高山公民館向かいの道に入る→道なりに進むと西方寺→その脇の道(画像)を少し行くと路肩に高山城跡の案内板が見られます。
なお少し先の高山右近生誕地の石碑下に1台分ぐらいですが駐車スペースあり。
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2023/12/11 16:04
アクセス (2023/12/11 訪問)
高山公民館向かいの道に入る→道なりに進むと西方寺→その脇の道(画像)を少し行くと路肩に高山城跡の案内板が見られます。
なお少し先の高山右近生誕地の石碑下に1台分ぐらいですが駐車スペースあり。
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2023/12/11 09:31
#30 鷹城 (2023/12/10 訪問)
晴天に恵まれ最高でした。
畳の部屋もあり珍しいな感じました。
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2023/12/11 09:25
2023/12/11 08:19
勝海舟建議による西宮砲台 (2023/11/27 訪問)
以前より探訪したかった、海軍奉行勝海舟の建議による大阪湾海防施設なる円形石造砲台の西宮砲台を初登城しました。
同類の砲台は和田岬砲台が在りますが現在特別公開日のみ見学可能で内部のみ撮影可能、三菱重工、三菱電機の工場内です、同建議にはほかに今津砲台、舞子砲台があり同時に幕末文久3年(1863年)建設開始されました。
最寄駅:阪神電鉄香櫨園駅、より約1.2km程、徒歩20~30分。
駐車場:御前浜駐車場(有料)、御前浜公園にトイレ有、夙川オアシスロード途中にもトイレ有。
参考資料:城郭放浪記さん、ウィキペディア、グーグルマップ、城びとに依ります。
前日は大阪で中学卒業60年の関西地区在住者主体の同級会が3年振りに有り参加し梅田泊り、阪神梅田駅から乗車し西宮の西隣、香櫨園駅下車、南口より夙川沿いの夙川オアシスロードを約1km程南下、丁度桜が紅葉で桜もみじトンネルを通り、嬉しいプレゼントでした南端で御前浜公園の浜に出て約200m程東行すると円形の堡塔が目に入って来ます。
西宮砲台は円形の石造砲塔石堡塔です、外壁には白漆喰仕上げ、11個の砲眼と1個の窓が2層目に並んでいます、外周にはフェンスが廻らされて近づく事は出来ません、フェンス外からの見学、砂浜に松の杭を1000本以上打ち込んで基礎固めし花崗岩の円形石組堡塔を築いた。
実戦は無かったそうですが、試射で内部に砲煙が充満し実用向きで無かったと有ります、内部木造部の消失、台風被害の修復されて現在に至ります、阪神電鉄が所有して居るようです。現在公開無しで外部からの見学と成ります。
終わって来た道を戻り夙川沿いのオアシスロードの桜もみじを再度楽しみ目出てゆっくりと歩き香櫨園駅へ、夙川の水も奇麗、多くの散策者で歩行者専用道路でした。
満足と歩行疲れの西宮砲台探訪でした。
次は舞子台場に向かいます。
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2023/12/10 22:22
秋津城 (2023/11/19 訪問)
【秋津城】
<駐車場他>北東側の「墓地のトイレ」がある墓地の駐車場を利用しました。
<交通手段>車
<見所>堀切・曲輪
<感想>秋津城の秋津氏は朝廷に奉仕し淳和天皇の代(823~833年)の時に吉野郡に封じられます。南北朝時代には南朝方に属して戦います。永禄2年(1559年)に戦いによって落城したようです。
東側からのルートは墓地の最上まで行くと主郭か堀切を挟んだ北の広い削平地に入り込めます。主郭の方は墓地があります。主郭南に3~4段段曲輪があり土居がある曲輪もあります。主郭の北側に大堀切がありその北側は広い削平地になっていて土塁遺構が見られます。更に北に進んで竹林の方まで行くと竹林も段になっており、曲輪段かと思われます。最北は藪化していますが最北の東側に5~6mくらいの切岸とアーチ状に削った遺構があり下に曲輪が見えます。虎口または駒返しの遺構かと思います。
<満足度>◆◆◇
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2023/12/10 19:47
信長時代の復元された主郭石垣 (2023/12/03 訪問)
永禄6年(1563)、織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、その後、天正12年(1584)、小牧長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康の陣城となりました。
山の中腹と山麓の堀・土塁・虎口は家康による改修とされてますが、山頂の主郭の石垣は発掘調査から信長が築いたもので、周囲に2〜3段の石垣を巡らせた城であったことが分かったそうです。
主郭石垣が5カ年計画の復元工事中で、今は令和3年度に復元された5工区の北側、令和4年度に復元された1工区の北西側が見学できます。
まず北西側に到着すると、石垣が3段あり、1段目(上段)は荒々しい大きな石を使っていて、張り出した所の石垣が一番高いです。
2010年と2016年に行った時から北西側には、巨石のためか元々露出していたり、発掘調査で出ていたと思われる石垣が3ヶ所で見られました。
ご参考に同じようなアングルの2016年に行った時の写真も添付します。
復元は、その3ヶ所の石垣や最近の発掘調査で出てきた本物の石の間に新たに石を詰めたり、上に積み増しされているようです。
北西側から北側にかけての城道には玉石敷と石枡の遺構も整備されています。
北側は、以前行った時に石垣は見られなかった所ですが、発掘調査で確認された石垣を基に復元されているようです。
信長時代の野面積石垣が良く再現され、素晴らしい復元だと思います。
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2023/12/10 19:33
堀江郷を支配した中世領主堀江さまの番田館
長禄年間(1457-60)堀江景経が館を築いた。景経は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で河合斎藤氏の系統、郷名を以て性とし始祖となる。堀江氏は後に朝倉氏に属し坂井郡一帯(堀江郷)に勢力を張った。番田館には石碑、説明、祠などがあるが遺構は残ってない。後に下番館(本荘小学校あたり)に移る。
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2023/12/10 19:31
鳥越城の出城ともいわれる一向一揆の山城
朝倉氏の加賀侵攻、朝倉宗滴の攻撃に対して享禄年間(1528-32)一向一揆の宗徒が築城。城主は沢米左衛門。その後、織田氏の加賀侵攻で落城、最前線基地として改修された。平虎口であるが屈曲し横矢できる桝形空間がある。
三坂越えの街道を見下ろす位置ではあるが、実際は山の奥。登城も緩やかだか長い距離の山道を歩く(約1.6km、比高226m)。攻撃的なというより守備的、立て籠もり用の城砦に感じた。
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2023/12/10 18:20
2023/12/10 16:22
北区だけど豊島 (2023/10/03 訪問)
東京メトロ南北線 王子神谷駅から東に徒歩10分ほどの清光寺が、豊島氏館の跡とされています。
豊島氏館なので豊島区にあるのかなと思っていましたが、まさかの北区でした…
お寺の入り口の清光寺の説明板に、豊島氏館の説明も少し記載されています。
遺構らしいものはありませんでしたが、清光寺裏手の路地からみると、少しお寺が高い場所にあることが確認できました。
お寺の境内には、豊島清光公の供養塔が立っています。
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2023/12/10 16:13
乙畑城寄ってみました (2023/11/13 訪問)
御前原城2度目の登城を終えて、R4号線沿いで5~6km程南の所に乙畑城が在り、城びと赤い城さんの投稿で駐車場の存在、登城も簡単そうな投稿でしたので寄ってみました。
駐車場:熊野神社砂利駐車場(36°44'15"N 139°59'31"E)数台は可能、トイレ無し
住所:栃木県矢板市乙畑1091-2
参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ、城びと
熊野神社駐車場から神社に参内し参拝、左上の方に城域の曲輪の稜線の様な地形を見るが、登城路、人踏道らしき痕跡も無く、草も茂って登れない、神社の右手東側に人踏道が有り登って行くが右手は崖で下は畑の様、左手西側へは入りたいが樹木が密集して入り込めない、断念して神社へ戻る。
民家の方が畑仕事などで表に出て居たら尋ねようと裾野の道を西へ移動、城域らしい地形は北側、手の届く所に在るのにと思いながら民家と城域稜線を見ながら動くが人は誰も表に出ていない、廻り込むように北に移動したら、上段の畑、田圃の畦から入り込めそうな所がありそう?、私有地で立入禁止の所も有るとの情報も聞き、麓から城域稜線を眺めただけで今回断念。
今後の城跡整備と登城路案内新情報が出て来た処で挑戦してみたい、駐車場も有り比高も低く私には適宜な城跡です。
この後は宇都宮の娘宅により家内をピックアップ、孫達の別れを惜しんで浜松へ高速370km程、時間約5時間半、圏央道が一部渋滞して居ました。
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2023/12/10 12:18
無事に登城 (2023/12/10 訪問)
静原神社の脇道から登城しましたが急な坂道、整備されていないところが良かった。
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2023/12/10 12:13
海に面した山城 (2021/11/21 訪問)
長島神社の駐車場に車を駐車し登城開始。
神社右手から登城。途中からシダが生い茂る中をかき分けて進む。20分ほどで本丸へ到達。本丸は上段と下段に分かれているのが確認できました。下城は分岐点を左手に進み、戦国期の城主加藤甚五郎の墓と言われる五輪供養塔を通って紀伊長島郵便局の前へ出る。
下城後、江之浦大橋から城址全景を遠望。
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2023/12/10 12:13
2023/12/10 12:10
2023/12/10 06:55
三河最大級の山城 (2023/09/29 訪問)
山中城は、通称城山と呼ばれる標高約195mの山上一帯に築かれている、東西約400m、南北約250mで三河地方最大級の山城です。堀切・土塁・曲輪などが良好に残っています。
築城年代は不明とのことですが、築城者は三河守護仁木氏の守護代であった、西郷氏により15世紀頃に築城されたと云われています。その後、西郷氏は松平宗家と対立し松平氏に城を明け渡したとされています。今川氏、松平氏と変遷し、徳川家康公関東移封後に廃城になったとされています。
駐車場は羽栗病院と隣接している3台程停めれる駐車場があります。(登リ口の舞木口まで徒歩5分位です)トイレはありません。城に登る前に東部市民センターに立ち寄り、山中城址案内図を貰うと見逃しがなく城跡を散策できます。
今回の投稿は、10年前の6月16日の画像と織り交ぜて投稿させていただきます。
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2023/12/09 23:13
①上杉家御廟所(米沢藩主上杉家墓所) (2023/09/08 訪問)
山形城見学後、コンビニのイートインスペースで小腹を満たし、つばさで米沢に向かいました。
5年ぶり2度目の米沢城です。
はじめに、国史跡に登録されている上杉家御廟所(米沢藩主上杉家墓所)を訪ねました。
薄曇りの空の下、しんとした空気の中で出迎えてくれた冠木門の向こうに杉木立の参道がまっすぐ墓所へと続いているのが見えます。
一帯に漂う厳かな気配に誘われるままゆっくりと歩をすすめるうちに、旅の疲れや興奮で乱れていた心が落ち着き、次第に穏やかさと凛とした緊張感に包まれていきました。
「龍」と「毘」の幟の向こう、中央奥に謙信公廟所。
正面に立ち廟所を見つめていると、歴史上の人物として、残された史料の中でのみ知る「上杉謙信」が、イメージとしてではなく実像として目の前に現れたかのように感じました。
そして、土塁の内に整然と並ぶ歴代藩主の御廟。鷹山公の隣、少し奥まったところには若くして亡くなった世子、顕孝公の小さな御廟。
それぞれに導かれる石畳の参道に一代一代の重みを感じ、これが「歴史」なのだとの思いを新たにしました。
廟所の“見どころ”のひとつに建築様式の違いがあります。
流造、入母屋造、宝形造り。時代の変遷を物語る生きた史料として目の前に建ち並ぶそれらは様式美を余すことなく見せてくれていますが、華美な装飾は一切ありません。静かに佇む様は米沢転封ののちの遷座や改変を粛々と受け入れてきたかのようであり、質素な中に秘めた厳かさを感じます。
同時に、経年による老朽化や傷みを14年という歳月をかけて修復され、歴史を未来へ伝える事業を担われた方々のご尽力を思います。この場所へ導かれたのも保存事業というプロジェクトのおかげであり、感謝しかありません。
お詣りを終えて退出しようとしたとき、事務所横の上杉家墓所資料館の扉が開いているのが目にとまりました。小さな建物でしたが、中に入ると墓所の見どころや資料、出土物などの展示があり、思わぬ情報の宝箱でした。この資料館自体がかつて廟所参道の中央に設置されていたと伝わる旧拝殿を利用したものだということでした。
ここから米沢城址へ徒歩で向かいました。
<参考資料等>
・現地説明板
・国史跡米沢藩主上杉家墓所参拝のしおり
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2023/12/09 22:51
仙南屈指の伝統校角高にあった別名臥牛城
築城は永禄年間(1558-70)伊達家臣田手宗光による。伊達氏相馬氏の係争地でもあった。慶長3年(1598)政宗の叔父石川昭光が入城し、以来幕末まで御一門筆頭である石川氏が在城する。ただ元和の一国一城令のため伊達21要害のひとつとされた。
角田高校の門を入ると案内板があり、少し進んだ左手丘陵下に石碑がある。高校前の水路は堀の名残りで、高校のある丘陵地も城の雰囲気がある。
石川氏菩提寺の長泉寺には解体復元された旧表門臥牛門が、角田市郷土資料館には城門のひとつが、それぞれ移築されている。
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2023/12/09 22:49
湯原城、または勝乗館(政宗が名付けた)、御館ともいう
上杉氏との勢力争いの地で伊達政宗が攻略、戦国期は伊達家臣の横尾氏、その後は一門の石川氏が詰めた。江戸期は石川氏重臣が藩境警備や街道警護に当たったという。
七ヶ宿街道、上山や米沢への分岐点近く、湯原集落北側、標高520mの高台に連郭式の中世山城遺構がよく残っている。西側の広い区画が主郭の上館で北側の土塁は高く背後の堀は深い。副郭というべく東郭の間には堀、土塁、虎口があり、絵図によると廊下橋があった。絵図通りの上館東郭の遺構がよくわかる。居館や表門を構えた二の丸は、今は街道Hostelおたてになっている。
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