今年も開催中です。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2023/10/13 15:00
2023/10/13 11:37
奇跡と物理と
ぜひ参加したいところですが、関東からはなかなか。
数年前に熊本城を訪れた時には被害を受けた建造物の多くはすでに解体され、使用木材は大事に保管されていました。あれだけ話題をさらった「奇跡の一本石垣」(飯田丸五階櫓)もそのうちの一つ。地震直後、わずかに残った隅角部の石垣が櫓の重さに耐えるように見える姿が話題になりましたね。
ほぼ直方体である算木積の積み石が鉛直に積まれると、上載荷重に比例して大きな強度をもつと言われます。奇跡かどうかは別にして、400年前にそこまでの技術が確立されていたという事実にも感動したいと思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2023/10/12 22:06
2023/10/12 21:59
織田信孝時代の見事な天守台が残る (2023/10/07 訪問)
貞治6年(1367)亀山城主関盛盛政の長男盛澄が神戸氏を名乗り、天文年間(1532~55)
に神戸氏によって神戸城は築かれたとされています。永禄10年(1567)織田信長三男信孝
が神戸氏の養子に入り元亀2年(1571)神戸城主になります。天正8年、神戸城の拡張工事
がなされ五層の天守が築かれたとされ本丸北西部には大きな天守台が残っています。
南西には土塁が残り本丸西側から南側にかけて水堀が残っています。かつての二の丸・
三の丸は神戸高校の敷地内になっているようです。鈴鹿市の蓮華寺に本多氏の時代に
二の丸に築かれていた平櫓が移築されています。四日市市の顕正寺には城門が移築されて
います。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2023/10/12 21:50
高井寺 (2023/10/12 訪問)
安芸備後を治めていた福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、この地に転封されたときの屋敷跡です。高井寺周辺が跡地です。土塁の一部が寺の北側に残っています。石垣が見られますが、高井寺が建立されたときに土塁や空堀を壊した後に作ったもので、屋敷があった当時のものではないとのことです。寺の方に案内していただき高井寺本堂内の福島正則の肖像画の掛け軸を見せていただきました。
徒歩5分くらいの所に福島正則荼毘所跡があります。
須坂駅からバスがあり堀ノ内バス停下車。バス停のすぐ近くに屋敷跡があります。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2023/10/12 21:21
ほんとだ、位置関係おかしいぞ。 (2023/10/04 訪問)
以前、赤い城さんが【城と看板】に投稿されていた、「榎本城」で笑いました。
1185年 小山 宗長さんが築城しました。
侵略され、北条家→上杉家→北条家と翻ろうされたようです。
秀吉さんの北条討伐時の「榎本城」の城主は、近藤 綱秀さん。北条 氏照さんの家臣です。
「八王子城」で綱秀さんは討死しました。
綱秀さんの留守の間に「榎本城」は結城氏に攻められます。
「榎本城」に到着し、一言。
『ほんとだ、位置関係おかしい。』でした。
後ろの説明板は斜めから読み、反対側に移動し読み、と、内容が入ってきません (;´A`)
石碑と説明板の向こうに土塁がありますが、草木が元気で高さが分かりません。
空堀の草木も、深さを教えてくれません。
石碑と説明板を、長時間眺めていただけなのに、笑顔で「榎本城」を後にしたのでありました。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2023/10/12 21:02
二日でなんとか堀きった。土塁はおそらく固めてない。 (2023/10/07 訪問)
菰野城は菰野陣屋とも呼ばれ(土)方雄氏の代に徳川幕府より12000石で菰野の地を与え
られています。元々織田信雄が北伊勢五郡を統治していた時代に雄氏の父、雄久が
菰野を治めていたので雄氏は菰野に返り咲いたことになります。雄氏の妻は織田信雄の
娘の八重姫で、信雄に堀もないような城の主に娘はやれないと言われ、二日昼夜兼行で
幅6mの堀をめぐらし、なんとか輿入れに間に合わせたというエピソードが残っています。
菰野町の金蔵寺といなべ市の光徳寺に城門が移築されており、近鉄湯の山線横には
二重櫓の石垣が残っていると城郭体系には記載があります。菰野町池底の民家には
二重櫓が移築され倉庫に転用されているとありますが未確認です。
補足‥ヒジカタ氏と入力しようとすると不適切な内容とエラーが出ます。ドカ〇じゃ
なくてヒジカタなんですが‥めんどうくさい時代になったものです。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2023/10/12 20:26
2023/10/12 20:11
落ち武者街道と空堀 (2023/09/07 訪問)
千種城は南朝方の武将千種忠顕の息子顕経によって築かれたとされます。比高20mほど
の丘陵に築かれ主郭の周囲に土塁が残ります。東に大きな空堀を配し土橋がかかり
空堀の周囲に土塁が残ります。主郭西側の遺構は不明ですが落ち武者街道の看板
(倒れていますが)につられて降りていくと西の扁平地の間に大きな堀切がかかって
います。西側には城山苑があるのですが、城山苑から県道へ続く道を下っていくと
道沿いに堀切らしきものが見えます。ひょっとするとこのあたりの土地も戦国期の
城域だったのかもしれません。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2023/10/12 15:33
初代伊達朝宗が築いた城 (2023/09/18 訪問)
宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の2日目、平沢城・平沢要害を終えて、福島県へ移動、東北道桑折JCTより新しく出来た東北中央道の伊達中央ICを降りて約1,2kmの伊達氏発祥の地、高子岡城麓駐車場に到着。
駐車場:高子岡城南東麓、亀岡八幡宮鳥居脇に大型バス、普通車のアスファルト舗装、駐車は余裕あり
トイレ:さらに下段の高子岡公園に真新しいトイレあり。
参考資料:城びと、伊達市HP、グーグルマップに依ります。
麓の駐車場から亀岡八幡宮の鳥居を潜って登城、草も刈られて登城は整備されている大変ありがたい、主郭の八幡宮に向かって階段状の畑、多段曲輪のようにも見えるが、観光パンフレットの写真は桃が咲いた時期で素晴らしい景観です、階段を上がって主郭は亀岡八幡宮鎮座(鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請)、更に頂上部には高子20境丹露盤が有り巨石の景観と北西に落ち込む崖からの伊達郡一帯の眺めは素晴らしい、遠くの山腹に桑折西山城を眺める事が出来る、北西麓は桃畑、春の桃の時期、桜の時期が最高でしょう。
南東の麓は最近開発された住宅街、高子岡公園と環境整備されている、公園のトイレは大変ありがたい利用させて頂きました。
源頼朝の奥州合戦で常陸介中村入道念西と4人の子息達の功績により伊達郡を賜り、高子岡城を築き移住し姓を伊達と改めた、この周辺には梁川城、桑折西山城など城館を含め伊達氏の城が多くあります。鎌倉期室町期戦国期を乗り越えて江戸期仙台伊達藩へ飛躍しました。(解説板抜粋追記)
近い時期に「とある煩悩の登場目録」さんが登城されていたのですね、投稿が近場で重なりますが先からの繋がりなので投稿させて頂きます。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2023/10/11 21:46
江戸時代 親子で小芝居 サバイバル (藤堂家) (2023/10/08 訪問)
津城は織田信長の弟の織田信包が築いた城が原点になります。慶長13年(1608)に藤堂高虎が
22万石で入り豊臣氏に対抗して伊賀上野城と津城を大改修します。津城は城下町を含めて極めて
高い防御力を持った城に生まれ変わり、本丸の周囲に広い幅を持った広大な内堀を配しています。
内堀の周囲に二の丸が配され、その周囲を外堀が周回し、その周囲を三の丸が囲みます。城域の
北を安濃川、南を岩田川が流れ天然の要害となし、外堀と岩田川の間には一応区切りがありますが
満潮時には海の水が外堀に流れ込み海城の様相も呈していたようです。コンパクトな構造ながら
十分高い防御力をもっているのですが高虎公はさらに二の丸の東西の水路を南北の川につなげて
三重の堀にしようと考えていたようです。さすがにこれだと堅固な城になりすぎて幕府に目を
つけられてしまうので工事にストップをかけたようですが、高虎公も外様大名という立場で本領を
守るためいろいろ苦心していたようで、跡取りの高次の出来が悪いから自分の死後は国替えをして
いただきたいと家康公に願い出て、逆に家康公から子孫の代まで要衝の地の伊勢を守るようにと
仰せつかっています。うまく高虎公が家康公の言葉を引き出した格好になりますが家康公は高虎公
の息子が阿呆で無いということは御見通しだったようです。その高次公は幕臣達に目をつけられ
ないようにバカ殿の振りを続けていたようですが、小芝居の才は親譲りだったのかもしれません。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2023/10/11 20:46
島津義弘陣跡 強いだけでなく薩摩最高のカリスマ性を持った武将 (2020/01/03 訪問)
島津義弘陣跡 佐賀県唐津市名護屋井樋田(薩摩陣・薩摩山)
島津義弘陣跡は波戸地区の海に突き出した丘陵上に築かれています。陣所の中ではかなり広大で
一つの城と言っても差し支えないほどの容積と規模を持っています。主郭周辺にもいくつも
曲輪があるようで海に向かって延々と石塁が続いており島津氏の本気が伝わってきます。やはり
この人たちは本当に戦が好きなのではないでしょうか? 文禄・慶長の役では義弘氏1万、息子
久保1千と合わせて11000の軍勢で名護屋に参陣しています。薩摩から船が到着せず壱岐には
借り船で渡るなど苦労はしたようですが大陸ではサチョンの戦いで明・朝鮮の大軍を破るなど
大暴れをしています。息子の久保や家臣の多くを失うなど代償は大きかったようですが義弘氏
自身は高いカリスマ性を持った名君として多くの人々から慕われていたようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2023/10/11 20:03
海上に 佇む天守の 美しさ (2020/01/03 訪問)
唐津城は唐津湾に面する満島山に築かれています。江戸時代以前から城塞は有ったようですが
不明な点が多く慶長7年~13年(1602~1608)にかけて寺沢氏によって本格的な城郭となり、
九州の大名たちの協力があったようです。満島山の山頂部一帯が本丸で西側の早稲田佐賀中高
周辺が二の丸で唐津市役所周辺が三の丸になるようです。本来天守は築かれていなかったの
ですが昭和41年5層5階の模擬天守が築かれました。駐車場から南の城内橋を渡っていくと
宝当桟橋があり宝当神社に向かう船が留っています。宝当神社に向かう船には時間の制限が
あるので訪問は余裕をもって行かれると良いと思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2023/10/11 15:59
2023/10/11 15:25
黒田長政陣跡 佐賀県唐津市 (2020/01/03 訪問)
黒田長政陣跡 佐賀県唐津市呼子町殿ノ浦字ミツシリ
黒田長政陣跡は名護屋大橋を東に渡った国道204号線の南側の丘陵に築かれていました。案内板によると、三つの曲輪からなり、北側の大きな曲輪が主郭で、南西と南東にも曲輪があり石塁が一部残っています。黒田長政は文禄・慶長の役では黒田官衛が縄張りした名護屋城の普請奉行を担当し、5000騎を従え朝鮮に渡り平譲(ピョンヤン)城攻めやチンジュ城攻めの戦闘に参加したとのことです。機張(キジャン)城を築城し蔚山(ウルサン)城の戦いでは加藤清正や浅野幸長の救援に活躍したとされています。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2023/10/11 10:24
平沢城は平沢コミュニティセンター (2023/09/18 訪問)
宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪、多賀城の復元南門を両翼版築塀工事中でしたが見学周辺探訪の後、未踏の平沢城へ、東北道田村ICからは3、4km程の近さ、ぎりょうさん刑部さん投稿で車で主郭まで行けるとの事で選択し初探訪しました。
駐車場:平沢コミュニティセンター駐車は十分な余裕です。
参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ、城びと
田村ICから黄金色の田園を通り平沢地区へ、周り角の平沢小学校の北東角の高石垣が要害を訪仏させて登城ワクワク、狭い集落の道を抜けて、ナビ目的地平沢コミュニティセンターへ到着。
当日は月曜日でコミュニティセンターは閉まって居ました、開いていれば資料、トイレの活用と思っていましたが儘ならず。
平沢コミュニティセンターは本丸、一段下がって二の丸かな?コミュニティセンターの隣に真新しい平沢要害跡の解説板、小高い所に「勝岡城跡碑」が立っている。平沢城には別称が有り、平沢要害、勝岡城、平沢館、寝牛館、臥牛館とも言われてる。仙台藩伊達家支配の藩政時は平沢要害としてこの地区支配の要でした。
主郭の西側には広いグラウンドが有り城域は開発されているのでしょうが、主郭の切岸、開発されてグラウンドの名残切岸、城塁、堀の名残が見受けれます。
内屋敷などの名前も残り一部グラウンド、児童遊戯に成っており、主郭周辺は桜の木が植えられて春には見事な景観と成るでしょう。
歴史、概要は平沢要害跡解説板を写真掲載しますのでよろしければ見てください。
人もいなく静かな初登城探訪でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2023/10/11 07:14
【城びと未登録】黒木御所(島根県隠岐郡西ノ島町) (2023/10/07 訪問)
大学2年の夏休み、研究室の山陰旅行以来、41年ぶりに西ノ島に行ってきました。黒木御所もその時以来です。公方様の御所ならば城びと登録物件になりますが、皇族の流罪の地ではそうはいきませんね。でも、黒木御所跡は土塁で囲まれていて城としての趣に満ちています。皮をむかない黒い木で作られた粗末な御所だったから黒木の名がついたこと、御所の前には幕府の見張り番所・見付島があるため別の浜から後醍醐天皇は脱出したとのこと、途中休みを取って腰かけた石が残っていることなど、碧風館にて教えていただきました。大学時代に見ることができなかった摩天崖も見てくることができました。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2023/10/10 23:26
移築の歴史 (2023/09/20 訪問)
8年ぶりの明石城は城外東のエリアからスタートしました。
はじめに明石城の移築門があるという月照寺へ。
“明石といえば日本標準時”、の明石市立天文科学館のすぐ近くです。
坂道をあがると重厚感のある山門が出迎えてくれました。明石城の切手門を移築したそうですが、元々は元和4年に小笠原忠政が徳川秀忠から拝領した伏見城薬医門だったとのこと。明石城は、坤櫓も伏見城からの移築と伝わっています。各地で生き続けている伏見城、すごいです。
近くの伝・宮本武蔵作庭の本松寺や300年以上湧き続ける亀の水にも寄ってみました。
続いて明石神社に展示されている太鼓を見に行きました。明石城太鼓門(現在の明石公園正面入口)に置かれていた太鼓(とき打ち太鼓)です。外からガラス越しに見られるようにしてくださっていてありがたかったです。
城内へは東の丸入口から入りました。左手に箱堀、右手に薬研堀の登城口です。食違いの石垣に東の丸跡へ誘われ、どっちに行こうか迷いましたが、一旦南へ下りて、二の丸の石垣沿い、松平直明公遺愛お茶の水碑のある細い道を巽櫓へ直進しました。二つの櫓をほぼ真横から見る感じがよかったです。
メインの石段と合流して本丸へ。現存三重櫓二基をじっくり味わいました。駅から見える姿も好きですが、近くで見ても立派でかっこいいです。天守台からちょっとだけ見下ろしたアングルがよかったです。
艮櫓と乾櫓はイメージ再建し、桜堀の方へ下りてみました。石垣で堅められてはいますが、お城の堀というよりのどかな公園の池といった雰囲気です。しかし、水面に映る石垣と幻想的な空気感はやっぱりお城の堀でした。
巽櫓と坤櫓のツーショットも素敵だけれど、天守台と坤櫓の並んだ姿もいいものだなぁなど思いながら広場に下りて、公園管理事務所で三重櫓シリーズの城カードを購入し、太鼓門から退出しました。
最後に大通りをはさんだ駅側の「織田家長屋門」へ。
船上城からの移築と伝わるとあり、びっくりでした。
というのも、今回の城旅、1カ所くらい新規ポチしたくて、がんばれば行けそうな船上城を狙っていたのですが、時間切れで行けなかったのです。
最後の最後で船上城と縁のある長屋門にも巡り合えて、よき城旅でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
21人が「いいね」しています。
2023/10/10 22:27
真田昌幸陣跡 生駒親正陣跡 佐賀県唐津市 (2020/01/03 訪問)
真田昌幸陣跡 佐賀県唐津市鎮西町名護屋字永田
真田昌幸陣跡は名古屋城の北西に築かれています。九鬼嘉隆の陣の東200mあたりに位置し、石垣が残っているようです。(確認していません)真田親子で700人ほどを率いており扁平地は墓地となっており、「サエモンサマ」と呼ばれる石碑(墓)が残っており真田信繁(幸村)の墓と伝えられています。
生駒親正陣跡 佐賀県唐津市鎮西町波戸字田中
生駒親正陣跡は玄界国定公園の中の丘陵に築かれていて標高は35.3m、主郭の広さは約60×80mで虎口や石塁を残します。文禄・慶長の役では5000騎を率いて参陣しています。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2023/10/10 22:13
勝山城 (2023/08/19 訪問)
【勝山城】
<駐車場他>勝山市役所駐車場
<交通手段>車
<感想>越前ちょこ城巡りの旅ラストの11城目。勝山城は1580年に柴田勝家の甥(のち養子)の柴田勝安によって築城されます。江戸時代には結城秀康の子らが入封されますが、移封されると廃城になり勝山藩は天領となり陣屋が置かれます。1691年に小笠原氏が2万2千石で入封し築城許可が出て再び築城を開始します。小笠原氏は明治維新まで続き維新後に建造物は取り壊しや払い下げられました。勝山城の位置は現在の勝山市役所の辺りで昭和40年頃まで天守台と石垣が残っていたようで、市民会館建設に伴いその時取り壊されたそうです。
先に城跡の位置・形状も全く異なる模擬天守のある勝山城博物館に行って御城印購入、入館しようかと思ったら入館料1000円の高さ(重文でもないのに)に驚き止めました。しかし模擬天守の巨大さには驚かされ、お金かかっているなあと感じます。一応一見してもよいかと。
次に勝山市役所に城跡碑を撮影しに行ったら、なんと満車!?市民会館で荻野目洋子さんのコンサートを開催していたそうで、駐車もできず道路脇に停車しダッシュで撮影して終了しました。帰路は頭の中でダンシングヒーローがグルグル回っていました( ;∀;)。
これにて今回の旅終了、各御城印の購入(open時間帯)に合わせてちょこ城を北から南下していくルートで巡り、小丸城で終了予定でしたが時間が相当余ったので急遽、伊自良氏館と勝山城を入れ込みました。蓮如の城郭寺院始まりの地である吉崎御坊や府中三人衆という単語も初めて知ったので新鮮でした。631㎞無事走破。
<満足度>◆◇◇
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。