の大手門方向に廻り込む必要ナシです。国道128号線に出たら,実本寺ワキの小道を入っていくと,加納久宜公の墓へ案内する石段があります。墓を越えてしばらく進むと振武館裏に出て,模擬塀が目に入ってきます。
カズサンさんへ。
台風15号の被害が最小で安堵いたしました。
直峰城ですが,冬場にスタッドレスタイヤに替えるようでしたら,散策は12月に入ってからがイイかと思います。妙高山初冠雪の時季が狙い目。しかし,太平洋側に居住していると冬場にスタッドレスタイヤに替える習慣がないと聞いておりますので,その場合は11月中旬が安全策かと思います。
ただし,これは通常シーズンです。今シーズンはラニーニャ現象の影響で,11月下旬頃にドカッとひと降りするんじゃないかと予想されてます。例年ですと,12月10日頃にドカッとひと降りします。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2022/10/04 18:55
長野旅行PART3 小諸城 天守台 (2022/08/18 訪問)
二の丸を見た後、本丸へと向かいました。小諸城は門も重要ですが、天守が気になります。小諸城の天守は仙台秀久によって大規模ななものを築き上げましたが、1626年に落雷で焼失し、徳川の政策により再建されませんでした。天守台は野面積みの石垣ですが、少し発達した算木積みが使われていることも特徴の一つです。天守台の高さは結構あり、登るのは不可能な気がします。また、小諸城は天守台からさらに高石垣が続き、横矢掛けとなっています。おそらくこの石垣の上に多聞櫓があったのではないかなと思います。石垣の上を歩いていくと富士見櫓跡にたどり着きます。でも富士山は雨で見えませんでした。本丸には小諸神社が立っています。
では大手門に向かいます。
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
2022/10/04 13:43
第三回駿府城お散歩講座を開催しました!
令和4年9月25日(日)に駿府城公園にて、お散歩講座を開催しました。
清水御門からスタートし、二ノ丸、三ノ丸周辺を歩きながら、駿府城跡各所の見どころを発掘調査員が説明しました。
石垣を見ながら当時はどのような場所であったのかこれまでの発掘調査の成果も交えながら、駿府城跡各所を約1時間でお散歩しました。
ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2022/10/04 12:10
2022/10/04 08:32
城下町めぐり (2022/09/11 訪問)
越前を平定した織田信長から大野郡を与えられた金森長近が居城として築いた城で、長近が飛騨高山に移った後は青木一矩や織田秀雄が城主となり、関ケ原の戦いの後は福井藩領として土屋正明らが城代を務め、松平氏を経て入城した土井氏が八代続いて明治を迎えました。
美濃街道を見下ろす大野盆地中央部の独立丘(亀山)に本丸、東麓に二の丸と三の丸を梯郭式に配し、西麓の赤根川を天然の堀とする平山城で、東側に短冊状に設けられた城下町は北陸の小京都と呼ばれています。
結ステーション多目的広場駐車場に車を駐めて、亀山を見上げると天守が青空のもとに聳えています。しかしながら本丸周辺は前回(4年ほど前)に訪れているので、今回は亀山には登らずに折りたたみ自転車で城下町めぐりです。
まずは百間堀(外堀)沿いに北に向かい、武家屋敷旧田村家へ。旧田村家は大野藩の家老を務めた田村又左衛門家の屋敷で、江戸後期築の主屋が公開されています。庭園東辺の築山は外堀沿いに築かれていた土居の一部で、外堀の土居は現在ではここにしか遺っていないようです。また、式台や庭園には風車棚が設置されていて、映えスポットになっていました。
旧田村家から東に回り込むと石燈籠地蔵尊があります。城下町の縄張の基点となった石燈籠通り一番町に測量用具を埋めた地に石燈籠地蔵尊を安置したもので、整然と区画された町並みを自転車で走っていると、なるほど小京都と呼ばれるのも納得です。
石燈籠通りを東に進むと、城下町東端の防衛線として設けられた寺町に行き当たります。寺町通りにある善導寺は藩主・土井氏の菩提寺であり、道向かいの墓地に土井氏歴代の墓所があります。
結ステーションに戻って、越前おおの結楽座の隣の藩主隠居所でひと休み。土井利忠の隠居所を移築復元したもので、無料休憩所として開放されています。建物内には越前大野城と城下町の模型や、移築前の隠居所に使われていた瓦や柱、大野藩にまつわる品が展示されていました。
最後に大野市内の移築門めぐりを。西に約2kmの真乗寺には不明門が移築されています。真乗寺は藩主・土井氏の休憩所だったそうで、そのご縁によるものでしょうか。北北西に約600mの光明寺には鳩門が移築されています。立派な山門になっていますが、二階部分は改築されたもののようです。
そしてお土産は噂に名高い伊藤順和堂のいもきんつばです。前回は午後に訪れて売り切れだったので、今回は早めに確保しました。小豆に替えてさつまいも餡によるきんつばと言えばその通りなんですが、和菓子というよりスイートポテトですね、これは。程よい甘さが絶品でスイートポテト好きの子どもと家内にも大好評。帰って食べるなりもっと買っておけばよかったと後悔したほどでした。要冷蔵のため持ち帰りには保冷バッグがあったほうがいいと思いますが、甘党ならば大いにおすすめです。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2022/10/04 06:41
2022/10/03 23:00
実にやっかいで面白いお城だ (2022/05/21 訪問)
「重ね馬出のような遺構」に先進性を感じ取って後北条氏の改修を視野に入れる考え方と、発掘成果が示す16世紀初めまでという年代観に伊勢宗瑞×伊東氏との抗争時期を重ねる考え方とが対立する、実にやっかいで面白いお城だ。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2022/10/03 22:36
2022/10/03 22:00
小野陣屋 (2022/09/11 訪問)
【小野陣屋】
<駐車場他>小野市立好古館駐車場入館前提で
<交通手段>車
<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅5城目。小野藩の前史は山中城の戦いで討死した一柳直末の弟直盛が伊予西条と播磨加東郡を領していました。次男の直家に加東郡5000石を分地しましたが、間もなく直盛が死去したので伊予国の遺領2郡も分け与えられ28000石の大名となりました。直家は伊予の川之江藩を立藩し分地の小野には規模の小さい敷地陣屋を置きます。
1642年に直家は嗣子が無く没したので小出家から末期養子を迎え2代目藩主一柳直次としますが当時は末期養子は認められなかったので伊予国の所領は没収され播磨国加東郡1万石が与えられます。直次は1653年に現在あった位置に小野陣屋を築きました。一柳家は小野藩主として明治まで続きます。
現在陣屋跡は好古館と隣の小野小学校の場所となります。南側と東側の駅より台地状で歩道橋から見ると1段高くなっているのがわかります。好古館(有料)内の展示品で城に関する物は金鑵城や豊地城の出土品が展示されています。
<満足度>◆◇◇
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2022/10/03 18:51
公共交通機関の隙間 (2022/10/02 訪問)
4回目のワクチン接種も行い、油断は出来ないですが体力戻す為に歩く事を目的としてお城巡りを再開しております。
人混みがまだまだ怖いので、人出の少ない早朝出発で午前中に帰る・・・手段で訪問したのが未訪問だった源範頼館跡。
大河で頼朝(初代善児により暗殺)に亡き者にされる前に訪問したかったなぁ・・・
とはいえ、ここは公共交通機関での訪問が難しく。。。
マップを調べて先日ようやく2km弱はなれたところをバス(東松山-鴻巣)が通っているのを確認したので行ってきました。
東松山駅からバスで武蔵松山城を左手にスルーしつつ久保田バス停で降り、そこからゆっくり25分歩いて到着した息障院が伝源範頼館とされている場所になります。
遺構は山門手前左側の堀と思われる地形しか見当たりませんでしたが、解説や城碑が充実しておりました。
個人的には山門の凝った造りの彫刻がきになったかなぁ・・・と。
遺構がほぼ無いので見所も少なかったですが、この後鴻巣に向かい、ついでに源範頼の祖先となる(伝)源経基館も見学して帰宅しました。
(源経基館は投稿済なので今回はスルーします)
以前鎌倉殿の13人に関するネタ投稿してましたが、ここに来て結構なネタ仕入れているので、ぼちぼち投稿して行こうかなと思います。
(城びとに登録していない場所が多いのが勿体ないところですがorz)
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2022/10/03 11:45
結婚記念日登城と金婚参拝 (2022/10/01 訪問)
結婚記念日50年当日、妻の希望で甲州シャインマスカットとシャインマスカットタルトを食べたいと甲州山梨入り、先に希望は南巨摩郡南部町道の駅なんぶで達成したので、未走行の中部横断道を走り武田神社へ金婚お礼参拝と同神社は武田氏館跡・躑躅ヶ埼館でも在り、13年振りに躑躅ヶ埼館を登城探訪しました。
武田神社参拝の後、東側の大手門跡側に廻り、発掘復元した大手ゾーンの復元石塁、説明板で三日月掘跡を想像俯瞰して見る、周囲が高土塁で囲み壮大さが有る、東曲輪・中曲輪を通り西曲輪へ、案内解説板に天守台と記載されてるが天守台跡に入る事が出来ない、西曲輪北奥に入り天守台らしき方向を見るが樹木が茂り良く分からない、西曲輪の南虎口、枡形、高土塁を観察、濠も良く残って水をたたえてる。
車は神社南西の武田神社参拝者専用駐車場を利用、無料ですが駐車券を社務所で検印しないと出庫出来ない。
50年に当たる結婚記念日金婚式当日武田神社でお礼参拝出来てありがたい。結婚前も城廻り50年経っても城旅よく付き合ってくれて居ます、感謝です。
朝田辰兵衛さんへ
先の台風15号静岡県豪雨被害に当たり当方へのご心配お気遣いを頂き有難うございます、西部の浜松市は山間部、谷間筋の中小河川で被害は有りましたが、当自宅周辺は中小河川から離れ微高地との条件で側溝の越水冠水で済みました。
中々新潟の山城に出向けません、直峰城には何時行けるやら?と10月11月の好シーズンが狙いですが?
城びと投稿引き続き楽しみ見て居ります。
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
2022/10/03 10:25
2022/10/03 10:10
2022/10/02 23:02
昔を懐かしく思い出させてくれる城-(大分府内城) (2022/09/04 訪問)
大分府内城というと、豊後大友氏ゆかりの城と思われている方がいらっしゃるのではないかと思いますが、それは誤りで大友氏とは全く関係ありません。大友氏の本拠は約1km南東にある大友館であり、ここは大友氏が改易された後、1597(慶長2)年に豊臣秀吉の命で「福原直高」(石田三成の妹婿)が入り築城を始めました。しかし築城半ば、福原直高は関ケ原の戦いで大垣城の守備を任されましたが敗れて自害します。代わって、竹中半兵衛の従弟の子で、九州の関ケ原では黒田官兵衛の与力であった「竹中重利」が初代府内藩主となり、1602(慶長7)年に四重の天守を完成させました(時期的に見ておそらく望楼型と思われます)。その後の正保の絵図では白い層塔型で描かれているため、竹中氏またはその後に入った日根野氏が白漆喰の層塔型に改築したのか、わざと絵図には徳川をはばかってそう書いたのか、今でも謎に包まれています。そしてその後は大給松平氏が入り幕末まで居城としました。天守は松平期の1743(寛保3)年に火災で無くなり、その他の大部分は戦時中の大分空襲(1945年)で焼失しました。
今では回りは埋め立てられて当時の面影は全くありませんが、かつては東に大分川、北は別府湾に面した位置に立地されており、その大分川の水を内堀・外堀に引き込んでいました。よって、まるで水に浮かぶような形で北側の海と東側の川の間に突き出るように天守が立っていたため、悌郭式の縄張りとなっています。火災や空襲をまぬがれた人質櫓と宗門櫓が現存し、廊下橋は1995年に再建されました。
100名城スタンプとパンフレットは、大手門の軒下にポツンと置いてありました(特に案内所などはなく、無料で開放されている所なので、ご自由にどうぞといった感じです)。
【余談】私事ですいませんが・・
実は私は若い頃大分に住んでいたので、その時は何度も府内城を訪れました。当時は本丸に文化会館という大きなホールがあり、20才の時そこで成人式があったのを記憶しています(40年も前の話です(笑))。今ではホールは解体され、跡地は隣接する市役所の駐車場、その他の部分は大分城址公園として市民の憩いの場として開放されています。10月なると大分生活文化展が開催され多くの市民が集まります。大分名物の「だんご汁」や「椎茸飯」「吉野の鶏めし」などが(有料ですが)振舞われ、よくここで食べたのを憶えています。何かとても懐かしく感じました。
今後、天守などを含め元の姿に復元するための調査・研究が今なされているようです。是非復元した姿を見たいものです。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2022/10/02 22:30
館山城訪問 (2005/05/03 訪問)
過去のお城巡りの振り返り第20弾は、千葉県館山市の館山城。
館山平野の海岸線の北側にある富浦の水軍基地岡本城を居城としていた1580年代の里見氏。
反対の南端部には高の島湊があり、館山城は元々そこを抑えていたであろう支城。
安房丘陵から軽く飛び出た標高約70mの小さな山に築かれています。
館山湾を北の軍事と南の経済で支配した里見氏ですが、秀吉の小田原征伐後は本拠を館山城に変更。
しかし江戸初期に里見氏は伯耆国倉吉へ移封され、城は廃城となりました。
現在は城山公園として整備され、模擬天守は八犬伝の博物館。
山頂部の広場は昭和期に削平されたものだそうで、中腹の梅園付近が義康時代の館跡、孔雀園が忠義時代の館跡と推定されています。
また山麓西部には関ヶ原以降に掘られた鹿島堀の跡が見られるとのこと。
訪問時を写真で振り返ると、2つの博物館に寄りながら、パンフレットを参考に公園内を歩いた模様。
しかし思い出せるのは、駐車場から天守まで意外と坂が長かったということのみ。
公園の南エリアは堀切以外にも曲輪の名残があるようで、いま訪れたら当時より城を感じることができるかな?
※1枚目の写真は'11年の再訪問で撮影
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/10/02 22:13
【甲斐・南部氏館】山梨県南巨摩郡南部町 南部氏初代光行公の騎馬像設置 (2022/10/01 訪問)
南部氏館跡は山梨県南巨摩郡南部町南部に在り、グーグルマップに史跡マーク南部氏館跡と掲載されて居ます。
南部氏館跡登城は平成29年5月以来2度目です、今回は妻が新しく出来た「道の駅なんぶ」が静岡民放テレビ夕方の放映でシャインマスカットの産地販売とシャインマスカットを使用したジェラート「シャインマスカットタルト」を食べたいとの希望で、中部横断道が昨年、新東名新清水JCTと中央道双葉JCT間が完全開通して居り走破もして無く、中部横断道使用甲州金婚日帰り城廻りと洒落込みました。
中部横断道南部ICを降りると直ぐに道の駅なんぶに繋がって居ます。勿論「シャインマスカットタルト」も食べ、シャインマスカットを土産に購入、宅急便で孫達にも送りました。
南部町は南部氏発祥の地、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光の後裔で加賀美遠光の三男光行がこの地の地名から南部光行を名乗ったのが始まり、光行は頼朝の奥州合戦に従軍し軍功を上げて奥州糖部(現在の青森県岩手県一部)の地を賜った、子孫は徐々に奥州に移住し勢力を拡大、南部藩として明治まで奥州有力大名として栄えた。
南部三郎光行公の騎馬像は平成30年9月、道の駅なんぶ駐車場側に設置され、建物内に情報発信館「南部氏館」資料室が在ります、当日は10月3日まで整備工事中で見学出来ず、頼んで南部氏のパンフレットを頂く。以前から南部光行騎馬像を観たいと思って居り叶いました。
南部光行公の騎馬像はもりおか歴史博物館所蔵の御代々御画像南部光行部分をもとに、乗馬については、南部馬に近いと言われてる木曽馬を採寸し、立体化しているとの事。「道の駅なんぶ」のシンボルとして設置されたとの事。
南部氏館跡の二回目の探訪は道の駅から国道52号線から富士川沿いに一本東の旧身延道を南東に約2km程ですが、中沢薬局南部店の所から東に村道富士川沿いを150m程南東行き裏から入る。車は手前の幅広エリアに路駐。
南部氏館跡は私有地の様ですが、唯一残ってる井戸跡前に案内板と標柱が立って居ます、そこからは西の山側に菩提寺の妙浄寺、南部城山跡、その下に源義光を祀った新羅神社を遠望する事が出来ます、浄光寺には南部氏供養塔、発掘された墓石が有ります。(今回は訪ねて居ません)
各史跡はグーグルマップを見て頂くと記載されて居ますのでご参考に、説明文は南部町教育委員会発行の「歴史文化公園 南部氏の郷」を引用抜粋して居ます。
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2022/10/02 21:59
良く残してくれました (2022/10/01 訪問)
横浜線中山駅から徒歩15分程、住宅地にある城址です。主郭がお寺になっていて、食違いの虎口、矢倉台跡が良く残っており、マニアには有名ですね。周囲も歩けば谷地形を良く利用した大堀切やら堡塁の様な矢倉台が良くわかります。
こんな小さなお城が、戦国の先駆けになった永享の乱の始まり地であり、北条氏にとっても小机城を中心にした鶴見川防衛ラインとして重要な役割を担ったという、深い歴史を秘めています。
神奈川県民の御城ファンを名乗るなら、発達した戦国末期の小机城と共に初期の地方領主クラスの見本として、ぜひ訪れるお城と思います。横浜市内は明治期以降いくつものお城が破壊されてきましたが、この奇跡的に残ったお城を味わいましょう。
なお、行き方は中山駅北口から線路沿いに歩くことをお勧めします。車は少ないし、後堅固がわかる田んぼが見えたら明治の橋台がある線路をくぐった目の前が搦め手です。横断歩道を渡って真っ直ぐ行けば搦め手からの登城ルート、おすすめは左の道からぐるっと回って大堀切の中から登城するルートです。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/10/02 21:17
日在城(千葉県いすみ市) (2022/09/24 訪問)
【ひあり じょう】今回のJR外房線巡り最大の目的がココ。にのまるさんに「しりとり攻城」していただいた,有子山城アプローチ手札の城です。
有力な情報は2つ。城の北側に設置の石碑が,ストリートビューでも確認できる。そして,2018年9月24日に(等高線が最も密な)北側斜面から登城された「古城盛衰記」さんのレポート。
「古城盛衰記」さんのレポートでは,南西面で登城口を探せなく,北側斜面を…とあり,さらに南側(いすみ市若山1776の西側)から北に登って尾根を右に進むと,城跡の南西側に出ると思われる…と結論されてます。
私は,国土地理院の地図でシミュレーションして,いざ現地へ…。城址碑と北側斜面を確認。北側斜面は草木の繁茂で足元を確認できず。しかも,踏み込んだ足元に水があふれ出る状態。ここは無理せずに南側へ。南側登城口と思しき場所を発見し,さらに先の方を眺めていると,厳重にネットか柵かでふさがれているのが見えました。この斜面も,踏み込んだ足元に水があふれ出る状態…。少しだけ歩みを進めると,登城口に向かって左側住宅に居住の方が窓を開けて私の方を注視しておられました。
(これはラッキーと思い)私から声をかけ,「ここから上へは行けますか?」と。
回答は,上にはここから行くことができるが,もう10年以上,誰も登っていない。上からイノシシがしょっちゅう出てきて,防護ネットをしているとのこと。記憶の中では,ケータイの工事で業者の方が登ったのが最後と。
私が思うに,ケータイの基地局が山頂に見当たらないので,おそらく置局調査だろうと思います。基地局があれば,それに伴い道も整備されますので。また,義経の鵯越え的理論から言えば,「イノシシが降りれるということは,何かしら道がある」ということ。条件が整えば行ける…と思いました。
ただ,今回は足元が悪い中,イノシシが突進してきたら,運良く避けれても滑落のリスク大。イノシシの習性からしても,台風などの強風によって落ちた木の実を狙って出てくる一面があります。確実に登城口がわかったということを収穫材料として,引き揚げました。
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。