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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/24 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/24 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/23 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/23 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/23 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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赤い城

雨中の白鷺 (2024/03/24 訪問)

当日は讃岐の山城を予定していましたが結構な雨で中止。
予定変更し姫路へ向かいました。

で姫路城です。
これまで何度か登城しましたが城びと登録前。
城びとではまだ「行った」にしていませんでした。
日曜日とは言え朝一番で雨、人も少ないと見積もっての登城です。

大手門もまだ人は少なく有料エリアにもスムーズに入れました。
まずはるの門、と思いましたが人が少ない今のうちに天守へ向かわないと。
ということで順路に沿って進みました。

写真を撮りながら歩いていたのでだんだん人も増えて来ます。
油壁では少しだけ人の切れ目があったのでパシャリ。
安心して大天守へ。
外国人の女性と撮影ポイントが同じらしく譲り合いながら進んでいきます。
英語勉強しておけばよかった、と最近つくづく思います。

天守内の見学を終え、備前丸から下りて行きます。
への門を塀越しに見学して順路を進みいよいよるの門へ。
今回はちゃんと写真も撮れました!

西の丸には雨に打たれながら桜が数輪咲き始め。
もうすぐ春ですね。
奈良村と名が刻んである石垣の石や百間廊下を見学、三の丸広場に戻ったあとはいつものように堀に沿って一周。
これでもまだ見ていないところ沢山ありますね。

最後にイーグレから全景を望み、その大きさを再認識して終了。
世界遺産にふさわしい素敵な城でした。

今回、天気がいまいちだったので天守以外の写真をアップしますね。

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todo94

京阪の城めぐり② (2024/02/24 訪問)

革嶋城からの転戦です。「もずめ」は難読地名に入るかと思いますが、歴史ある地のようですね。肝心の城は私有地で立ち入り禁止となっており、遠目に望むしかありませんが、そこここに案内板、説明板が立てられていて散策は楽しかったです。常夜燈や中海道遺跡の豪族居館と祭殿跡など、確認することができました。

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山屋敷 (2024/03/28 訪問)


 山麓にある山屋敷は山城側を除く三方向に土塁と堀を巡らしてあり、遺構がかなり残っています。

近江鉄道日野駅よりバスに乗り鎌掛バス停下車。バス停から約10分で登城口に行くことができます。

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まずは山城方面へ (2024/03/28 訪問)

 蒲生氏郷の父賢秀が、この地で隠居し生涯を終えたと伝わる城です。尾根上に構築された山城と山麓の山屋敷と表示されている居館部分で構成されています。

 山城は三方向に延びる尾根の上にあり、それぞれの尾根に曲輪が展開し堀切や土塁を見ることができます。伝二ノ丸跡から少し下ったところに石組井戸がありました。伝本丸跡等からの眺望はよく、遺構も思っていたより良好で散策を楽しむことができました。

 山屋敷を進んで行くと伝大手道の案内があり山城へ行く道が整備されています。ただ自分は山屋敷入口付近の尾根を直登して山城へ向かいました。尾根筋に踏み跡があり勘違いしてしまいました。下山するときに正規のルートに気がついて山屋敷へ下りてきました。ただ尾根を登っても踏み跡があり、それほど登りにくいわけではありません。屏風岩の案内が立っている場所に出て、その付近で両方のルートが合流しています。その後も尾根を登りますが、鎖場が2カ所あり難所(それほどでもないかもしれませんが)となっています。

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しんちゃん

勝栄寺土塁及び旧境内 毛利元就教訓状発祥の地 (2024/01/02 訪問)

勝栄寺は南北朝時代に建立された寺院で開基は大内弘世の重臣・陶弘政とされています。寺院でありながら周囲に堀と土塁をめぐらせた城館造りで現在も土塁を良く残しています。弘治元年(1555)の厳島合戦で陶晴賢を破った後、大内氏の残党が起こした一揆を鎮圧するため弘治3年(1557)に元就は勝栄寺を本陣とし、一揆を鎮圧したとあります。毛利家の三矢の訓とされる教訓状はここに滞陣中に書かれたとされ、それらは14ヶ条にも及ぶそうです。

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しんちゃん

裏切りにてあえなく落城 (2023/12/30 訪問)

神吉城は赤松氏の一族の神吉氏によって築かれたとされています。初代城主は赤松円心の子孫の赤松範次の子・元頼で神吉氏を称したとされています。河岸段丘である神吉集落全域に築かれており、中の丸(本丸)跡である常楽寺を中心に東に東の丸、北に二の丸、西に西の丸が築かれ、周囲に大きな空堀を有していたようです。また本丸の周囲にも空堀が配されていたようです。
天正6年(1578)三木合戦が始まると、城主神吉頼定は別所氏に味方し、三木の大村坂では羽柴軍に勝利するものの、6月23日の神吉合戦では2000の守兵で3万の攻め手と戦ったそうです。この合戦の際、頼定の叔父・神吉貞光が佐久間信盛の調略を受け頼定を暗殺し、城は落城したとされています。

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しんちゃん

三木氏の海城 (2023/12/30 訪問)

英賀城は永享年間(1429~41)の初めに赤松祐尚によって夢前川の河口に築かれたとされています。祐介の死後は三木通近が在城し三木氏の城となって規模を広げていったようです。英賀城は一方を海に面した海城のような城であったようです。戦国時代後半に最盛期を迎え、蓮如上人の子・実如上人を迎え英賀御坊が城内に設けられたそうです。城主・三木通秋は城下の門徒と共に大阪の本願寺を助け信長と対立しますが、天正5年からの羽柴秀吉の播磨攻めによって播磨全域に戦場が広がり、天正8年に三木城に続いて落城したそうです。
本丸跡の石碑から北西に800mほどの場所に英賀城跡公園が有り野中口之跡の石碑と模擬石垣が有ります。そこから南にある英賀神社には土塁と石碑が建っていました。他にも岡芝口之跡やら井ノ上口之跡など石碑がいっぱいあって、かなりの城域を持っていたことが伺えます。
見きれまへん‥。

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カズサン

美濃南部城廻り松倉城は木曾川の中 (2024/03/16 訪問)

 昨年10月の西美濃未踏の城廻り時間切れと成って取り残された美濃南部の城廻り最後の城は松倉城、先の伏屋城から南東に約5~6km程の木曽川南側の輪中の中、堤防沿いに碑と案内板が有る。

 駐車場:無し樫大神碑の前に路駐(35°22'14"N 136°51'07"E)、堤防道路下の脇道で通行量少ない。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 木曾川南側堤防下に、碑「樫大神」と説明板が有る、堤防の中段に松倉城跡の説明板が立ている。堤防通路に登ると大河木曽川が流れている、戦国激戦の木曽川色々の戦歴がよみがえる、当日は霞状態で岐阜城金華山、先に訪ねた伊木山城を確認する事は出来なかったが対岸北側に三井城跡の山頂部を望むことは出来ました。
 此処から更に西約1km程の所に鬼門に当たるとしての神明神社にも寄りました。
 
 歴史などは史跡松倉城跡説明板をアップしますのでお読みください。
 
 ここの松倉城で昨年10月西美濃未踏の城廻りでリストアップした城跡は廻る事が出来ました。
 まだ時間が残って居ましたので帰路の高速入口の経路途中の尾張大野城へ寄る事にしました。
 

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todo94

京の冬の旅特別公開・西本願寺飛雲閣に続いて (2024/02/24 訪問)

以前の西本願寺飛雲閣の特別公開の際には外観撮影禁止だったのでしたが、今回の京の冬の旅の特別公開は飛雲閣の外観撮影OKということで、急遽、京都へと駆け付けました。3月16日のダイヤ改正による特急の乗継割引廃止前というタイミングも後押しとなって、この土日は京阪の城めぐりです。革嶋城は先達の皆さん同様、革嶋城公園と革嶋春日神社に立ち寄ってみました。

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しんちゃん

中世播磨三大城の一つ (2023/12/30 訪問)

中世の御着城は別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の一つに数えられていて、当時の姫路城は御着城の出城としての機能を有していたようです。小寺政職の時代に羽柴秀吉の攻撃に会い落城し、その後廃城となったものの、江戸時代に本丸跡の一画に御着本陣が置かれたようです。
本丸跡の一部は御着城公園として整備されていて一画に黒田官兵衛顕彰碑が建ち、北側に城郭風の建造物である姫路市役所東出張所が建ち、その裏手に移築された天川橋があります。道路を挟んで東に御国野市民広場があり、ここが二の丸跡とされ、間の道路は堀跡になると思います。出張所の西手に黒田家廟所があり、黒田官兵衛の祖父重隆公と母明石氏の廟所とされています。
廟所の造営は福岡藩主黒田家が享和2年(1802)に資材を福岡から運び完成させたとされていますが、瓦は深志野で焼かれ、塀は竜山石を使用しているようなので、けっこう現地で調達しているようです。
本丸の発掘調査の際、井戸・石組み溝・建物礎石・掘立柱建物跡・瓦溜り・石組施設などが発掘されています。二の丸からは井戸・石組み溝・建物跡・土塁・埋甕遺構などが見つかっています。井戸は二基発見され、いずれも石組井戸だったようです。どうせ史跡公園として整備されるなら、これらの遺構を見学できるようにしてほしかったですね。
移築された天川橋は元は、姫路藩が文政11年(1828)に、ここから南西200mの天川に架橋した竜山石製の太鼓橋で、橋柱に刻まれた銘文は姫路藩儒者・近藤顧一郎によるもののようです。

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しんちゃん

秀吉の三木城攻めの際に三木城の後詰の役目を果たした城 (2023/12/30 訪問)

高砂城は高砂神社の境内周辺に築かれていたようです。こちらは新城と呼ばれ、池田輝政が姫路城主になった際に中村主殿助が入ったとされています。本多忠政の時の元和年間(1615~24)に一国一城令が出され石垣は破却され、当浦にあった牛頭天皇が移され、今の高砂神社になったとされています。
戦国期には梶原景行が城主を務め三木城の別所氏に従い羽柴秀吉の三木城攻めの際には、その後詰めの役を果たしており東は明石にまで及ぶ制海権を有していたようです。

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くり

新田金山城 (2024/03/24 訪問)

武田、上杉も落とせなかった難攻不落の城🏯

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ぴーかる

久留米城 (2024/02/10 訪問)

【続百名城68城目】
<駐車場他>城跡本丸内に駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>本丸石垣
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅2城目。続日本100名城が始まる前の2012年以来、2回目の訪問。当時は城郭の知識も少なく、本丸石垣と本丸内部を巡っただけだったのですが、今回改めて調べても本丸・本丸内の櫓台石垣遺構くらいしか遺構が残っていないようで、本丸石垣の周囲と内部を一巡りしました。12年前はちょっと寂れた感じではありましたが、本丸石垣南側にへばりついた草も綺麗に取られて見やすく(写真添付)なっていました。前回確認しなかった本丸の北側曲輪壁は石垣を失ってしまっていたのか、元々土塁だったのか土壁でしたね。これにて福岡県の百・続百名城制覇。

<満足度>★☆☆

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しんちゃん

三徳山三佛寺投入堂 日本一危険な国宝 (2019/05/03 訪問)

三佛寺は鳥取県東伯郡三朝町にある天台宗の寺院で奥の院である投入堂は国宝に指定されています。また三徳山は国の史跡および名勝に指定されています。入山時に靴のチェックがあり、登山用の靴を履いていないと入山は出来ないようです。トレッキングシューズなどでも大丈夫だとは思いますが岩場や鎖場などが多いので足元の備えは必要です。
懸造の文殊堂を経て投入堂に至りますが、周囲は切り立った崖になっていて近くまで寄って下から見上げるまでしか出来ません。正直どうやって建てたのかわかりません。日本遺産の初期の案件として「六根清浄と六感治癒の地〜日本一危ない国宝鑑賞と世界屈指のラドン泉〜 」(そのまんま)として登録されています。なんかTV番組のタイトルのようですね。

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カズサン

美濃南部城廻り伏屋城は秀吉の築城 (2024/03/16 訪問)

 昨年10月の西美濃未踏の城廻り時間切れと成って取り残した美濃南部の城跡を今回の伊木山城メイン登城に合わせて長森城の次に登城しました。駐車場は心配で近くのJAぎふおんさい広場はぐりの駐車場を目指して進行。

 駐車場:JAぎふおんさい広場はぐり(岐阜県羽島郡岐南町三宅9丁目50)
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップ

 長森城(切通陣屋)から南に1~2km程です、近くのJAさんの駐車場を利用させて頂き、南の中非通りと用水を渡り、用水の通りを西に約100m程の所に伏屋城跡が竹藪に覆われた一画に残って居ます、西の通りに解説板が設置、解説板の裏から少し入り土塁を確認、取り敢えず一画を一巡、住宅街によく残してくれたものです。

 案内板によると、信長の美濃攻めに秀吉に命じて築かせたと伝えれれると、ここも木曽川・川並衆の助けを借りて墨俣城の様に短期間で永禄年間(1558年~1559年)に築きここも「一夜城」とも呼ばれてると。
 天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで秀吉は最北端の砦としてこの伏屋城を伏屋市兵衛に守らせたと有ります。

 探訪を終えて、JAぎふおんさい広場はぐりに戻り昼も過ぎ、山菜おこわ弁当とお茶を購入し車で昼食としました。
 
 

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